第101話 猿と古都と三人の狩人
夜の闇が深まる頃、佐藤健司のプライベート用のスマートフォンが、静かにしかし執拗に震えた。
画面に表示されたのは「橘 真」の二文字。その名前を見た瞬間、健司の全身を駆け巡っていた心地よい疲労感は一瞬で吹き飛び、代わりにアドレナリンが血管を焼き尽くすかのような熱を持って全身を駆け巡った。あの胸騒ぎの正体、因果の淀みの中心。それが今、この一本の電話によって明らかにされようとしていた。
「もしもし、橘さん」
健司の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
『―――K君、すぐに京都へ飛んでくれ』
スピーカーの向こう側から聞こえてきた橘の声は、健司が今まで聞いたことのないほど切迫し、そして絶望の色を帯びていた。
『……最悪の事態になった。……我々の情報網が完全に掻い潜られた。……博物館は陽動だ。……つい先ほど、退魔師協会総本山の結界が内側から破られた。……『鬼の手』が……奪われた』
彼の短い休息は、あまりにも唐突に、そしてあまりにもな形で終わりを告げた。物語の歯車が、彼の意志とは無関係にギシリと音を立てて回り始めたのだ。
ヤタガラス東京本部の地下深く、緊急対策室は野戦病院のような緊張感に包まれていた。
壁一面に広がる巨大なモニターには、炎上する京都国立博物館のライブ映像と、京都府警や消防から錯綜する情報がリアルタイムで映し出されている。五十嵐をはじめとする分析官たちが、普段の眠たそうな表情など微塵も見せず、血の気の失せた顔で膨大なデータを処理していた。
健司は橘の執務室に通されると、改めて事件の全容を知らされた。
「陽動は博物館だけではなかった」
橘はホログラムに京都市内の立体地図を投影し、赤い警告マーカーが点滅する数カ所を指し示した。
「清水寺、金閣寺、八坂神社……。ほぼ同時刻に小規模な不審火や賽銭箱の破壊といった事件が発生している。退魔師協会の総本山から、物理的にも霊的にも我々の注意を完全に逸らすための、極めて周到に計画された陽動だ」
そして橘は、もう一つのより深刻なデータを表示した。
それは鞍馬山一帯の霊脈の観測データを示すグラフだった。穏やかな波を描いていたはずのグラフが、犯行時刻と思われる数分間だけ不自然なまでに完全に「無」になっていた。
「最大の問題はこれだ。総本山を護る結界は、外部からの侵入だけでなく、内部の異常を外部に知らせる警報システムも兼ねていた。だがそれが全く機能しなかった。内側から結界そのものが一時的に無力化された形跡がある。……つまり、裏切り者がいる」
橘の言葉は氷のように冷たかった。健司はごくりと喉を鳴らす。日本最強の霊的防衛網が、その内側から破られたのだ。
「これは、もはや日本国内だけの問題ではない」
橘は苦虫を噛み潰したような顔で告げた。
「アークからの要請だ。この件はマジェスティックとの共同捜査案件として対処する。……そして、すでに現地には彼らの連絡員が先行している。君も彼と合流し、現場の調査にあたってほしい」
健司は、始発の新幹線のぞみ号のグリーン車にその身を沈めていた。
ヤタガラスの力は絶大で、彼は出発時刻のわずか15分前に東京駅に到着したにも関わらず、完璧に手配された指定席に座ることができていた。
車窓から見える夜明けの景色が、徐々に白んでいく。だが彼の心は、まだ千年の闇の中にあった。
『……鬼の腕か。……面倒なものを掘り起こしてくれたものだ』
