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俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します  作者: パラレル・ゲーマー


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第104話 猿と常連客と百万ドルの記憶

 昼下がりの建設現場は、鉄とコンクリートの匂い、そして男たちの汗の匂いで満ちていた。クレーンの唸る音、金属がぶつかり合う甲高い響き。

 その喧騒の中心で正午を告げるサイレンが鳴り響くと、それまで機械のように動いていた作業員たちの身体から一斉に力が抜けた。待ちに待った昼休みだ。


「よーし、飯飯!」


 ヘルメットを脱ぎ捨て、汗まみれの顔をタオルで乱暴に拭いながら、男たちは地べたに車座になっていく。その中心には、いつものようにこの現場のムードメーカーである武田が、どかりと胡坐をかいていた。

 年の頃は五十代半ば。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、その腕は丸太のように太い。若い頃からこの肉体一つで飯を食ってきた叩き上げの職人だった。


「親父さん、今日もいい汗かきましたね!」


 若い作業員の一人、タカシがペットボトルのお茶を差し出しながらニカッと笑う。武田は「おう」と短く応えると、コンビニで買ってきたであろうカツ丼の弁当の蓋を勢いよく開けた。

 汗を流した後の安い飯。それが彼の人生にとって何よりのご馳走だった。


「うおっ! マジかよ! K、またやったぞ!」


 車座の端でスマホの画面を食い入るように見ていた別の若い作業員、マサルが、突然素っ頓狂な声を上げた。その声に、車座の全員の視線が集まる。


「どうしたマサル。またお前の好きなアイドルの熱愛報道か?」


「違いますよ! 預言者Kです! 昨日の夜、渋谷でなんかスゲー事件解決したらしいっすよ! ネットニュース全部これです!」


 マサルが興奮したようにスマホの画面を皆に見せる。そこには規制線が張られた渋谷の街並みと、「英雄K再び奇跡を起こす!」といった扇情的な見出しが躍っていた。


「K、Kって、お前らすっかり信者だな」


 タカシが呆れたように茶々を入れた。


「まあ先日の『手相スペシャル』は、うちの嫁さんも『あのKさんって人素敵ねえ』なんて言って泣いてたけどよ。俺には、何が良いんだかさっぱり分からん」


 その言葉に、他のベテランたちも頷く。


「だよな。今時の若い兄ちゃんだろ?」

「急に出てきて偉そうによ。胡散臭えったらありゃしねえ」

「どうせ裏でヤクザとでも繋がってんだろ。インサイダー取引ってやつだ」


 大人たちの会話。マサルはむきになって反論した。


「違いますよ! Kさんは本物です! 俺、この前の競馬のG1レース、Kさんがテレビでポロッと言ってた馬券買って、三万勝ちましたもん!」


「おおマジかよ!」

「だろ!? Kさんは神なんだよ!」


 そのあまりに純粋な信仰心。健司が聞けば赤面するであろうその会話を、武田はただ黙って、しかしどこか誇らしげな笑みを浮かべて聞いていた。

 彼はゆっくりと食後の一服に火をつけた。紫煙が秋の乾いた空へと立ち上っていく。


「そういや親父さん」


 茶化すようにタカシが武田に話を振った。


「最近全然、競馬の話しないじゃないすか。昔は給料日になったら『おうタカシ! 今週の大穴はこれだ!』なんて言って、俺たちにまで無理やり馬券買わせてたのに。どうしたんすか? ついに奥さんに財布握られたんすか?」


 その遠慮のない揶揄に、車座にどっと笑いが起きた。

 武田はその笑いを意に介する様子もなく、タバコの煙をゆっくりと空へと吐き出した。

 そして彼は、これ以上ないほど満足げな顔で静かに、しかしはっきりと告げた。


「ああ。……もうやめたんだよ、競馬は」


 シーン……。


 笑い声がぴたりと止んだ。

 全員が信じられないという顔で武田を見つめている。


 武田が競馬をやめる。

 それはこの現場の人間にとって、太陽が西から昇るのと同じくらいありえない出来事だった。


「な、なんでです?」


 タカシが恐る恐る尋ねた。

 武田は短くなったタバコの火を携帯灰皿の中でもみ消した。

 そして彼は、まるで古の伝説でも語るかのように、あの日々の記憶をゆっくりと紡ぎ始めた。


「俺の競馬人生はな。……もう終わったんだよ。……最高の形でな」


 その日、俺たちの現場にひょろりとした人の良さそうな兄ちゃんが、日雇いのバイトでやって来たんだ。

 名前は佐藤健司とか言ったかな。色白で運動なんて全くしたことなさそうな見た目なのに、そいつがとんでもねえ力持ちでな。ベテランの俺たちが二人掛かりでヒーヒー言いながら運ぶコンクリートの塊を、そいつは一人でひょいと、まるで発泡スチロールの箱でも運ぶみてえに軽々と運んじまう。

