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俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します  作者: パラレル・ゲーマー


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第102話 猿と呪印と観測の壁

 血と汗の匂いが染み付いたトレーニングウェアを脱ぎ捨て、熱いシャワーがその日の激闘の記憶を洗い流していく。


 リビングに戻り、プロテインシェーカーを一気に呷る。合成甘味料の、どこか人工的な甘さが疲労困憊の身体に染み渡っていく。広すぎるリビングのソファに深く身体を沈め、大きく息を吐き出す。心地よい筋肉の軋みと、魂の奥底で燻る満たされぬ渇望。もっと強く。もっと、あの領域へ。その思いが、彼の日常を駆動させる唯一のエンジンだった。


 その戦士の束の間の休息を破るかのように。

 静寂を切り裂いて、彼の脳内に直接あの忌々しい声が響き渡った。


『猿。久々に、俺様の直々の授業の時間だ』


 健司は、うんざりしたように目を開けた。声の主は言うまでもなく、彼の魂の師であり最悪の家庭教師である魔導書。その声が聞こえる時、それは平穏な夜の終わりと、新たなる地獄の始まりを告げる合図だった。


「……なんだよ」


 健司は天井を仰いだまま、億劫そうに答えた。


「今日はもう終わりだろ。斎藤会長にしごかれて、もう指一本動かす気力も残ってないんだぞ、俺は……」


『貴様のその芸のない喧嘩殺法にも飽きてきた。少しは、頭を使え』


 魔導書は健司の懇願など意にも介さず、本題を切り出した。


『戦力アップのため、自宅で【脆弱性の刻印フラクチャー・スタンプ】の遠隔化を訓練するぞ』


「遠隔化……!」


 その言葉に、健司はソファから飛び起きた。疲労感は一瞬で吹き飛び、代わりにアドレナリンが全身を駆け巡る。


【脆弱性の刻印】。触れた対象の因果構造を解析し、その急所を穿つ必殺の布石。リンゴを塵へと変え、星野航の絶対防御『王の玉座』すらも打ち破った、彼の奥の手。あれを触れずに使えるようになれば――。


 格上の敵との戦闘において、自らが懐に潜り込むという最大のリスクを冒す必要がなくなる。遠距離から一方的に相手の防御を無力化し、その上で必殺の一撃を叩き込む。それができれば、彼の戦闘スタイルは根底から覆り、生存率は飛躍的に向上するはずだ。


 だが、その興奮も束の間、健司の脳裏には冷静な分析が浮かび上がる。彼は腕を組み、唸った。


「うーん……見るだけで付与する、ね……。今の俺には少し難しいな……」


【過去視】は、まだ「接触」という物理的なキーがなければ、その真価を発揮できない。見るだけで対象の内部構造までを詳細に読み解くなど、できる気がしなかった。それはまるで、レントゲン写真も撮らずに患者の体内の病巣を正確に言い当てろと言われているようなものだ。


『……ふん。【時間鎖の呪い】と同じだがなぁ。あの感覚でやれば出来るはずだが、猿には厳しいか』


 魔導書は溜息をついた。その声には、心底がっかりしたような響きがあった。


「うるさいなぁ!」健司はむきになって反論した。「魔眼は、ただ『動きを鈍らせろ』っていう単純な命令を視線に乗せるだけだろ!? でもフラクチャー・スタンプは違う! まず、相手の構造情報を遠隔で読み取って、その中から最も脆い部分……弱点を見つけるか、あるいは無理やり作り出す過程が必要なんだ! 予知とは比べ物にならないくらい精密な情報解析なんだよ! それを触れずに遠隔でやるのは、めちゃくちゃ難しいんだよ!」


 その魂からの叫び。それは挑戦する前から、そのあまりの難易度に心が折れかけている、彼の偽らざる本音だった。


「で? どうやって訓練するんだ? 何か特別な方法があるのか?」


『そうだな』魔導書は焦らすように、少しだけ間を置いた。『簡単な方法としては……【霊眼】を使うのもありだぞ』


「霊眼?」


 健司は、そのあまりに意外な言葉に首を傾げた。「どうしてそこで霊眼が出てくるんだよ。あれは幽霊とか、魔力の流れを見るための能力だろ?」


 怪談和尚・法城寂照に教わったあの力。確かに世界の見え方は変わったが、それがこの修行にどう繋がるというのか。


『……貴様は、まだその眼の本当の力を全く理解していない』


 魔導書の声に、呆れとそしてわずかな期待が入り混じった。


『いいか猿。貴様が【霊眼】で見ているのは、ただの霊体や魔力ではない。……それは「因果の繋がり」そのものなのだ』


「因果の繋がり……」


『そうだ。あらゆる物、あらゆる事象は、目に見えない無数の糸で繋がっている。親子、師弟、恋人といった人間関係。持ち物とその所有者。そして戦場における敵と味方。その魂と魂が結びつく「えにし」の軌跡。それこそが、貴様が【霊眼】で捉えているものの正体だ』


