第12話 猿と悲劇と通夜
運命は、残酷である。
佐藤健司は、そのあまりに陳腐で、しかしあまりに絶対的な真理を、生まれて初めて自らの肌で理解することになった。
火曜日に大臣のスキャンダルが的中してから、世界は健司の周囲で奇妙な熱を帯びて時を刻んでいた。
水曜日、木曜日、金曜日。
彼は夜中、建設現場で汗を流し、昼間はノートPCの画面に食らいついた。デイトレードの勝率は、驚くべきことに、7割近くを安定して維持し始めていた。彼のXのアカウント『@Kabu_no_K』には、日に日にフォロワーが増え続け、今やその数は千人を超えようとしていた。「この人、本物じゃないか?」という囁きが、投資家たちのコミュニティで現実味を帯びて語られ始めていた。
だが、健司の心は晴れなかった。
彼の意識の大部分は、もはや株価の変動には向いていなかった。
彼の心は、常に5ちゃんねるのオカルト板にあった。
【【【本物降臨】】】予知者K ◆Predict/K 総合スレ part.4
スレッドは、健司が何も書き込まなくても勝手に消費され、すでに4つ目に突入していた。
その中身は、もはや雑多なオカルト談義ではなかった。
ただ一つ。
健司が放った二つ目の予言、【未知予知】に対する期待と恐怖と、そして祈りだけがそこには渦巻いていた。
551:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
金曜日が終わる……。
今週も、あと二日か……。
頼む、K。外れてくれ……。
552:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
警視庁のサイト、ずっと見てるけど、都内で立てこもり事件なんて起きてないぞ。
大丈夫だ。きっと、このまま何も起こらない。
そうだよな……?
553:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
でも、大臣の件は当たったんだぜ……。
怖くて仕方ない。
今この瞬間も、日本のどこかで平和に暮らしている一人のお巡りさんが、あと数日以内に死ぬかもしれないんだぞ……。
健司は、その匿名の書き込みの一つ一つを、自分の胸にナイフを突き立てられるような思いで読んでいた。
自分が放った言葉。
それが、見も知らぬ他人をこんなにも苦しめている。
彼は、この数日間、ほとんど眠れていなかった。目を閉じれば、あの未来のビジョンが脳裏に焼き付いて離れないのだ。
コンビニの白い蛍光灯、男の狂気に満ちた目。
そして、若い警官の腹部に深々と突き立てられる刃物の、鈍い感触。
(やめろ……)
彼は、何度も頭を振った。
だが、その光景は消えない。
彼は、知ってしまったのだ。
これから起こる悲劇を。
そして、その悲劇の前で、自分はあまりに無力であるという事実を。
魔導書が提示した「運命を覆す方法」。
心を一度バラバラにして再構築するなどという、荒唐無稽な精神論。
そんなこと、できるはずがない。
結局、自分はただ一人の人間の死を、高みの見物を決め込むことしかできないのか。
その罪悪感が、鉛のように彼の心を蝕んでいった。
そして、運命の土曜日がやってきた。
健司は、その日、バイトを休んだ。
彼は、アパートの一室で、ただじっとPCの画面を見つめていた。ニュースサイト、SNSのトレンド。あらゆる情報が、彼の網膜を滑っていく。
何も起こらない。
午前が過ぎる。
昼が過ぎる。
時計の針が、午後三時を回った。
(……大丈夫だったのか……?)