 初日で現場は大騒ぎさ。あっという間にそいつのあだ名は「スーパーマン」になった。


 俺はそいつが気に入った。無口で少し気弱そうだったが、その目の奥には真面目な一本筋の通った光があったからな。

 昼休み、俺たちの車座に混じって美味そうにコンビニの弁当を食ってるそいつに、俺は声をかけたんだ。

「兄ちゃん、休みの日とか何してんだ?」ってな。


 そしたらそいつは少し照れくさそうに、

「いや、特に何も……。まあ競馬場に行って馬を眺めてるくらいですかね」

なんて言うんだ。


 競馬だと?

 俺のアンテナがピクリと動いた。


「へえ、兄ちゃんも競馬やるのか。良いじゃねえか。じゃあ今週はどいつが来ると思う?」


 俺が食いつくように聞くと、そいつは困ったように頭を掻いた。


「いや俺、賭けないんですよ。ただ馬を見てるだけで……。どの馬が勝つか一人で予想してるだけです」


 賭けない競馬。

 そんな坊主の説法みてえな楽しみ方があるのか。


 俺は呆れると同時に……いや、むしろだからこそ、そいつの「勘」ってやつに強烈に惹きつけられた。


 俺はもう何十年も競馬で負け続けてた。給料日の度に数万、時には十数万と突っ込んでは、その全てをJRAに寄付し続けてきた。家族には呆れられ、自分でももう才能がねえんだってことは分かってた。