 健司は息を飲んだ。自分の眼に、そんな途方もない可能性が眠っていたとは。


『【霊眼】は、因果の繋がりも見ることができる。見ることができるということは……自分と対象との間に、繋がりを作ることも出来るということだ』


 その言葉は、まるで暗闇に差し込んだ一筋の光だった。健司はこれまで「触れる」という行為でしか対象との繋がりを確立できなかった。だが、もし「見る」だけでその繋がりを意図的に作り出せるのだとしたら――。


『つまりだ』


 魔導書は新たなる魔法のメソッド、その結論を健司の脳内に叩き込んだ。


『【霊眼】で見る繋がりを強く意識する! そして、その因果の繋がりを、情報が流れる光ファイバーケーブルのように利用し、対象の構造情報を逆流させるようにして解析し……【脆弱性の刻印フラクチャー・スタンプ】を発動する!!』


『まずは【霊眼】で、因果の繋がりを見ることを覚えることだ。紙コップ相手に、【霊眼】で因果の繋がりを見る練習をするぞ!』


「了解……!」


 健司の心は、かつてないほど燃え上がっていた。


 彼はキッチンから新品の紙コップを一つ持ってくると、それをリビングのローテーブルの中央に恭しく置いた。今日の最初の敵であり、最初の師となる存在。


 彼はソファに深く座り直し、その白い紙コップに全神経を集中させた。


 彼はまず、教わったばかりの【霊眼】の呪文を静かに唱えた。


「―――我が眼、霊なるモノ達を視る力、霊眼」


 彼の瞳がカッと熱を帯びる。世界の色彩が褪せ、あらゆる物事の「裏側」がその網膜に映し出されていく。そして彼は意識した。自分と、目の前の紙コップとの繋がりを。


「おっ」


 健司の口から、驚きの声が漏れた。


「簡単じゃん。……俺に繋がりがあるのが、見えるぞ!」


 彼の【霊眼】には、はっきりと見えていた。自らの胸のあたりから一本の、淡く輝く銀色の糸が伸び、それがテーブルの上の紙コップに確かに繋がっている光景が。それは、まるで運命の赤い糸のようにも見えたが、もっと無機質で純粋な情報のラインだった。


『……そりゃお前が、その紙コップに触れてテーブルの上に「置いた」からな』


 魔導書が、呆れたようにツッコミを入れた。


『触れる、見る、置く。その全ての行為が、貴様とあの紙コップとの間に新たな「因果の繋がり」を作り出しているのだ。……因果の繋がりが出来ているから、簡単に見えるわけだ。赤子の手を捻るより容易い』


「なるほどなー。じゃあ、これ練習にならない?」


『いや』魔導書はその甘えた考えを否定した。『敵相手に「刻印」を付けるのも、似たような物だ。いいか、戦場において敵と味方ほど強く、そして濃密な因果で結ばれる関係はない』


「そうなのか?」


『そうだ。敵が貴様に対して「殺意」あるいは「敵意」を向ける。その瞬間、貴様の魂と敵の魂は目に見えない楔で強固に打ち付けられる。貴様もまた、敵に対して「対抗心」や「生存本能」を燃え上がらせるだろう? その互いの意志の衝突そのものが、「戦う」という極めて強力な因果の繋がりを生み出すのだ』


 健司はごくりと喉を鳴らした。戦いとは、ただの物理的な衝突ではなかったのだ。魂と魂が見えない糸で結ばれ、互いを引き寄せ合う根源的な儀式。


『だから、この練習は意味があるぞ』


 魔導書は結論づけた。


『貴様が今見ている、その物理的な接触によって生まれた、か細い因果の糸。それをより速く、より正確に捉える訓練を繰り返すことで……いずれは、ただ視線を交わしただけで生まれる、もっと微弱な因果の繋がりすらも捉えられるようになる。そうなれば、初見の敵に対しても、即座に「刻印」を刻むことが可能になるだろう』