脳内に、魔導書の重々しい声が響いた。いつもと違う。そこには嘲笑も侮蔑もない。ただ、古い記憶を呼び覚まされたかのような深い疲労感があった。
「お前が封印したっていうその鬼ってのは何なんだ? 橘さんからは特級呪物としか聞いてない」
健司の問いに、魔導書はしばらく沈黙した。そしてやがて、まるで古の叙事詩を語り聞かせる吟遊詩人のように、その壮大な過去の一端を語り始めた。
『千年前。この日ノ本は百鬼夜行の時代だった。神、人、妖。その境界は曖昧で、大地は常に血で濡れていた。……まあ、面白い時代ではあったがな』
魔導書は、どこか懐かしむように言った。
『その中でもひときわ強大な力を持っていたのが、酒呑童子と呼ばれる荒ぶる神の一柱。奴はただの暴力の化身ではない。あらゆる呪いを喰らい、あらゆる負の感情を糧とし、自らの力へと変える……「混沌」そのものだった。その力はあまりに強大で、当時の神々ですら手を焼いていた』
『俺様は当時のこの国の術者……まあ安倍晴明の若造もいたな……彼らと一時的に手を組み、酒呑童子を討伐することにした。奴の魂と肉体を八つに引き裂き、それぞれを日本各地の強力な霊脈の要石として封印したのだ。京都・鞍馬のそれは奴の「左腕」。あらゆる呪いを握り潰し、そして振るう力の源泉だ』
健司は息を飲んだ。安倍晴明。歴史の教科書の中にしか存在しない大陰陽師の名が、まるで昨日の友人のように、この魔導書の口から語られる。
『奴らが狙うのは、ただの破壊ではないだろう。……他の七つの封印の場所を探し出し、鬼の完全なる復活を成し遂げること。……そのための最初の鍵が今盗まれたのだ。そしてそのためには「器」が必要になる。……鬼の力を宿すに足る、強靭な魂の持ち主がな』
新幹線は滑るように、古都の駅へと滑り込んだ。健司は、古刀を収めた長いケースを背負い、決意を新たにホームへと降り立った。
京都駅のコンコースの雑踏の中、健司はすぐにその男を見つけ出した。
アロハシャツにサングラスという、あまりに観光客然とした格好。だがその周囲だけが、まるで空気が歪んでいるかのような奇妙な違和感。ニコラス・ケイジだった。
「やあK。君の国の新幹線は実に快適だな。景色を楽しんでいたら、あっという間だった」
軽口を叩くケイジの目には、徹夜明けのような疲労の色が浮かんでいた。彼もまた、この数時間眠らずに情報を集めていたのだ。
そして二人の元に、もう一人の男が静かに現れた。黒い作務衣に身を包んだ弥彦。彼の顔からは、いつもの人の良い笑みは消え、ただ自らの組織の不始末に対する深い苦悩の色が刻まれていた。
「K君、それにマジェスティックの方。……話は橘さんから聞いている。……面目ない。協会の不始末だ。……だが今は謝罪よりも、やるべきことがある。案内は私がしよう」
三者三様のプロフェッショナルが、古都の駅で初めて視線を交わした。互いの腹を探り合うような緊張感のある自己紹介。それは奇妙で、しかしどこまでも頼もしい共同戦線の始まりだった。
鞍馬山の麓、退魔師協会の総本山。
その山門は固く閉ざされ、強力な結界が外部の者を拒絶していた。門前で対応に出た高僧たちは、弥彦の顔を立てつつも、ヤタガラスとマジェスティックへの敵意を隠そうともしなかった。
「これは我々退魔師協会の内なる問題。ヤタガラスの手を借りるまでもない。ましてや異国の組織など論外だ!」
弥彦が協会の者たちと押し問答を繰り返している間、ケイジは行動を開始した。
「私は少し聞き込みをしてくる」
彼は、まるで近所のコンビニにでも行くかのような気軽さで麓の門前町へと姿を消した。刑事の勘と、地道な足を使った捜査。それこそが彼の最強の武器だった。