 だが、やめられなかった。


 いつかいつか一発デカいのを当てて、この惨めな人生をひっくり返してやる。その夢だけが俺を支えてた。


 だから俺は、その兄ちゃんに賭けてみたくなったんだ。

 俺みてえな欲にまみれた人間の予想じゃない。賭け事の汚れを知らねえ素人のまっさらな「勘」。……いわゆる「ビギナーズラック」ってやつにな。


「どうだい兄ちゃん。今度俺が競馬場に行く時、兄ちゃんのその“勘”ってやつを一つ教えてくれやしねえか? 俺はその兄ちゃんの勘にドカンと賭けてみたいんだ!」


 俺のその無茶苦茶な頼みに、そいつは最初目を丸くして戸惑ってた。

 だが俺のその必死な形相に根負けしたんだろうな。


「……まあ参考にするくらいなら……」


と、力なく頷いてくれたんだ。


 約束の日曜日。俺は朝からそわそわしていた。前日に銀行のATMで下ろした、なけなしの貯金十万円。それを分厚い封筒に入れて懐に忍ばせる。

 府中競馬正門前駅で待ち合わせた兄ちゃん……健司は、俺のはしゃぎっぷりとは対照的に、どこか緊張で顔を強張らせていた。


 その日のメインレース。俺たちは人でごった返すパドックにいた。これから走る馬たちが目の前をゆっくりと周回している。


「さあて兄ちゃん。どいつだい? 俺たちに札束を運んできてくれる幸運の女神ちゃんはよ」


 俺が下卑た笑いでそう言うと、健司は何も答えなかった。

 彼はただ、ゆっくりと目を閉じた。


 その横顔。

 俺は今でも忘れられねえ。


 いつもの気弱で人の良さそうな兄ちゃんの顔じゃなかった。

 まるで神様とでも話しているみてえな……どこか神々しい……巫女みてえな顔だった。


 数分経っただろうか。彼はゆっくりと目を開けた。その瞳には、もう一切の迷いはなかった。そこにあるのは、絶対的な確信の光だけだった。


 彼はパドックの一点を指差した。そこにいたのは18頭立ての11番人気。ほとんどの競馬ファンがノーマークの、ただの穴馬だった。


「……あの馬です。3番。単勝で」


 俺は目を丸くした。


「さ、3番……? 兄ちゃん本気か? こいつぁ前走大敗してる、ただの穴馬だぞ……?」


「ええ。本気です」


 健司のその揺るぎない瞳。

 俺はごくりと喉を鳴らした。そして彼は続けたんだ。


「親父さん。このレース当たります。俺の予想は100%当たります」


と。


 神の託宣だった。

 俺はもう迷わなかった。人垣をかき分け、券売機に向かって夢中で走った。


 緑色の小さな紙切れを握りしめて戻ってくる。


「買ってきたで! 3番の単勝にきっちり十万円ぶち込んできたわい!」


 その潔すぎる俺の行動に、健司はもはや笑うしかなかった。

 だがその笑顔には、確かな自信が溢れていた。


 ファンファーレが鳴り響く。ゲートが開き、18頭の馬が一斉に緑のターフへと飛び出していく。地鳴りのような蹄の音と、数万人の怒号みてえな歓声。


 健司が指名した3番の馬は、出遅れ気味に後方からのレース展開となった。


「おおい兄ちゃん! 大丈夫かありゃ!」


 俺が焦って叫ぶ。

 だが健司は動じなかった。ただまっすぐに、レースの行方を見つめている。


 そして運命の最後の直線。


 大外から、一頭だけ全く次元の違う末脚で飛んでくる馬がいた。

 芦毛の美しい馬体。ゼッケン3番。


「―――いけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!」


 隣で健司が、生まれて初めて出すみてえな腹の底からの絶叫を上げていた。

 その声に俺も我を忘れて叫んだ。


「差せぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」


 ゴール前。粘る人気馬を……クビ差……差し切っていた。


 一瞬の静寂。

 そして次の瞬間、スタンドのあちこちから悲鳴とどよめきが沸き起こった。


 大波乱。

 ターフビジョンに映し出された単勝の配当金は―――。


「20.5倍」


 俺は固まっていた。

 その手には、緑色の小さな紙切れが握られている。


 十万円が……20.5倍。

 二百五万五千円。


「―――ううおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」


 俺の絶叫が、府中の空に木霊した。


 涙が止まらなかった。

 金が手に入ったからじゃねえ。


 何十年も何十年も負け続けてきた俺のこの惨めで救いようのなかった競馬人生が……この一瞬で……全て報われた。……そう思えたんだ。


 武田はその壮大な自慢話を終えると、まるで千両役者が芝居の幕を下ろすかのように、満足げに息を吐いた。

 車座にいた若い作業員たちは皆、開いた口が塞がらないといった顔で呆然と彼を見つめていた。


「……ま、マジかよ親父さん……。そんなことあったんすか……」


 タカシが震える声で呟いた。


「じゃあ……あの時の日雇いの兄ちゃんが……今のテレビの……『K』……?」


 マサルの問い。

 武田は静かに頷いた。


「ああ。そうだ」


 彼はそう言ってニカッと笑った。その顔には一点の曇りもなかった。


「だからもう俺は賭ける必要がねえんだよ」


 彼の声は、どこまでも晴れやかだった。


「俺の競馬人生はな。……あの日、あの瞬間のためにあったんだ。きっと競馬の神様が最後にくれたでっけえご褒美みてえなもんだ。……あの二百万の記憶だけで、俺はもう一生美味い酒が飲める」


 彼はギャンブルの勝ち負けというちっぽけな世界からは完全に卒業したのだ。

 彼の心を満たしているのは、金への執着ではない。


 ただ一つの黄金の記憶。

 それだけで十分だった。


 その時だった。


 マサルのスマートフォンから、テレビのニュース速報の音声が流れ始めた。

 それは昨夜、渋谷で起きた「謎のガス爆発事故」の特集だった。


 画面には、規制線が張られ騒然とする渋谷の街並みと……瓦礫の中で必死に人々を救助する一人の青年の、不鮮明な映像が映し出されていた。


『―――この混乱の中、いち早く現場に駆けつけ多くの人々を避難誘導し二次災害を防いだ一人の勇敢な青年の姿が目撃されています。ネット上では、この青年こそが「預言者K」本人ではないかと話題になっており―――』


 武田はその画面を……その泥と埃にまみれながらも必死に誰かを助けようとする青年の姿を……眩しいものを見るような目つきで見つめていた。


 それは確かに、あの日の気弱で人の良かった健司の面影を残していた。

 だが、その瞳に宿る光は……あの時とは比較にならないほど強く、そして大きく輝いていた。


「……俺が競馬で当てたあの金はよ」


 武田はぽつりと呟いた。

 その声は、誰に聞かせるでもない独り言のようだった。


「……きっとあいつがああやって……誰かを助けるための……軍資金の一部にでもなったんだろうよ」


 彼のその言葉に、嘘も偽りもなかった。


「俺はあいつに夢を託したんだ」


 彼はそう言うと立ち上がった。昼休みは終わりだ。


「だから今の俺の楽しみは競馬じゃねえ。……テレビの中であいつがどれだけでっかい男になるのか。……それをただ見守ることさ」


 昼休みが終わり、作業員たちはそれぞれの持ち場へと戻っていく。

 武田は一人、最後に空を見上げた。


 雲一つない抜けるような秋の青空。


「……頑張れよ、兄ちゃん」


 彼のその小さな呟きは、誰の耳に届くこともなく……クレーンのけたたましいエンジン音にかき消され……どこまでも高い青空へと吸い込まれていった。

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― 新着の感想 ―
気付けば現場仕事もしなくなったもんなぁ 親父さんいい人だー
ちょっとほっこりした。なつかしい親父さん
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