第103話 鷲と呪物と死者の理
東京・赤坂。
米国大使館に隣接する、何の変哲もないオフィスビル。
その最上階、分厚い防音壁と最新鋭の対電子諜報システムによって外界から完全に遮断された一室に、MAJESTIC-12(マジェスティック・トゥエルブ)極東支部のオフィスは存在した。
壁も床も、そして中央に置かれた無機質なカンファレンス・テーブルも、すべてが機能性と合理性のためだけにデザインされている。
ヤタガラスが持つ古都の寺のような静謐さとは対極にある、冷たく、そしてどこまでもドライな空間。
ニコラス・ケイジは、そのカンファレンス・テーブルの末席に座り、目の前の空間に浮かび上がるホログラムを見つめていた。
彼の視線の先、テーブルの向こう側には、アメリカ本国のエリア・デルタにいるMAJESTIC-12最高司令官、マーカス・ソーン将軍の厳めしい上半身が、実物と見紛うほどの解像度で映し出されている。
年に数度しか開かれない、最高レベルの機密回線を用いた定例報告会。
その張り詰めた空気は、ケイジがFBI時代に経験したどんな捜査会議よりも重く、彼の肩にのしかかっていた。
「――以上が、ここ一ヶ月の日本国内における因果律改変の動向です、将軍」
ケイジは、あらかじめ用意していた報告書の要点を、淀みなく、そして淡々と読み上げた。
日本の大学を拠点とする謎の組織「変革の種蒔人」の存在。
予知者K――佐藤健司との共同捜査。
能面の男・桐生との遭遇と、その後の京都での「鬼の手」強奪事件。
彼は、自らがこの異質な世界に足を踏み入れてから経験した、あまりに濃密な日々を客観的な事実として再構成し、報告義務を果たしていた。
『うむ。ご苦労だったな、ケイジ君』
ホログラムの向こう側、ソーン将軍の声が、わずかな遅延をもってスピーカーから響き渡った。
その声には、労いの響きと共に、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。
『問題は、敵が「鬼の手」とやら、そして詳細不明の多数の呪物を確保したということだ。
我々のデータベースにも、これに該当する「戦略級アーティファクト」の記録はない。……呪物とは、アメリカでは馴染みのない代物だからな。ケイジ君はイマイチ、ピンと来ていないんではないかね?』
その全てを見透かすかのような問い。
ケイジは背筋に冷たいものが走るのを感じながらも、正直に頷いた。
「ええ、そうですね、将軍。呪物……。名前の通りだと、呪いの掛かった品、程度の認識ですが……」
FBI時代、彼は数々の猟奇事件を捜査してきた。
呪いの人形、悪魔の儀式、そういったオカルトじみた現場も、嫌というほど見てきた。
だが、それらは全て人間の歪んだ精神が生み出した妄想の産物だと、彼は信じていた。
――この世界に来るまでは。
今、目の前の男が語ろうとしているのは、そんな生半可なオカルトではない。
この世界の物理法則そのものを捻じ曲げる、「本物」の呪いの話だ。
『うむ。君のその健全な懐疑主義は、エージェントとしての美徳だ。だが今この瞬間だけは、その常識を捨ててもらおう』
将軍の背後に控えていた技術分析部門のトップ、ドクター・アリス・ソーンが、一歩前に出た。
彼の指が空中のホログラムを操作すると、ケイジの目の前に、古びた巻物や禍々しいオーラを放つ仮面、そして血に濡れた刀といった様々な物品の三次元モデルが浮かび上がった。
『呪物とは、過去に存在した強力な能力者の魂のような物だ。……厳密に言えば魂のコピー……その能力や記憶、人格といった情報を、魔術的に転写・保存した「記録媒体」と言うべき代物だがな』
「魂のコピー……」
ケイジの口から、乾いた声が漏れた。
それはもはやオカルトではなく、SFの領域だった。
