第1話 猿と魔導書とリセマラ
「ああ……バイト、だるすぎるだろ……!」
蛍光灯の白い光が容赦なく目に突き刺さる。冷蔵庫のモーター音が、単調なBGMのように耳鳴りの内側で反響している。佐藤健司、25歳、フリーター。彼の世界は、このコンビニエンスストアという名の清潔な箱の中で、時給千二百円の価値に換算され、緩やかに死につづけていた。
ピッ、という無機質なスキャナー音。商品を流れ作業で袋に詰め、客の差し出す小銭を数え、マニュアル通りの感謝の言葉を吐き出す。深夜三時。客のほとんどは、生気のない目をしたゾンビか、不機嫌を隠そうともしない酔っぱらいだけだ。健司の精神は、ヤスリで削られるように、じわじわと摩耗していく。
(なんで俺、こんなことしてんだろうな……)
Fランク大学を卒業し、流れ着いた零細企業は、絵に描いたようなブラック企業だった。心身を病んで二年で退職。再就職の気力も湧かず、気づけばこの深夜バイトが彼の日常になっていた。返済のあてがない奨学金。日に日に増えていく、親からの無言の着信。通帳の数字は、彼の人生の価値そのものを嘲笑っているかのように、常に低空飛行を続けている。
8:00AM。ようやく長い夜勤が終わり、健司はゾンビのような足取りで店を出た。降り注ぐ朝日が、夜行性の吸血鬼にはそうであるように、彼の精神を焼いた。このまま安アパートに帰って、泥のように眠り、起きたらまた次のバイトが待っている。そんな、昨日と寸分違わぬ明日。その無限ループの絶望感が、鉛のように彼の肩にのしかかる。
「……神保町、行くか」
それが、健司に残された、唯一の人間らしい趣味だった。古本屋巡り。世界中の知識と物語が、埃とインクの匂いの中に眠っている、本の迷宮。何かを買う金などほとんどない。ただ、そこにいるだけで、自分がまだ死んでいない、思考する人間なのだということを、かろうじて思い出させてくれる場所だった。
電車を乗り継ぎ、神保町の駅に降り立つ。大通りから一本入った路地裏には、まるで時間の流れから取り残されたかのような古書店が、ひっそりと軒を連ねている。健司は、その中の一軒、彼が最も気に入っている、店主のやる気が微塵も感じられない薄暗い店へと吸い込まれていった。
天井まで届く本棚が、迷路のように入り組んでいる。足元には、平積みされた本の塔が、いつ崩れてもおかしくない角度で傾いている。健司は、その本の森を、目的もなく彷徨った。歴史、哲学、文学、そしてオカルト。彼の指先が、様々な本の背表紙を撫でていく。
その時だった。
一番奥の、アダルト雑誌と歴史全集の間に挟まれた、最も雑然とした「100円均一」のワゴン。その底の底で、彼は一冊の、奇妙な本を見つけた。
A5サイズ、同人誌のように薄っぺらい。表紙は、安っぽい光沢のある紙で、手書き感満載の、力の抜けた猿のイラストが描かれている。そして、その上に踊る、ふざけきったタイトル。
『猿でも分かる魔法の使い方!!! ~今日から君も世界の理をハックしよう!~ 限定生産版』
「……うーん、なんだこれ」
思わず声が漏れた。あまりの馬鹿馬鹿しさに、逆に興味を引かれる。パラパラとページをめくろうとしたが、なぜかセロハンテープで厳重に封をされており、中身を見ることはできなかった。限定生産版、という響きが、妙にコレクター心をくすぐる。まあ、100円なら、失敗しても痛くはない。
健司は、そのクソ本を手に、白髪頭の店主が座るレジカウンターへと向かった。
「すみません、これお願いします」
「ん……?」
店主は、分厚い眼鏡の奥から、眠そうな目で本を一瞥した。そして、眉をひそめる。
「……うーん、それ、本当にうちの商品かね?」
「え?」
「いや、悪いね。こんな本、仕入れた記憶がないんだよ。見たこともない」
「でも、そこのワゴンに……100円って値札、貼ってありますけど」
健司が指さすと、店主は面倒くさそうに首を掻いた。
「100円って書いてある? うーん……じゃあ、とりあえず100円で良いよ。なんだかよく分からんが、うちの在庫が一つ減るなら、それでいいや。まいどあり。また来てね」
その、あまりに適当なやりとりに、健司は逆にこの本の素性が気になり始めた。店主が知らない本が、なぜ彼の店にあったのか。
彼は、その奇妙な戦利品をコンビニの袋に入れ、帰路についた。
ボロアパートに帰り着き、買ってきた弁当をかきこむ。そして、いよいよ例の本と向き合う時間だった。机の上に、件の『猿でも分かる魔法の使い方!!!』を置く。改めて見ても、チープで、胡散臭いオーラしか放っていない。
健司は、カッターで慎重にセロハンテープを切り、ついにその表紙を開いた。
そして、彼は絶句した。
「は――なんだこれ……白紙って、なんだよ……!」
中身は、全て、真っ白だった。
どのページをめくっても、シミ一つない、純白の紙があるだけ。印刷ミス? それとも、手の込んだ悪戯か。100円とはいえ、騙されたという事実に、バイト明けの疲れた体に、どっと疲労感がのしかかる。
「クソが……」
悪態をつき、本をゴミ箱に投げ捨てようとした、その瞬間だった。
白いページの上に、まるで染み出すように、すぅ……、と黒いインクの文字が浮かび上がり始めたのだ。
『――はー。これだから猿はダメなんだよなぁ』
「うわっ!?」
健司は驚きのあまり、本を取り落とした。心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がる。幻覚か?