健司もまた、独自の「現場検証」を始めた。
彼は結界の外縁に沿って山道をゆっくりと歩き始める。【霊眼】を最大まで開き、魔力の痕跡を追う。
そして彼は見つけた。結界の北西の一角。そこだけ魔力の流れが不自然に「傷ついて」いた。彼はその傷にそっと手を触れた。【過去視】起動。
(―――見えた)
健司の脳裏に、犯行の瞬間の映像が流れ込む。
「……痕跡が二つある。一つは、内側から術式を無理やりこじ開けた裏切り者のものだ。その魔力は乱れていて、恐怖と葛藤、そして何か巨大な力への憧憬が感じられる。……そしてもう一つは……」
健司の眉間に、深い皺が刻まれる。
「……全く別の異質なものだ。冷たく完璧で、何の感情もない……まるで機械が空間に穴を開けたようだ。……強力な『空間転移』の痕跡…!」
その時、聞き込みを終えたケイジと、交渉を一旦打ち切った弥彦が健司の元へ戻ってきた。
「K、面白い話が聞けたぞ」
ケイジは手にしたメモ帳を指し示した。
「事件のあった晩、この山の古道を見慣れない高級外車が猛スピードで走り去ったという目撃情報が複数ある。ナンバーも割れている。そして最近、この辺りの寺社をやけに熱心に回っていた『羽振りのいい美術商』の噂。……どうやらそいつが乗っていた車と一致する」
「……その美術商の名は?」
弥彦が低い声で尋ねる。
「桐生と名乗っていたらしい」
その名を聞いた弥彦の顔色が変わった。
「……桐生……。馬鹿な……。奴は数年前に協会を破門された男だ。禁術に手を出し、海外へ高飛びしたと……!」
そして健司。
「……弥彦さん、その桐生って男……琵琶を使う呪術師じゃないですか?」
健司の【過去視】の映像の断片と、弥彦の持つ情報が一つに繋がろうとしていた。だが、まだ確証が持てない。
弥彦は自らの式神を数十体、結界の周囲に放った。式神たちは結界の表面を撫でるように飛び回り、その構造の「歪み」や霊脈の乱れを弥彦にフィードバックしていく。
「……ふむ。K君の言う通りだ。転移術の痕跡がある。……しかもこれは我々の知るどの流派のものでもない。座標を指定して跳ぶのではなく、因果そのものを結びつけて道を繋いでいる……? 馬鹿な、こんな術式はもはや人間の技ではない……!」
三者三様の情報がテーブルの上に並べられた。だが、最後のピースが足りなかった。
夜。三人は弥彦が手配した祇園の古いお茶屋の二階、人目につかない一室で、膠着した事態を打開するための方策を練っていた。
「内部の協力者が誰なのか。それが分からなければ動けない」
弥彦が悔しそうに呻く。
「その顔を見ることができれば……」
その言葉に、健司は顔を上げた。
「……できます」
「何?」
「できますよ。……ただし、俺の脳が持つかどうか分かりませんが」
健司は覚悟を決めた。高負荷な【過去視】。自らの魂を「奪われた鬼の手」そのものに同調させ、その因果を直接読み解く。それは精神が汚染され、最悪の場合廃人になりかねない危険な賭けだった。
だが、もう迷っている時間はなかった。
健司はその場で胡坐をかき、瞑想に入った。弥彦とケイジが固唾を飲んで彼を見守る。
健司の意識が因果の大海を遡っていく。そして彼は見つけた。鞍馬の地下深くに封印されていた、禍々しくも巨大な「鬼の手」の存在。彼はその魂に、自らの意識をリンクさせた。
―――ザアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!
