第100話 猿と戦士の休息と鋼の誓い
ヤタガラス東京支部の地下深くにある医務室。
その無機質で、清潔すぎるほどに白いベッドの上で、佐藤健司はゆっくりと意識を浮上させた。消毒液の匂い、シーツの糊のきいた感触、そして自らの魂の奥底にまだ燻る戦いの熱の残滓。
「―――覚醒を確認。バイタル安定しています」
頭上から聞こえてくる、感情の乗らない女性の声。健司がぼんやりと視線を向けると、白衣を着たヤタガラスの医療スタッフが、手元のタブレットに何かを記録しているのが見えた。
渋谷上空での死闘から、すでに三日が経過していた。『無想』の禁忌を解放した代償は凄まじく、彼の魂の器は無数の微細な亀裂に覆われ、精神は疲労の極みに達していた。だが、ヤタガラスが誇る専門ヒーラーたちの高度な治癒術式と、彼自身の向上した【再生魔法】による自己修復能力が、奇跡的な速度でその損傷を癒していた。
「……驚異的な回復力ですね、Kさん」
チェックを終えた医師が、もはや呆れと感嘆が入り混じった声で告げる。
「魂レベルでの損傷は、通常ここまで早くは癒えません。あなたの自己治癒能力は、我々の想定を遥かに超えている」
手元のモニターには、健司の魔力回路を示す複雑な図形が、力強く脈打つように表示されていた。数日前まで無数の亀裂が入っていたその回路は、今や以前よりもさらに強く、太く、そしてどこか禍々しい輝きを放ちながら再構築されている。破壊と再生。その極限のサイクルが、彼の魂を否応なく新たなステージへと引き上げていた。
『ふん。ようやく使い物になる器になってきたではないか』
脳内に、いつものように尊大な声が響く。魔導書だった。だがその声には、いつもの嘲笑の色はなく、むしろ自らが手塩にかけて育て上げた作品の出来栄えに満足するかのような静かな響きがあった。
『貴様の魂の器は、あの戦いで確実に広がった。だがその器に何を注ぐかは貴様次第だ。神々の美酒か、あるいは己を滅ぼす毒か。……忘れるなよ、猿』
その意味深な警告に、健司は無言で頷いた。彼はもう、ただ力を求めるだけの子供ではなかった。
健司はゆっくりとベッドから身を起こした。身体の節々にまだ鉛のような重さを感じるが、不思議と力はみなぎっていた。新しい服に着替え、医務室を出る。オフィスフロアへと続く長い廊下を歩くと、空気が変わったことに気づいた。
以前の「畏敬」や「好奇」とは違う、純粋な「尊敬」の念を込めた視線。すれ違うヤタガラスのエージェントたちが皆、彼に深々と、そしてどこかぎこちなく頭を下げていく。先日まで彼を「ひよっこ」と呼び、模擬戦で散々痛めつけてくれたSAT-Gの屈強な隊員ですら、廊下の隅ですれ違い様に、短くしかし確かな敬意を込めて「押忍」と挨拶していく。
健司はその一つ一つに戸惑いながらも、静かに会釈を返した。彼はこの組織の中で、もはや単なる「予知者K」という戦略兵器ではない。渋谷の街を、そしてそこにいた数万の罪なき命を、その身を賭して守り抜いた一人の「戦士」として認められていた。その事実が、彼の胸を少しだけ熱くした。
橘との短い面談は、副局長室の重厚な雰囲気とは裏腹に、どこか穏やかなものだった。
「渋谷の一件は、本当によくやってくれた」
橘は手放しで健司の功績を称賛した。だが、その目は笑っていなかった。彼は五十嵐がまとめた戦闘レポートを指し示す。そこには健司が解放した『無想』の凄まじい破壊力と、その際の彼の精神汚染レベルを示す危険な数値が、赤い警告色で記されていた。
「だが君は、少し走りすぎだ。今の君は、強大な力を手に入れたばかりの子供と同じで危うい」
橘は厳しい表情で釘を刺した。
