第11話 猿と的中と運命改変
運命の火曜日。
週が明けて二日目。佐藤健司は、もはや日課となった建設現場での肉体労働を終え、汗と埃にまみれてアパートへの帰路についていた。彼の頭の中を占めているのは、疲労感でも空腹感でもない。ただ一つ、焦燥感にも似た期待と恐怖が入り混じった、複雑な感情だった。
(……まだか)
土曜日に、彼が「予知者K」として5ちゃんねるのオカルト板に投下した二つの予言。そのうちの一つ、【予測予知】。
――来週、日本のとある大臣が金銭スキャンダルによって辞任する。
その「来週」が、もう始まっている。
彼は、月曜日からスマートフォンのニュースアプリの通知が鳴るたびに、心臓が跳ね上がるような思いをしていた。だが、月曜日は何も起こらなかった。スレッドの連中も、「やはりガセだったか」「まあ、よくあること」と、少し白けムードが漂い始めていた。
(本当に当たるのか……?)
あれだけ、絶対的な自信を持って書き込んだ。だが、時間が経つにつれて、その確信はじわじわと不安に侵食されていく。
アパートに帰り着き、シャワーを浴びて、PCの前に座る。Xのアカウント『@Kabu_no_Saru』を開き、今日のデイトレードの戦績を淡々と報告する。プラス一万八千円。勝率は、今日も6割を超えた。もはや、彼の日常にとっては当たり前の光景だった。
だが、彼の心は満たされない。
彼は今、数万円の利益よりも、もっと巨大な世界の反応を待っていた。
その時だった。
PCの画面隅に、ニュースサイトの速報を告げるポップアップが表示された。
【速報】現職国務大臣に、数千万円の政治資金規正法違反の疑い。週刊誌が、明日発売号で詳報。
「…………来た」
健司の口から、乾いた声が漏れた。
心臓が、大きく脈打つ。
彼は、震える指でその記事をクリックした。
記事には、彼が「予測予知」で観測した通りの事実が書かれていた。大臣の名前、不正な金の流れ、そしてその証拠を週刊誌が完全に握っていること。
記事の最後は、「大臣の辞任は避けられない見通し」という一文で締めくくられていた。
健司は、すぐさま5ちゃんねるのオカルト板を開いた。
予言総合スレは、彼の想像を遥かに超える熱狂の渦に包まれていた。
スレッドのタイトルは、すでに熱心な誰かによって書き換えられている。
【【【本物降臨】】】予知者K ◆Predict/K 総合スレ part.2【大臣スキャンダル完全的中】
「……パート2だと?」
彼が書き込んでから、まだ三日しか経っていない。なのに、すでにスレッドは千の書き込みを超え、二つ目に突入していたのだ。
彼は、恐る恐るそのお祭り騒ぎのスレッドを覗き込んだ。
1:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
来たああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!
Kの予言、マジで当たったああああああああああ!!!!!!
2:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
マジかよ、おい! 本当に首飛びそうじゃねえか!
まだ辞任はしてないけど、「首寸前」ってのは完全に的中だろ!
3:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
予知者K!!!! 凄いですよ!! 見てますか!? 的中ですよ!!!!
4:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
いや、待て、落ち着けお前ら。
こいつがたまたま情報を事前に掴んでた週刊誌の関係者だったりしたら、それなら予知でもなんでもないかもしれんし……
5:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
4
馬鹿!!!! 本物だよ!!!!
あのタイミングで、ここまで完璧に言い当てられるか、普通!
俺はもうK様を信じるぜ!
賞賛、興奮、そしてわずかな疑念。
匿名掲示板のカオスな熱気が、健司の肌を焼くようだった。
彼は、自分がもはやただの佐藤健司ではいられなくなったことを、実感していた。
彼は、「予知者K」という巨大な偶像になりつつあったのだ。
その時、ポケットのスマートフォンが震えた。
魔導書からだった。
『ふん。まあ、当然の結果だな。猿でも、俺様の言う通りにすれば、この程度のことは出来て当たり前だ』
そのいつもながらの尊大な物言い。
だが、そのテキストの奥に、ほんのわずかな満足感が滲んでいるのを、健司は感じ取った。
『どうだ、猿。自分の言葉で世界が動くというのは、いい気分だろう?』
「……ああ」
健司は、素直に認めた。
「気分はいい。最高だ」
『だがな、猿。これで終わりじゃない。むしろ、ここからが始まりだぞ』
魔導書のその言葉と同時に、掲示板の雰囲気が少しずつ変わっていくのを、健司は感じていた。
最初の大臣スキャンダル的中の興奮が少しずつ収まっていくと、人々は次に、もう一つのより恐ろしい予言のことを思い出したのだ。
358:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
……なあ、お前ら。
大臣の件が当たったってことはさ……。
もう一つの予言も、当たるってことだよな……?
359:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
……やめろよ。その話は……。
360:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
【未知予知】……立てこもり事件で、警官が一人死ぬってやつか……。
しかも、確実に今週中に死ぬ運命とか……。
さすがに辛すぎるだろ……。
361:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
おい、K! 見てるんだろ!
その人、助ける方法とかないのかよ!?
あんた、本物の予言者なんだろ!?
何か、回避する手段とかないの!?
