第10話 猿と預言と観測者たち
土曜日の午後。
佐藤健司は、ノートPCの画面に表示されたカオスそのもののような掲示板を、呆然と見つめていた。
5ちゃんねるオカルト板、「予知・予言総合スレ」。
彼の人生とは本来、交わるはずのなかった世界の裏側。そこに彼は今、確かに足跡を刻んでしまったのだ。
「予知者K」として。
予知者K
また新しい痛いのが来たなw
設定ご苦労様ですwww
で、何か予言してみろよK様www
匿名で投下される、無遠慮な嘲笑のレス。
健司は、顔が熱くなるのを感じた。分かっていたことだ。だが、実際に面と向かって(画面越しではあるが)馬鹿にされると、さすがに心がささくれ立つ。
『……気にするな、猿』
ポケットの中のスマートフォンが震え、LINEの通知がPCの画面隅に表示される。魔導書のいつもの冷静な声が、テキストとなって彼の心を現実に引き戻す。
『今は、笑わせておけばいい。すぐに、笑えなくさせてやる。さあ、最初の予言を書き込むぞ』
健司は、ごくりと喉を鳴らした。
予言。
それは、もはや自分の中だけで完結する訓練ではない。
世界に向けて放たれる、因果律への挑戦状だ。
彼はまず、魔導書に教わった通り、二種類の予知の実践に取り掛かった。
「まず……予測予知か」
『そうだ。お前のその猿頭に叩き込んだ知識(OS)と、確率操作の魔法を組み合わせる。対象は、政治経済。人間の欲望が、最も分かりやすくデータとして現れる分野だ。さあ、スキャンしろ。この国の政治家たちの過去の金の流れ、人間関係、あらゆるスキャンダラスな情報を』
健司は、言われるがままにブラウザで複数のニュースサイトや週刊誌の電子版、果ては匿名の内部告発が投稿されるアンダーグラウンドな情報サイトまで開いていった。
以前の彼なら、その膨大な情報の奔流を見ただけで、思考が停止していただろう。
だが、今の彼には、魔導書によって半ば強制的にインストールされた知識がある。そして、何より魔法があった。
彼は、目を閉じ、意識を情報の海へと沈めていく。
無数の単語、数字、人名。その一つ一つが、因果の糸で結ばれている。金の流れ、権力の貸し借り、男女関係の清算。その複雑怪奇なタペストリーの中から、彼は一本のひときわ黒く、そして今にも切れそうになっている糸を見つけ出した。
一人の現職大臣、その過去の政治資金規正法違反の疑惑。そして、その疑惑を週刊誌がすでに掴んでいるという事実。
「……見つけた」
『ほう。早いじゃないか、猿。よし。では、次にその未来がどうなるか、確率を読め』
健司は、さらに意識を集中させる。
大臣が辞任する未来、辞任せず乗り切る未来。その二つの可能性の重さを、天秤にかけるように観測する。
見えた。
「……辞任する確率が60%、乗り切る確率が40%。ただし……」
『ただし?』
「辞任はしないまでも、辞任寸前まで追い詰められるという未来の確率は、ほぼ100%だ。この差は……」
健司には、その未来の分岐点となる要素まで見えていた。
「……彼が、党の幹部にどれだけうまく“ゴマすり”できるかだな。それで未来が変わる」
『……ククク。上出来だ、猿! そうだ、それこそが予測予知だ! さあ、それをそのまま書き込め! 少し、おちょくるようなニュアンスを加えてな!』
健司は、興奮で火照る指で、掲示板の書き込み欄に文字を打ち込んでいった。
予知者K ◆Predict/K
では、最初の予言を。
【予測予知】
来週、日本のとある大臣が過去の金銭スキャンダルによって辞任します。
これは、過去の様々な情報を基点とした予測です。
おそらく、的中率は60%といったところです。
まあ、辞任しないまでも、辞任寸前の崖っぷちまで追い詰められるというのは、100%確定ですね。
この40%の差がどうなるかは、来週その大臣がどれだけ上手にゴマすりできるかにかかっていますね(笑)
頑張ってください(笑)
彼は、投稿する前に、魔導書に言われた通り、コテハンに「トリップ」と呼ばれる個人識別の記号を付け加えた。
そして、「書き込む」ボタンをクリックする。
『よし。いいだろう。では、次だ。本番はこっちだぞ、猿』
「……未知予知か」
『そうだ。一切の事前情報なく、お前の精神だけを未来の次元へと飛ばし、事象を直接観測する。失敗すれば、お前の精神は高次元の情報奔流に引き裂かれ、廃人になるかもしれん。準備はいいか?』
その恐ろしい脅し文句に、健司はゴクリと唾を飲んだ。
彼は、ノートPCから離れ、ベッドの上にあぐらをかいた。そして、目を閉じる。
『意識を手放せ。お前の、そのちっぽけな自我を捨てろ。お前は、ただのアンテナだ。世界の声を受信する、ただの受信機になれ』
魔導書の声が、脳内に響く。
健司の意識が、急速に遠のいていく。
身体の感覚が、消える。
そして、次の瞬間。
彼の視界は、真っ暗な宇宙空間のような場所に放り出されていた。
上下も左右も分からない。
時間の感覚すら、曖昧だ。
『観ろ』
魔導書の声が、命じる。
健司は、ただその無限の暗闇を見つめた。
すると、暗闇の中に無数の光の糸が現れた。
因果の糸。
その一本一本が、一つの可能性の未来。
その無数の糸の中から、ひときわ赤黒く不吉な光を放つ一本の糸。
彼の意識が、その糸に引き寄せられていく。
そして、彼は見た。
――コンビニ、深夜のコンビニ、そこに刃物を持った一人の男が押し入る。
