第98話 猿と死線と魂の呪縛、再訪
深夜のトレーニングルームは、汗と鉄の匂い、そして男たちの闘争心で満ちている。
だが、佐藤健司の世界はその喧騒から切り離されたかのように、静まり返っていた。
謎の組織は一体何を企んでいるのか。
思考は、答えのない迷宮を彷徨うばかりだった。
「……おい佐藤! 集中しろ!」
斎藤会長の怒声が飛ぶ。
健司ははっと我に返った。目の前では、ライバルの鈴木が鋭い左ジャブを彼の顔面に叩き込もうとしていた。健司は反射的に身体を捻り、それを紙一重でかわす。だが反応が遅れた。がら空きになった胴体に、鈴木の重い右ストレートがめり込んだ。
「ぐ……っ!」
健司は数歩後ずさり、マットに膝をついた。
「どうした佐藤。最近、精彩を欠いてるぞ」
斎藤がリングサイドから、厳しい視線を向ける。
「悩み事か? 恋の悩みか? ……戦場で私情は、死に繋がるぞ」
その言葉は、健司の胸に深く突き刺さった。
そうだ。俺は迷っている。
その日の夜。健司は自室のマンションのリビングで、一人その迷いと向き合っていた。
どうすればもっと強くなれる?
仙道にも、ガブリエルにも、そして航にすら俺は負けた。
このままではダメだ。何かが足りない。あの死線を越えるための、絶対的な「何か」が。
『……猿』
脳内に静かな声が響く。魔導書だった。
『貴様のその腐った目。見ているこちらが反吐が出る』
「……うるさい。分かってるんだよ、俺だって」
健司は吐き捨てるように言った。
『……ふん。ならば聞こう。貴様に足りないものは何だ?』
「……分からない。だから悩んでるんだろうが」
『……馬鹿め。答えは貴様自身が一番よく知っているはずだ』
魔導書の声が低くなる。
『―――あの夜、貴様が自らこじ開けた“扉”。その先に答えがある』
その言葉に、健司は息を飲んだ。
あの夜。自らの腕を折り、魂を代償に禁忌の力を解放した、あの狂気の夜。
左腕に眠る黒い呪印。
あれを、もう一度?
『怖いか、猿』
魔導書が嘲笑う。
『あの獣に再び、その身を喰われるのが』
「……当たり前だろ」
健司の声が震えた。
「あれは俺じゃない。……ただの破壊の衝動だ。……もしまた、お前でも止められなかったら……」
『……ふん。だがな猿。あの力なくして、貴様がこれから現れるであろう“神”とやらに抗う術はない。……それもまた事実だ』
「選べ。……安全な猿のまま嬲り殺されるか。……あるいは獣の牙をその手に握り、……神に牙を剥くか」
その、あまりに過酷な選択。
健司は床に散らばった修行の道具を見つめた。
古刀、呪符、そして己の拳。
これら全てを極めても、まだ届かないというのか。
(……やるしかないのか)
健司は覚悟を決めた。
彼はリビングの中央に胡坐をかいた。
そして彼は、再びあの地獄への扉を叩いた。自らの魂の深淵へと。
彼は左腕に意識を集中させる。そこに眠る黒い獣。
その封印を、自らの意志で解き放つ。
彼は、その獣に語りかけた。
(……おい。……起きろ。……お前の力を貸せ。……ただし今度は、俺が主導権を握る)
それはあまりに傲慢で、あまりに危険な賭けだった。
だが健司には確信があった。あの夜、自分はただ力に飲まれただけだ。今度は違う。
俺はこの獣を、乗りこなしてみせる。
その健司の強い意志に応えるかのように、彼の左腕の皮膚の下で、黒い紋様が再び蠢き始めた。
「―――うおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
健司の絶叫。
彼の身体から再び、あの黒い魔力のオーラが噴き上がった。
だがその力は、以前のような荒々しい制御不能の奔流ではなかった。
静かで、冷たく、そしてどこまでも研ぎ澄まされた――純粋な破壊のエネルギー。
彼の瞳が赤く染まる。
だが、その瞳には理性の光がまだ残っていた。
『……ほう。……面白い。……自らの意志で獣を従えるか。……猿の分際で……やるじゃないか』
魔導書の声が、感嘆に震えていた。
健司はゆっくりと立ち上がった。
全身が黒いオーラに包まれている。
力がみなぎる。ランク4の時とは比較にならない、底知れない力の奔流。
だが、彼の心は不思議なほど静かだった。
「……これが……」
彼は自らの両手を見つめた。
その指先から、黒い霧のようなものが立ち上っている。
彼はその霧を練り上げ、一つの形を作り出した。
―――刀。
黒い魔力でできた、魂の刃。
彼はその黒い刀を一振りした。
―――ヒュンッ。
空気が悲鳴を上げた。
ただ素振りをしただけで、空間そのものが断ち切られたかのような錯覚。
「……なるほどな」
健司は呟いた。
「……これが俺の……本当の『無刃』か」
彼は手に入れたのだ。自らの魂を武器とする術を。
その時だった。
―――ブウウウウウウウウウンッ!!!!
彼のポケットで、ヤタガラス支給の黒いスマートフォンが、けたたましい警告音と共に激しく震えた。
画面には赤い文字で、こう表示されていた。
【緊急警報:Tier 2レベルの因果律怪異出現】
【位置:東京都渋谷区……ハチ公前広場】
「渋谷……!?」
健司の顔色が変わった。
平日の夜。渋谷のスクランブル交差点。そこに今、日本で最も多くの人々がいる。
その群衆のど真ん中で……Tier 2の怪異?
それはもはや、ただの事件ではない。未曾有の大災害だ。
健司は迷わなかった。
彼は窓を開け放つと、そこから躊躇なくその身を躍らせた。
空中浮遊。
だがその速度は、以前とは比較にならない。
黒いオーラを纏った彼の身体は、夜の闇を切り裂く一筋の黒い流星となって、渋谷の空へと向かっていった。
渋谷スクランブル交差点。
そこは阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
数万の人々が悲鳴を上げ、逃げ惑っている。
そのパニックの中心。
ハチ公像のその隣に――それがいた。
それは一体の鎧武者だった。
だが、その身体は生身の人間のものではなかった。
数千、数万の……人間の怨念が寄り集まって形を成した、呪いの集合体。
その鎧の隙間から、無数の苦悶の顔が浮かび上がっては消えていく。
その手には、巨大な怨念の塊でできた大太刀が握られていた。
「……ウオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」
鎧武者の咆哮。
その声だけで周囲のビルの窓ガラスが、粉々に砕け散った。
その絶望的な光景を、上空から見下ろしながら、健司は歯を食いしばった。
(……間に合えッ!!!!)
彼の手の中で、黒い魔力が再び刀の形を成していく。
彼の新たなる力が、今試されようとしていた。
この絶望のど真ん中で。
彼はヒーローになれるのか。
それとも、ただの破壊者に堕ちるのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいない。
ただ、彼の赤い瞳だけが、眼下の巨大な悪意をまっすぐに睨みつけていた。
彼の本当の戦いが――今、始まろうとしていた。