「二度と許可なく『無想』を使うな。これは組織の副局長としての正式な『命令』だ。……いいね?」
「……はい」
健司は頷くしかなかった。組織の一員としての立場と、自らの力の扱いの難しさ。その狭間で、彼の心は揺れていた。
「今日はもう帰りなさい。そして数日間、頭を冷やせ。これも任務だ」
「強制休暇」を命じられた健司だったが、高級マンションの静かすぎる部屋に戻っても、彼の心は休まらなかった。ソファに寝転がり、テレビのスイッチを入れる。どのチャンネルも、渋谷での「謎のガス爆発事故と、その中で奇跡的に人々を救った英雄K」の特集を組んでいた。画面の中の自分が知らない自分が、専門家たちによって勝手に分析され、神格化されていく。その光景はあまりに現実感がなく、まるで他人事のようだった。
彼はテレビを消した。そして気づいた。自分が本当に求めている場所に。
健司はトレーニングウェアに着替えると、部屋を飛び出した。彼の足が向かったのは、血と汗の匂いが染み付いた、あの地下の戦場だった。
「SAITO MMA GYM」。
重い鉄の扉を開けると、いつもの熱気が彼の全身を包み込んだ。斎藤会長がリングサイドで若手のミットを持っていたが、健司の姿を認めると動きを止めた。
「……おかえり」
そのぶっきらぼうな一言。だがその目には、教え子の無事を心から安堵する師の温かさがあった。
「また一つ、修羅場を越えた顔になったな」
「……はい」
健司は多くを語らなかった。だがその一言だけで、二人の間には十分な意思疎通が成立していた。
彼はリングへと上がった。ライバルの鈴木が、待っていたかのようにニヤリと笑ってグローブを合わせに来る。仲間たちと汗を流す時間。その飾り気のない「日常」が、今の健司には何よりも尊いものに感じられた。
だが、彼の動きは以前とは明らかに違っていた。『無想』の状態で体験した、あの極限の集中力と反応速度。神速の世界の記憶。その残滓が、彼の肉体に新たな「型」を刻み込んでいたのだ。
スパーリングの最中、健司は鈴木の鋭いジャブを紙一重でかわしながら、その懐へと滑り込むように潜り込む。そして、その喉元に開いた手刀を寸止めで当てる。それはMMAには存在しない、古流の剣術を彷彿とさせる必殺の間合い。鈴木の動きが完全に止まった。
スパーリングを中断させた斎藤が、真剣な目で問いかける。その目には驚愕と、それ以上の純粋な好奇心が宿っていた。
「……お前、どこで剣術を習った?」
健司ははっとした。そして、ヤタガラスから与えられた古刀のことを、初めて師に打ち明けた。刀に宿る【過去視】で読み取った、何百人もの剣士たちの記憶。それを自らの肉体で追体験することで得た、断片的な剣技の数々。
斎藤はその荒唐無稽な話を黙って聞いていた。そしてやがて、ニヤリと獣のような笑みを浮かべた。
「面白い。……面白いじゃないか、佐藤!」
「ならば、その剣術と俺が教えたMMAを融合させてみろ。いいか佐藤。剣術の極意は『中心を取る』こと。MMAの極意は『空間を支配する』ことだ。その二つは本来、水と油だ。だがな、もしお前がその二つを融合させることができたなら……それはもはや、誰も見たことのないお前だけの武術になる」
「素手でありながら、常に刀の間合いで戦うという異次元の戦闘術。それを完成させろ。それがお前の本当の『無刃』だ」
その日から健司の修行は、新たな次元へと突入した。
彼は斎藤会長の指導の下、MMAの動きの中に古刀の剣術の理合を組み込んでいく。シャドーボクシングの拳の軌道は刀の太刀筋を模倣し、ステップは相手の中心を奪うための摺り足へと変わっていった。