――駆け付けた二人の警官、男は激しく抵抗する。
――もみ合いになる警官と男、そして一人の若い方の警官の腹部に、きらりと光る刃が……。
「うあ……っ!」
健司は、短い悲鳴と共に、意識を現実へと引き戻した。
全身が、びっしょりと汗で濡れている。心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いていた。
今の映像。
あまりに鮮明で、あまりに生々しい光景。
『……どうやら、無事に帰ってこれたようだな、猿』
魔導書の声が、震える彼の意識を繋ぎ止める。
『今見たものが、来週この世界のどこかで起こる未来の断片だ。どうだ、気分は?』
「最悪だ……」
健司は、吐き気をこらえながら、そう答えた。
人の死。
それを、こんなにも間近に観測したことはなかった。
『それが未知予知だ。世界の深淵を覗く、ということだ。さてと。感傷に浸っている暇はないぞ。さっさと、それを書き込め』
健司は、重い身体を引きずるように、再びPCの前に座った。
そして、今見た光景を文字に起こしていく。
予知者K ◆Predict/K
二つ目の予言です。
【未知予知】
来週、都内のどこかで立てこもり事件が起きます。
その際、警官の方が一名犠牲になります。
この予言の的中率は……そうですね、現時点の観測では80%でしょうか。
とはいえ、80%なので、ほぼ当たると考えてもらって良いでしょう。
なぜ100%ではないかと言うと、未来は常に揺らいでいるからです。
ただ……その犠牲になる警官の方の「死」そのものは、どうやら確定事象のようです。
たとえこの事件が回避されたとしても、その方は一週間以内に寿命が尽きる運命にあるようです(他殺ですが、運命の残りがないという意味です)。
書き終えた健司は、自分の書いた文章のあまりの冷酷さに、我ながらぞっとした。
人の死を、まるで他人事のように淡々と記述する。
これが、預言者という存在なのか。
彼は、震える指で投稿ボタンをクリックした。
彼の二つの予言は、放たれた。
あとは、ただ未来がその答えを示すのを待つだけだ。
直後から、スレッドの反応は凄まじかった。
それまでの嘲笑の雰囲気は、一変していた。
予知者K
おいおい、なんだよ急に……。
大臣のスキャンダルは、まあありそうな話だけどよ。
立てこもりで警官が死ぬって……。
なんか、急にマジっぽくて怖いんだが。
予知者K
こいつ、本物か……?
未知予知とか予測予知とか、設定は痛いけど、言ってることはやけに具体的じゃねえか?
なあ、K。質問いいか?
あんた、どうやってその予言能力を手に入れたんだ?
その核心を突く質問に、健司はどう答えるべきか迷った。
「古本屋で100円で買った」などと、言えるはずもない。
すると、魔導書から指示が飛んできた。
『猿、「予言能力は最近、急に生えてきました」とだけ答えろ』
「はあ!? 生えてきた!?」
『いいから、そう答えろ。下手に設定を作り込むより、意味不明な回答の方がそれっぽく見えるもんだ』
健司は、半信半疑のまま、言われた通りに返信した。
質問くれた人
私のこの能力は、ごく最近、自分の中に「生えてきた」としか言いようがありません。
私自身も、まだ戸惑っています。
そのあまりにシュールな回答に、スレッドはさらに混乱した。
生えてきたwww
なんだそりゃwww
キノコかよwww
いや待て。逆にリアルじゃね?
本当に能力に目覚めた奴って、こんな感じなんじゃないか?
説明できないっていう。
Kさん、普段は何してる人なんですか?
ニート?
新たな質問。
これも、魔導書が即座に答えを用意する。
『「普段は、デイトレードをしていますね」と答えろ。Xのアカウントとも、繋がってくる』
健司は、言われるがままに打ち込んだ。
普段はしがない兼業デイトレーダーです。
この能力も、主にそちらで活用しています。
その回答は、スレッドにさらなる憶測を呼んだ。
デイトレ!
マジかよ、じゃあ株の予言とかもできんのかよ!
すげえ、勝ちまくってんじゃねえの?
なるほどな。だから、予測予知で経済とか政治を占うのか。
設定が、繋がってるな。
こいつ、マジで面白いぞ。
スレッドは、完全に「予知者K」の話題で持ちきりになっていた。
嘲笑、困惑、期待、そしてほんのわずかな畏怖。
様々な感情が渦を巻いて、健司という存在を形作っていく。
彼は、もはやただの佐藤健司ではなかった。
匿名の観測者たちの好奇心が生み出した、一人のカリスマ「予知者K」へと変貌しつつあった。
健司は、質問の全てに目を通しながらも、魔導書の指示通り、それ以上は何も答えなかった。
そして、最後にこう書き込んだ。
私の言うべきことは、全て言いました。
あとは、ただ来週、結果が明らかになるのを待つだけです。
それではまた。
その言葉を最後に、彼はブラウザを閉じた。
嵐のような数時間が、過ぎ去っていた。
精神的な疲労は、ピークに達していた。
だが、彼の心は不思議と静かだった。
サイは、投げられた。
もう、後戻りはできない。
彼は、ベッドに倒れ込むと、深い、深い眠りに落ちていった。
夢も、見なかった。
ただ、彼の二つの予言だけが、インターネットの深海で、静かにその時が来るのを待ち続けていた。
世界が、彼の言葉に追いつくその瞬間を。