震える手で、もう一度本を拾い上げる。文字は消えていない。それどころか、まるで誰かがリアルタイムで書き込んでいるかのように、スラスラと、次の文章が目の前で紡がれていく。
『魔法の”ま”の字も理解できない猿はこれだから困る。いいか? 魔法ってのはな、奇跡でもなければ、神の御業でもない。ただの技術だ。この現実を、ちょっとだけ有利に進めるための、ハッキング技術のことさ』
「な、なんだこの本……リアルタイムで文字が浮かび上がるだと!?」
健司の混乱を無視して、本は一方的に言葉を続ける。その口調は、ひどく馴れ馴れしく、そして、どこまでも尊大だった。
『おーい、猿1号! 聞こえてるか? 俺は、お前みたいな、才能はあるのに燻ってる猿を導くために作られた、超絶親切な魔導書様だ。感謝しろよ? じゃ、早速だが、お前に魔法のイロハを教育してやろう!』
魔導書。その言葉に、健司の脳は完全にフリーズした。目の前で起きている現象は、明らかに常軌を逸している。だが、彼の心のどこかで、冷え切っていた何かが、ちりちりと熱を持ち始めるのを感じていた。
『まず、魔法を使う上で、絶対に、ぜぇぇったいに守らなきゃならんことがある。それはな――』
ゴクリ、と健司は息をのんだ。
『“魔法を信じる”ことだ! あるいは、“ジンクスを信じる”こと! 「これをすれば、必ずこうなる」っていう、お前だけの絶対のルールを、お前自身の中に作ること! これが、この世界の理をハックするための、究極の奥義なり!』
「なんだこの本……やばすぎるだろ……」
ジンクスを信じる? まるで、自己啓発セミナーか、カルト宗教の教義だ。だが、目の前で文字が浮かび上がるという、圧倒的な現実が、その言葉に奇妙な説得力を持たせていた。
『よし、分かったか猿! じゃあ、レッスン1だ! これは簡単。まず、お前自身に、とんでもない能力があるってことを、心の底から信じることだ! 俺が、お前にぴったりの魔法を授けてやる。いいか、よく聞けよ?』
健司は、そのページに釘付けになった。
『よし、こうしよう! 君には、“確率を操作する魔法”が備わっている!!!』
確率を、操作する?
その言葉が、健司の脳天をハンマーで殴ったかのように、衝撃を与えた。
『そうだ! お前は、ありとあらゆる確率に、ほんのちょっぴりだけ、干渉できる! その才能がある! まずは、その感覚を体に覚えこませるための、練習だ! お前のスマホに入ってる、無料のガチャゲーで練習するんだ!』
ガチャ? 健司は、暇つぶしに入れたまま放置していた、量産型のソーシャルゲームを思い出した。
『いいか、一回一回、丁寧にリセマラして、最高レアのSSRを引き当てる感覚を、その猿の脳みそに刻み込め! 重要なのは、結果じゃない。「引ける」と確信して引く、その瞬間の“前兆”や“気配”を知ることだ! それこそが、いずれ全知全能へと至る、最初の道なのさッ!!! 健闘を祈る!!!』
そこまで一気に書きなぐると、文字の奔流は、ぴたりと止まった。
後に残されたのは、再び真っ白に戻ったページと、呆然と立ち尽くす健司だけだった。
「…………幻覚、か?」
呟いてみるが、心臓の動悸は収まらない。脳裏には、あのあまりに魅力的な言葉が、何度も何度もリフレインしていた。
確率を操作する魔法。
それさえありゃあ、競馬も、宝くじも、思いのままだ。
大金持ちに、なれる。
「……暇だし、やってみるか!」
半信半疑。いや、疑いが九割九分。それでも、彼は何かに憑かれたように、スマートフォンを手に取った。どうせ失うものなど、何もないのだから。
ゲームアプリを起動し、チュートリアルをスキップする。最初に与えられる、無料の10連ガチャ。最高レアリティであるSSRの排出確率は、わずか1%。普通にやれば、数十回のリセマラを繰り返して、ようやく一体引けるかどうかだ。
「確率を操作する……俺には、その力がある……」
健司は、本の言葉を思い出し、ぶつぶつと呟いた。まるで、自分に言い聞かせるように。しかし、信じろと言われて、すぐに信じられるほど、彼の心は純粋ではなかった。半信半疑のまま、彼はガチャのボタンをタップした。
結果は、惨憺たるものだった。最低レアのRが9枚、SRが1枚。お決まりの、最低保証の結果だ。
「だよな。そんなわけねえよな」
自嘲気味に笑い、アプリをアンインストールし、再びインストールする。退屈なリセマラ作業の始まりだ。
二回目、三回目と繰り返すが、結果は同じ。SSRの気配すらない。
(やっぱり、ただの幻覚だったのか……? 疲れてんのかな、俺)
諦めかけた、その時だった。
再び、本のページに、文字が浮かび上がった。