このまま、何も起こらずに一日が終わるかもしれない。
Kの予言は外れた。
そう、世界が判断してくれるかもしれない。
そんな淡い希望的観観が彼の胸に芽生え始めた、その瞬間だった。
ピコン。
PCの画面隅に表示された、ニュース速報のポップアップ。
健司の心臓が、大きく跳ね上がった。
そこに書かれていた見出しは――。
【速報】東京都練馬区のコンビニエンスストアで、男が刃物を持って立てこもり。
「…………あ」
健司の喉から、乾いた空気が漏れた。
来た。
来てしまった。
震える指で、その記事をクリックする。
詳細は、まだ不明。
だが、場所はコンビニ。
犯人は、刃物を持った男。
彼のビジョンと、完全に一致していた。
健司は、椅子から転げ落ちるように、床に膝をついた。
そして、トイレに駆け込むと、胃の中身を全て吐き出した。
胃液の酸っぱい匂いが、鼻をつく。
だが、彼は嘔吐をやめられない。
罪悪感が、彼の内臓を直接掴んで絞り上げているようだった。
数十分後。
テレビの臨時ニュースが、事件の続報を告げていた。
犯人は、駆け付けた警官隊によって取り押さえられた。
人質は、全員無事。
だが――。
『……犯人を取り押さえる際、警視庁練馬署の巡査、田中健太さん26歳が、犯人の男に腹部を刺され、搬送先の病院で死亡が確認されました……』
アナウンサーの淡々とした声が、健司の鼓膜を通り過ぎていく。
田中健太、26歳。
自分と同い年の、見も知らぬ一人の若者の命。
それが、今、確かに失われた。
自分の予言通りに。
健司は、もはや涙も出なかった。
感情が、死んでいた。
彼は、幽霊のような足取りでPCの前に戻ると、5ちゃんねるのスレッドを開いた。
そこは、もはやお祭り騒ぎの場所ではなかった。
ただ、静かで冷たい絶望だけが支配する、仮想空間のお通夜と化していた。
スレッドのタイトルは、書き換えられていた。
【【【訃報】】】予知者K ◆Predict/K の予言完全的中【田中巡査殉職】
850:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
……嘘だろ……。
851:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
当たっちまった……。
本当に、当たっちまったんだ……。
852:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
田中健太巡査、26歳……。
ニュースで、顔写真出てるぞ……。
俺たちと変わらない、若い兄ちゃんじゃねえか……。
853:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
(´;ω;`)
854:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
K……。
お前、これ分かってたのか……。
こんな辛い未来が来るって分かってて、俺たちに教えてくれてたのか……。
855:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
なんでだよ……。
なんで、助けられなかったんだよ……!
回避する方法、あったんじゃねえのかよ……!
856:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
855
馬鹿、やめろ。
Kが教えてくれた方法は、不可能だったんだ。
誰も悪くない。
ただ、運命が残酷だっただけだ……。
非難はなかった。
そこにあったのは、ただやり場のない悲しみと、無力感だけだった。
健司は、その匿名の嘆きの一つ一つを、自分の心に刻み付けるように読んでいった。
彼は、初めて理解した。
自分の力が持つ、本当の重さを。
それは、金儲けの道具でもなければ、自己顕示欲を満たすためのおもちゃでもない。
人の人生を、運命を左右しかねない、あまりに危険で、そしてあまりに悲しい力なのだと。
彼は、スマートフォンのLINEを開いた。
そして、魔導書にたった一言だけメッセージを送った。
それは、彼の魂からの叫びだった。
「……誰も救えないなら、この力に何の意味があるんだ?」
すぐに返信が来た。
そのテキストは、いつもと同じように冷たく、そしてどこまでも合理的だった。
『……馬鹿め。問いが間違っている』
「……何?」
『お前が今問うべきは、「どうやって目の前の一人を救うか」ではない』
『問うべきは、「そもそも善良な人間が理不尽に死なねばならないこの世界の理そのものを、どうすれば書き換えられるほどの力を手に入れるか」だ』
健司は、その言葉の意味が分からなかった。
世界の理を、書き換えられる?
『お前は英雄ではない、猿』
『お前は、生徒だ』
『そして、お前の本当の授業は、まだ始まったばかりだ』
魔導書の、そのあまりに壮大な言葉。
それは、慰めでも激励でもなかった。
ただの冷徹な事実、そして健司がこれから進むべき道筋を示す道標。
健司は、PCの電源を落とした。
部屋は、完全に暗闇に包まれた。
彼は、その暗闇の中で、一人じっと動かなかった。
銀行口座に眠る百万円の残高も、Xのフォロワーの数も、もはや彼にとって何の意味も持たなかった。
彼の心にあったのは、ただ一つ。
見も知らぬ一人の警官の死、そしてその死の向こう側に広がる、あまりに遠く果てしない道のりだけだった。
その本当の意味を、彼はまだ知らない。
だが、その道が血と涙に濡れた茨の道であることだけを、彼はこの日、確かに悟ったのだった。