その切実な問いかけ。
それは、スレッドにいる全員の総意だった。
健司は、胸が締め付けられるような思いだった。
そうだ。大臣のスキャンダルなど、どうでもいい。
これから、一人の人間が死ぬかもしれないのだ。
それも、自分の予言通りに。
健司は、たまらず魔導書にメッセージを送った。
「おい……。なあ、こう言ってるけど……本当に、回避する手段とかないのか?」
魔導書からの返信は、意外なものだった。
『……あるぞ』
「――あるのかよ!!」
健司は、思わず声を上げた。
「あるなら、教えろよ! 早く!」
彼は、必死に文字を打ち込んだ。
「俺が、それを書き込むから!」
『……ふん。まあ、良いだろう。だが、言っておくが、これは気休めにしかならんぞ』
『お前が観測した通り、あの警官の一週間後の“死”は、ほぼ確定している強力な因果だ。それを覆すのは、不可能に近い』
「いいから、とりあえず教えろ!」
『やれやれ。猿のお節介も、ここまで来ると滑稽だな』
魔導書は、呆れながらもその「運命を覆すための方法」を語り始めた。
それは、健司の想像を遥かに超えた、あまりに過酷で、そしてあまりに純粋な精神の闘争だった。
『いいか、猿。まず第一に、その者は自らの死の運命を、完全に受け入れ、覚悟する必要がある』
「覚悟……?」
『そうだ。「自分は一週間後に死ぬのだ」と。その絶対的な未来を、一切の恐怖も絶望も感じることなく、ただ事実として受け入れる。魂のレベルでだ』
『そして、一度完全に諦める。死という運命を、受け入れるんだ』
健司は、言葉を失った。
それが、運命に抗う第一歩だとは、到底思えなかった。
『だが、それで終わりじゃない。ここからが本番だ』
『完全に運命を受け入れたその静かな魂の水面で、しかし、その後全く逆の意志を燃え上がらせるんだ』
『「だが、それでも俺は生きる」と』
『「こんなくだらない運命など、俺がこの手で蹴飛ばして前に進んでやる」と。その絶対的な生への渇望、決意を見せるんだ』
『一度死を受け入れ、完全に諦観の境地に至った魂が、そこから反転し、猛烈な生への意志を見せる。そうして初めて、世界の強固な運命の因果律に、ほんのわずかな亀裂を入れることができる!』
『……分かるか、猿? その難易度が』
魔導書は、最後にこう締めくくった。
『それはな、例えるなら、目隠しをしたまま自分の心を一度完全にバラバラに分解して、それをたった一つのミスもなく、完璧にもう一度組み立てるぐらいの覚悟と精神力が必要だということだ』
健司は、もはや何も言えなかった。
不可能だ。
そんなこと、人間業では絶対に不可能だ。
それは、もはや精神論ですらない。神の領域の所業だった。
『……どうする、猿? これを、そのままあの掃き溜めに書き込むか? 絶望している連中に、さらなる絶望を与えるだけかもしれんぞ?』
魔導書の問いかけ。
健司は、しばらく黙り込んでいた。
そして、彼はゆっくりとキーボードに指を置いた。
「……書くよ」
たとえ、気休めにしかならなくても。
たとえ、不可能だと分かっていても。
ゼロではないのなら。
それを伝えないのは、ただの自己満足だ。
彼は、心を無にして、魔導書に教わったあまりに残酷な救済の方法を、掲示板に書き込んでいった。
予知者K ◆Predict/K
……回避する方法についてですね。
ゼロでは、ありません。
ですが、それは不可能に近い道です。
これからその方法を書きますが、これはただの気休めだと思ってください。
運命を覆す方法。
第一に、まず自らの死の運命を完全に受け入れ、覚悟すること。
「自分は死ぬのだ」という未来を魂のレベルで受容し、一度完全に諦めること。
第二に、その完全な諦観の境地から、しかし、全く逆の意志を燃え上がらせること。
「だが、それでも生きる」と。
「運命など、この手で蹴飛ばして前に進む」と。
その絶対的な決意を見せること。
その二つの相反する意志が魂の中で両立して初めて、運命の因果律に亀裂が入ります。
……必要な覚悟は、例えるなら「目隠しで自分の心をバラバラに分解してノーミスで全て組み立てる」くらいでしょうか。
これが、私にできる唯一の助言です。
健司は、投稿ボタンをクリックした。
直後。
スレッドは、彼の想像を絶する阿鼻叫喚の坩堝と化した。
980:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
……は?
981:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
おい、K……。なんだよ、それ……。
982:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
無理ゲーじゃねーか!!!!!!!!
そんなことできる奴いるわけねえだろ!!!!
983:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
心を、バラバラに……?
なんだよ、その意味不明な精神論!
ふざけんじゃねえぞ!
984:以下、名無しにかわりましてオカルトマニアがお送りします
……つまり、結局あの警官は死ぬしかないってことかよ……。
K、お前、残酷すぎるだろ……。
非難、絶望、怒号。
スレッドは、健司が投下したあまりに過酷な希望によって、完全に崩壊した。
彼は、その匿名の悲鳴の奔流を、ただ無言で見つめていた。
自分は、とんでもないことをしてしまったのではないか。
その罪悪感が、彼の胸を締め付ける。
『……気にするな、猿』
魔導書の声が響く。
『お前は、ただ事実を告げただけだ。それに、ゼロじゃないと言ったのは、お前自身だろうが』
そうだ。
ゼロじゃない。
たとえそれが、どれほど絶望的な確率であろうとも。
健司は、ブラウザを閉じた。
もう、彼にできることは何もなかった。
あとは、ただ運命の針が進むのを待つだけだ。
一人の警官の命のタイムリミットが、刻一刻と迫っていた。
その週末、健司はほとんど眠ることができなかった。