表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/65

第12話 猿と悲劇と通夜

 運命は、残酷である。

 佐藤健司は、そのあまりに陳腐で、しかしあまりに絶対的な真理を、生まれて初めて自らの肌で理解することになった。


 火曜日に大臣のスキャンダルが的中してから、世界は健司の周囲で奇妙な熱を帯びて時を刻んでいた。

 水曜日、木曜日、金曜日。

 彼は夜中、建設現場で汗を流し、昼間はノートPCの画面に食らいついた。デイトレードの勝率は、驚くべきことに、7割近くを安定して維持し始めていた。彼のXのアカウント『@Kabu_no_K』には、日に日にフォロワーが増え続け、今やその数は千人を超えようとしていた。「この人、本物じゃないか?」という囁きが、投資家たちのコミュニティで現実味を帯びて語られ始めていた。


 だが、健司の心は晴れなかった。

 彼の意識の大部分は、もはや株価の変動には向いていなかった。

 彼の心は、常に5ちゃんねるのオカルト板にあった。


【【【本物降臨】】】予知者K ◆Predict/K 総合スレ part.4


 スレッドは、健司が何も書き込まなくても勝手に消費され、すでに4つ目に突入していた。

 その中身は、もはや雑多なオカルト談義ではなかった。

 ただ一つ。

 健司が放った二つ目の予言、【未知予知】に対する期待と恐怖と、そして祈りだけがそこには渦巻いていた。


 551:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします

 金曜日が終わる……。

 今週も、あと二日か……。

 頼む、K。外れてくれ……。


 552:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします

 警視庁のサイト、ずっと見てるけど、都内で立てこもり事件なんて起きてないぞ。

 大丈夫だ。きっと、このまま何も起こらない。

 そうだよな……?


 553:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします

 でも、大臣の件は当たったんだぜ……。

 怖くて仕方ない。

 今この瞬間も、日本のどこかで平和に暮らしている一人のお巡りさんが、あと数日以内に死ぬかもしれないんだぞ……。


 健司は、その匿名の書き込みの一つ一つを、自分の胸にナイフを突き立てられるような思いで読んでいた。

 自分が放った言葉。

 それが、見も知らぬ他人をこんなにも苦しめている。

 彼は、この数日間、ほとんど眠れていなかった。目を閉じれば、あの未来のビジョンが脳裏に焼き付いて離れないのだ。

 コンビニの白い蛍光灯、男の狂気に満ちた目。

 そして、若い警官の腹部に深々と突き立てられる刃物の、鈍い感触。


(やめろ……)


 彼は、何度も頭を振った。

 だが、その光景は消えない。

 彼は、知ってしまったのだ。

 これから起こる悲劇を。

 そして、その悲劇の前で、自分はあまりに無力であるという事実を。

 魔導書が提示した「運命を覆す方法」。

 心を一度バラバラにして再構築するなどという、荒唐無稽な精神論。

 そんなこと、できるはずがない。

 結局、自分はただ一人の人間の死を、高みの見物を決め込むことしかできないのか。

 その罪悪感が、鉛のように彼の心を蝕んでいった。


 そして、運命の土曜日がやってきた。

 健司は、その日、バイトを休んだ。

 彼は、アパートの一室で、ただじっとPCの画面を見つめていた。ニュースサイト、SNSのトレンド。あらゆる情報が、彼の網膜を滑っていく。

 何も起こらない。

 午前が過ぎる。

 昼が過ぎる。

 時計の針が、午後三時を回った。


(……大丈夫だったのか……?)