絶叫。
健司の鼻から血が噴き出す。凄まじい情報の暴力。鬼の千年の怨念と渇望が、彼の精神を喰らい尽くそうとする。
『猿ッ! 戻ってこい!』
魔導書の悲鳴に近い声が、彼を現実に繋ぎ止める最後の錨だった。
だが健司は見た。
蔵の中で、恐怖に顔を歪ませながら震える手で封印の札を剥がしていく若い僧侶の姿。その顔には見覚えがあった。協会の中でも屈指の才能を持つと、弥彦が自慢げに語っていた彼の愛弟子の一人だった。
そしてその背後。空間が歪み、あの能面の男が音もなく現れる。渋谷で対峙した、あの琵琶法師。彼こそが桐生。
能面の男は鬼の手と、蔵に安置されていた他の十数点の特級呪物を手際よく回収すると、絶望する若き退魔師に冷たく告げる。
「お前の役目はこれからだ。……栄えある器となるがいい」
ヴィジョンが途切れる。健司は激しく咳き込みながら床に倒れ込んだ。
「……はぁ……はぁ……。裏切り者は……弥彦さんの……」
彼は途切れ途切れに、その名を告げた。弥彦の顔から血の気が引いていく。
「馬鹿な……。あいつが……」
健司は休む間もなく、最後の力を振り絞った。
「奴らの行き先を……視る……!」
【予測予知】起動。
彼の脳裏に鮮明な光景が浮かび上がる。無数の赤い鳥居が連なる夜の山道。
「―――伏見稲荷大社だ……! 今夜……奴らはそこで儀式を行うつもりだ!」
「急げ!」
弥彦の絶叫。
後続部隊の到着は、早くても一時間後。儀式まで時間がない。
三人は決断した。健司、ケイジ、弥彦の三人だけで、儀式を阻止するために突入することを。
伏見稲荷の山中。奥社奉拝所の裏手にある、特に強い霊脈が流れる場所。
三人がそこに駆けつけた時、そこに敵の姿はすでになく、儀式は終わっていた。
空気にはまだ濃密な魔力の残滓が渦巻き、地面には巨大で禍々しい魔法陣が血のように赤い光を放っている。
そしてその中心には、生命エネルギーをすべて吸い尽くされてミイラ化した若き退魔師の無惨な死体。
「間に合わなかったか……!」
ケイジが悔しそうに吐き捨てる。
弥彦は膝をつき、変わり果てた弟子の姿に静かに手を合わせた。
「……奴ら、我々の動きを完全に読んでいた…!」
敵側にも、健司に匹敵する「観測者」がいることを、三人は確信する。
健司は魔法陣に残されたごく微かな残留思念に、最後の力を振り絞って【過去視】で触れた。
彼の脳内に、儀式の最後の光景が流れ込む。
若き退魔師の絶叫と共に、鬼の手がその左腕に憑依しようとする。だが器の魂が鬼の力に耐えきれず、拒絶反応を起こす。
「……使えぬ駒め」
能面の男は瀕死の退魔師から鬼の手を引き剥がすと……あろうことか自らの左腕にそれを融合させていく。
凄まじい苦痛に身を捩りながらも、彼はついに鬼の力をその身に宿した「人鬼」と化す。
そして、人鬼と化した能面の男は空間の歪みの中へと消える。その去り際に響く冷たい声。
「―――追いかけてこい、鴉ども。宴の準備は東京で」
敵は東京へ向かった。
三人はひとまず山を下りる。
京都駅。東京へ向かう新幹線のホームで、三人は並んで立っていた。
「……俺の予知は当たっていた。だが、俺たちの動きが遅すぎた」
健司が悔しそうに呟く。
「いや」ケイジは首を振る。「我々は敵の顔と、その目的を知った。……ここからが本当のハントの始まりだ」
「そうだ」弥彦も頷く。「古都の借りは、奴らの本拠地で必ず返す。……K君。東京での戦い、我々退魔師協会も総力を挙げて協力しよう。これは約束だ」
健司のヤタガラス支給端末が静かに震えた。橘からのメッセージ――『―――東京で待っている』。
健司は端末を閉じ、静かに拳を握りしめた。次は必ず奴らを止める。
その静かなる闘志を胸に、彼は決戦の地・東京へと帰還する。
古都に残された深い傷跡と、狩人たちの固い誓いを、その背中に背負って。