『そうだ』
アリスは静かに頷いた。
『そして、その「記録媒体」は、使い方次第で様々な効果を発揮する。
例えば、熟練の術師が呪物を利用すれば、自己の能力を一時的に強化するためのブースターとして使える。
あるいは、過去の能力者が持つ知識や技術を、自らの脳にダウンロードすることも可能だ。……そして、最も危険な使い方が、過去の能力者の「復活」だ』
「そんなに危険な物なんですか? 死者蘇生ですか?」
『厳密には、魂の「破片」を死んだ人間に「上書き」するものだがな』
将軍が、重々しく口を挟んだ。
『まあ、実質、死者蘇生もできる。この世界では死者は蘇るのだよ、ケイジ君。……不完全な形でな』
「なんてことだ……」
ケイジは言葉を失っていた。
彼が信じてきた死生観そのものが、根底から覆される。
「……つまり敵の戦力は……?」
『その呪物で蘇生した過去の能力者次第だが……』
将軍の声が、さらに低くなる。
『最悪の場合、歴史上の伝説級の異能者たちで構成された、強力な能力者の集団が出来上がっていると想定した方がいいな。……我々がこれまで相手にしてきた、どのテロ組織とも比較にならん。……文字通り、百鬼夜行だ』
百鬼夜行。
その東洋の古めかしい言葉が、ケイジの耳に現実の脅威として突き刺さった。
敵は、ただ鬼の腕という一つの爆弾を手に入れただけではない。
過去の亡霊たちを自らの軍勢として使役する、死の軍団を組織しようとしているのだ。
そしてその脅威と、自分はこれから、この日本という異国の地で対峙しなければならない。
たった一人で。
『……ケイジ君は無能力者だ』
将軍の厳しい、しかしどこか気遣うような視線が、ケイジを捉えた。
『もしもの時は退避が懸命だ。……君の任務は、あくまで情報の収集とヤタガラスとのパイプ役。……死ぬことではない』
その言葉は、合理的な命令だった。
だがケイジの心の中で、何かがそれに強く反発した。
彼の脳裏に、あの夜の光景が蘇る。
歪んだ空間の中、魔力を封じられてなお、ただ己の拳一つで神速の敵に立ち向かっていった、あの男の背中。
佐藤健司。
自らがまだ持ち得ない「力」を持ちながら、自分と同じように悩み苦しみ、そしてそれでも前に進もうとする、不器用な相棒。
彼を一人、あの戦場に残して自分だけが逃げる?
冗談じゃない。
「分かりましたが、お断りですね」
ケイジは静かに、しかしきっぱりと言い放った。
彼のその予期せぬ反逆に、ホログラムの向こう側の将軍とアリスの顔に、わずかな驚きが浮かんだ。
「俺はもう当事者です」
ケイジは続けた。
その声は震えていなかった。
「あの夜、俺は確かにこの世界の『現実』を見ました。そして共に戦う仲間を得た。……もはや、ただの連絡員として高みの見物を決め込むつもりはありません。……俺もこの駒の一つとして、最後まで戦います」
それはFBIの刑事でもなく、マジェスティックのエージェントでもない。
ただ一人の男、ニコラス・ケイジとしての魂の誓いだった。
数秒の沈黙。
やがてソーン将軍の口元に、満足げな、そしてどこか誇らしげな笑みが浮かんだ。
『……そうか』
彼は静かに言った。
『……ならば無理はするなよ』
その一言だけで、全てが伝わった。
不干渉。
だが信じて見守る。
それがこの男のやり方なのだ。
『では君は、引き続きヤタガラスとのパイプ役として行動してくれ』
将軍の声が、いつもの司令官のそれに戻っていた。
『鬼の手事件は君に任せた。……マジェスティック極東支部が君の全権をバックアップする。……必要なものは何でも要求しろ。……健闘を祈る』
その言葉を最後に、ホログラムはすっと音もなく消えた。
カンファレンス・ルームに、再び静寂が戻る。
報告会は終わった。