 このまま、何も起こらずに一日が終わるかもしれない。

 Kの予言は外れた。

 そう、世界が判断してくれるかもしれない。

 そんな淡い希望的観観が彼の胸に芽生え始めた、その瞬間だった。


 ピコン。


 PCの画面隅に表示された、ニュース速報のポップアップ。

 健司の心臓が、大きく跳ね上がった。

 そこに書かれていた見出しは――。


【速報】東京都練馬区のコンビニエンスストアで、男が刃物を持って立てこもり。


「…………あ」


 健司の喉から、乾いた空気が漏れた。

 来た。

 来てしまった。

 震える指で、その記事をクリックする。

 詳細は、まだ不明。

 だが、場所はコンビニ。

 犯人は、刃物を持った男。

 彼のビジョンと、完全に一致していた。


 健司は、椅子から転げ落ちるように、床に膝をついた。

 そして、トイレに駆け込むと、胃の中身を全て吐き出した。

 胃液の酸っぱい匂いが、鼻をつく。

 だが、彼は嘔吐をやめられない。

 罪悪感が、彼の内臓を直接掴んで絞り上げているようだった。


 数十分後。

 テレビの臨時ニュースが、事件の続報を告げていた。

 犯人は、駆け付けた警官隊によって取り押さえられた。

 人質は、全員無事。

 だが――。


『……犯人を取り押さえる際、警視庁練馬署の巡査、田中健太さん26歳が、犯人の男に腹部を刺され、搬送先の病院で死亡が確認されました……』


 アナウンサーの淡々とした声が、健司の鼓膜を通り過ぎていく。

 田中健太、26歳。

 自分と同い年の、見も知らぬ一人の若者の命。

 それが、今、確かに失われた。

 自分の予言通りに。


 健司は、もはや涙も出なかった。

 感情が、死んでいた。

 彼は、幽霊のような足取りでPCの前に戻ると、5ちゃんねるのスレッドを開いた。

 そこは、もはやお祭り騒ぎの場所ではなかった。

 ただ、静かで冷たい絶望だけが支配する、仮想空間のお通夜と化していた。


 スレッドのタイトルは、書き換えられていた。


【【【訃報】】】予知者K ◆Predict/K の予言完全的中【田中巡査殉職】


 850:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします

 ……嘘だろ……。


 851:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします

 当たっちまった……。

 本当に、当たっちまったんだ……。


 852:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします

 田中健太巡査、26歳……。

 ニュースで、顔写真出てるぞ……。

 俺たちと変わらない、若い兄ちゃんじゃねえか……。


 853:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします

(´;ω;`)


 854:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします

 K……。

 お前、これ分かってたのか……。

 こんな辛い未来が来るって分かってて、俺たちに教えてくれてたのか……。


 855:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします

 なんでだよ……。

 なんで、助けられなかったんだよ……!

 回避する方法、あったんじゃねえのかよ……!


 856:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします


 855

 馬鹿、やめろ。

 Kが教えてくれた方法は、不可能だったんだ。

 誰も悪くない。

 ただ、運命が残酷だっただけだ……。


 非難はなかった。

 そこにあったのは、ただやり場のない悲しみと、無力感だけだった。

 健司は、その匿名の嘆きの一つ一つを、自分の心に刻み付けるように読んでいった。

 彼は、初めて理解した。

 自分の力が持つ、本当の重さを。

 それは、金儲けの道具でもなければ、自己顕示欲を満たすためのおもちゃでもない。

 人の人生を、運命を左右しかねない、あまりに危険で、そしてあまりに悲しい力なのだと。


 彼は、スマートフォンのLINEを開いた。

 そして、魔導書にたった一言だけメッセージを送った。

 それは、彼の魂からの叫びだった。


「……誰も救えないなら、この力に何の意味があるんだ?」


 すぐに返信が来た。

 そのテキストは、いつもと同じように冷たく、そしてどこまでも合理的だった。


『……馬鹿め。問いが間違っている』


「……何?」


『お前が今問うべきは、「どうやって目の前の一人を救うか」ではない』


『問うべきは、「そもそも善良な人間が理不尽に死なねばならないこの世界のルールそのものを、どうすれば書き換えられるほどの力を手に入れるか」だ』


 健司は、その言葉の意味が分からなかった。

 世界の理を、書き換えられる?


『お前は英雄ではない、猿』


『お前は、生徒だ』


『そして、お前の本当の授業は、まだ始まったばかりだ』


 魔導書の、そのあまりに壮大な言葉。

 それは、慰めでも激励でもなかった。

 ただの冷徹な事実、そして健司がこれから進むべき道筋を示す道標。


 健司は、PCの電源を落とした。

 部屋は、完全に暗闇に包まれた。

 彼は、その暗闇の中で、一人じっと動かなかった。

 銀行口座に眠る百万円の残高も、Xのフォロワーの数も、もはや彼にとって何の意味も持たなかった。

 彼の心にあったのは、ただ一つ。

 見も知らぬ一人の警官の死、そしてその死の向こう側に広がる、あまりに遠く果てしない道のりだけだった。

 その本当の意味を、彼はまだ知らない。

 だが、その道が血と涙に濡れた茨の道であることだけを、彼はこの日、確かに悟ったのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