そして、自室での魔法修行においても、その「型」を応用し始めた。
休暇のとある夜。健司は自室で、あの古刀を抜き放ち、静かに構える。
(手加減モード:古刀抜刀術)
彼は刀身に【身体強化】と【硬化】の魔法を纏わせるイメージを持つ。刀が淡い魔力の光を帯びた。これを物理的な斬撃の主軸とする。魔力の消費も少なく、相手を殺傷するリスクも調整しやすい。「預言者K」の裏の顔、人呼んで**『黒鴉の剣士』**としての戦闘スタイルだ。
彼はその刀を鞘に納め、目を閉じる。
(本気モード:『無想』)
自らの魂そのものを漆黒の刃と化す。全ての魔法の根源にアクセスし、因果律すら捻じ曲げる神域の戦闘形態。これは橘に固く禁じられた、まさに命を賭けるべき瞬間にのみ解放される最後の切り札。
二つの「型」。静と動、物理と概念。
その使い分けを意識することで、健司の戦闘スタイルはより洗練され、戦略的な深みを増していった。
休暇の最終日。
健司は、弟子の相田未来からの連絡を受け、久しぶりに彼女と会っていた。Vチューバー「デルフィ」として人気絶頂の彼女は、しかし新たな悩みを抱えていた。
「私の予知が、人の人生を大きく変えすぎてしまうのが怖いんです」
新宿のカフェ。人々の喧騒の中で、彼女は小さな声で告白する。
「当たり馬券を教えた相手が、その金でギャンブルに溺れてしまったり……。失せ物を見つけてあげたことで、逆に家族関係がこじれてしまったり……」
そのあまりに重い告白。健司は師として、自らが持つ力の「責任」について、改めて彼女に語り聞かせた。そしてそれは、彼自身への問いかけでもあった。
「俺たちの力は、ただ未来を見せるだけじゃない。その見せた未来に責任を持つことなんだ。……たとえそれがどれだけ重くてもな」
人の運命にどこまで踏み込むべきなのか。その答えはまだ見つからない。
未来と別れ、一人帰路につく健司。彼はふと、強烈な胸騒ぎを覚えた。
彼の【予測予知】が警鐘を鳴らしている。明確なヴィジョンではない。ただ、世界の因果の流れが大きく淀み、不吉な方向へと向かっている、その確かな「気配」。
夕暮れの街が、いつもより色褪せて見える。人々の話し声が遠くに聞こえる。世界の因果が、何かの「異常」を訴えているかのような不穏な空気。
自宅マンションに帰り着き、何気なくテレビのスイッチを入れる。
その瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、臨時ニュースの速報テロップだった。
【速報】京都市内の国立博物館で火災。国宝級文化財複数焼失・盗難か。
博物館の火災は陽動。本命は別にある。
奴らは、ついに動いたのだ。
健司のヤタガラス支給端末が、けたたましく鳴り響いた。画面に表示されたのは「橘 真」の二文字。健司は、震える指で通話ボタンを押した。
電話の向こうから聞こえてきた橘の声は、健司が今まで聞いたことのないほど切迫し、そして絶望の色を帯びていた。
『―――K君、すぐに京都へ飛んでくれ。……最悪の事態になった。……我々の情報網が完全に掻い潜られた。……博物館は陽動だ。……つい先ほど、退魔師協会総本山の結界が内側から破られた。……『鬼の手』が……奪われた』
健司の短い休息は、終わりを告げた。
物語は古都・京都を舞台に、「鬼の手」という最悪の呪物を巡る壮絶な戦いへと突入していく。
健司は、自らが磨き上げた新たなる「型」を試す最初の実戦に臨むことになる。
それはもはや模擬戦ではない。
この国の歴史そのものを揺るがす、本物の「戦争」の始まりだった。
彼の神へと至る道。
その次なる試練の幕が、今、静かにそして激しく上がったのだ。