「分かった……!」


 健司の迷いは消えた。やるべきことが、明確になった。


『それにだ』魔導書は、この訓練のもう一つの重要な目的を付け加えた。『この「因果の繋がりを視る」訓練は、あの能面の少年わかぞうみたいに、空間に作用するタイプの能力にも有効なカウンターとなり得る』


「どういうことだ?」


『奴がやっていたことは、空間そのものに自らの術式を「上書き」し、その領域の因果を歪めることだ。ならば、その歪められた因果の「綻び」……すなわち、術式の継ぎ目や核となる部分をこの【霊眼】で見抜き、そこに【脆弱性の刻印】を叩き込めば、どうなる?』


「……空間そのものを破壊できる……ってことか?」


 健司は戦慄した。


『そうだ。領域そのものを内側から崩壊させる。それこそが、空間系能力者に対する最大のメタ(対抗策)だ』


「なるほどね……。まあ良いや。じゃあ、紙コップ相手に練習するか……」


 その日から、健司の地味で、しかしどこまでも深淵な新たなる修行が始まった。


 彼は来る日も来る日も、ただひたすらに目の前の物体と自分とを結ぶ因果の糸を「視る」訓練を繰り返した。


 最初は、触れた直後しか見えなかった糸。だが、訓練を重ねるうちに、彼はただ部屋の隅に置かれただけの古刀との間にも、ごく微弱な「所有する」という繋がりを見出せるようになった。さらに修行を積むと、窓の外を飛ぶ鳥との間にも「観測する」という一瞬の繋がりを捉えることができるようになった。


 そして、その糸を通じて対象の構造情報を、少しずつ、少しずつ読み解いていく。

 パルプの繊維の絡み合い、印刷されたインクの分子構造、製造過程で生じたミクロン単位の歪み。鳥の羽ばたきを支える骨格と筋肉の連動。その全てが彼の脳内に流れ込み、世界の解像度を飛躍的に上げていった。


 それは、まるで顕微鏡で世界の真理を覗き込むような、静かでしかしどこまでも刺激的な探求だった。

 彼の眼は、もはやただの眼ではなかった。万物の理を解き明かし、その弱点を暴き出す「魔眼」へと、確実に進化を遂げつつあったのだ。


 その修行を開始してから、ちょうど一週間が経った夜。

 健司はいつものように紙コップと向き合っていた。だが、彼の纏う空気は以前とは明らかに違っていた。


 彼の【霊眼】は、もはや紙コップと繋がる一本の糸だけを見てはいなかった。

 紙コップとテーブル、テーブルと床、床とこのマンション、マンションと大地……そして、大地とこの星そのものを結ぶ、無数の、そして壮大な因果のネットワーク。その巨大なタペストリーが、彼の視界にはっきりと映っていた。


 全ては繋がっている。

 その根源的な理解が、彼の魂を新たなステージへと引き上げた。


 彼は静かに目を開けた。そして、数メートル離れた紙コップをただ見つめる。


 彼の【霊眼】が、その繋がりを捉え、光の道筋パスを構築する。

 彼の【過去視/予測予知】の力が、そのパスを通じて紙コップの構造情報を瞬時に解析し、その最も脆い一点――分子結合が最も弱い部分を特定する。


 そして彼は、静かに、しかし確信に満ちた声でその名を告げた。


「―――【脆弱性の刻印フラクチャー・スタンプ】」


 彼の視線が、見えない呪いの矢となって紙コップの一点に突き刺さる。

 紙コップの因果構造が、内側から書き換えられる。


「固い紙」から「脆い砂の塊」へと。


 そして彼は、軽く息を吹きかけた。

 ―――ふっ。


 次の瞬間。紙コップは音もなくその形を失った。

 まるで風化した砂の城のように、さらさらと崩れ落ち、テーブルの上にただの白い粉の山を作り出した。


 健司はその光景をただ呆然と見つめていた。そして、彼の口から歓喜の声がほとばしった。


「……できた……! できたぞ、魔導書!」


『……ふん。一週間もかかりおって、猿めが』


 脳内に響く声は素っ気なかった。だが、その奥に確かな満足感が滲んでいるのを、健司は感じ取っていた。


 彼の視線の先、テーブルの上に残された白い粉の山は、もはやただの残骸ではなかった。それは彼がこれから解き明かしていく、世界のことわりそのものの縮図であり、彼が自らの手でこじ開けた新たなる可能性の扉であった。その扉の向こうに、果たして何が待つのか。その答えを知る者は、まだ誰もいない。

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