『だーかーらー! 猿は話を聞かねえな! “信じろ”って言っただろ! あと、“ジンクス”を作れって! お前だけの、“絶対のルール”だよ!』
「うわ、見てんのかよ!?」
健司は、まるで覗き見されていたかのような羞恥に襲われる。
『当たり前だろ! 俺様はお前の専属家庭教師なんだからな! いいか、猿! ただ念じるだけじゃ弱いんだよ! お前だけの、勝利の儀式を作れ! どんなに馬鹿馬鹿しいことでもいい。「ガチャを引く前に、必ず左足の小指を三回掻く」とか、「便所に一体一体フィギュアを並べて祈りを捧げる」とか! それを、お前自身が「絶対の法則」だと信じ込むんだ! 形から入れ、形から!』
勝利の儀式。ジンクス。
健司は、藁にもすがる思いで、自分だけのルールを考えた。馬鹿馬鹿しい方が、逆に信じ込みやすいかもしれない。
「……よし、決めた」
彼は、もう一度アプリをインストールすると、ガチャ画面の前で、一つの儀式を行った。
まず、スマートフォンの画面を、眼鏡拭きで丁寧に拭く。そして、ガチャボタンをタップする方の、右手の親指の爪を、左手の親指で三回、こする。最後に、心の中で、「お願いします」ではなく、「いただきます」と唱える。
「……よし!」
馬鹿げている。あまりに馬鹿げている。だが、彼は、この一連の動作こそが、SSRを引くための絶対条件なのだと、必死に、必死に自分に言い聞かせた。
そして、ガチャボタンをタップする。
結果は、やはりRとSRのオンパレードだった。
しかし、何かが違った。SRのキャラクターが、三体も排出されていたのだ。ほんの、ほんのわずかだが、結果が上向いている。
(……まさか)
そして、彼は気づいた。儀式を行ってガチャを引いた瞬間、ほんの一瞬だけ、スマートフォンの画面の縁が、いつもより明るく光ったような気がしたのだ。
『お? 猿にしては、勘がいいじゃねえか。そうだ、その“気配”だよ』
本の声が、頭の中で響く。
『世界が、お前の願いに応えようとする瞬間には、必ず“前兆”がある。ノイズが走る、光が見える、音が聞こえる。それは、世界の理が、ほんの少しだけ書き換わる時に生じる、バグみたいなもんだ。その“前兆”を感じ取れるようになれば、お前はもはや猿じゃない』
前兆。気配。
健司の目は、完全に変わっていた。
彼は、リセマラの作業を、ただの苦行ではなく、「訓練」として捉え始めた。
アンインストールとインストールを繰り返し、その度に、自分だけのジンクスを、狂ったように、しかし、どこまでも真剣に実行する。
親指の爪を三回こする。「いただきます」と唱える。
引く。SRが四体。外れだ。だが、引く直前に、今度はスマホがほんのわずかに、いつもより温かくなった気がした。
親指の爪を三回こする。「いただきます」と唱える。
引く。SRが二体。また外れだ。だが、引く瞬間に、部屋の蛍光灯が一瞬だけ、チカ、と瞬いた。
何十回、繰り返しただろうか。
彼の目は充血し、思考は朦朧とし始めていた。だが、彼の五感は、異常なまでに研ぎ澄まされていく。世界の、ほんの些細な変化。普段なら気にも留めないような、僅かなノイズ。それらを、「前兆」として認識する、特殊な回路が、彼の脳内に形成されていく。
そして、日付が変わる頃。
リセマラの回数が、おそらく三桁に達しようかという時だった。
彼は、儀式を終え、ガチャ画面と向き合った。
その時、彼は、はっきりと“それ”を感じ取った。
スマホが、熱い。画面の縁が、オーラのように淡く発光している。部屋の空気が、まるで水の中のように、重く、粘性を帯びていた。
そして、彼の脳裏に、直接、声が響いた。
――イケる。
確信。
それは、希望的観測ではない。未来予知ですらない。
今、この瞬間、ガチャを引けば、SSRが出る。それは、1+1が2になるのと同じくらい、絶対的な「事実」なのだと、彼は理解した。
震える親指で、彼は、タップした。
画面が、今まで見たことのない、虹色の光で埋め尽くされる。祝福のファンファーレが、けたたましく鳴り響いた。
そして、現れた10体のキャラクター全てが、最高レアリティであるSSRだった。確率1%の壁を遥かに超えた、天文学的な確率。ありえない、奇跡の結果。
健司は、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。
そして、ゆっくりと、自分の手を見下ろす。
それは、ついさっきまで、時給千二百円で商品をスキャンしていた、何の変哲もない、しがないフリーターの手だ。
だが、今、この手には、世界の「確率」を、ほんの少しだけ、ハッキングする力が宿っていた。
本に、最後の仕上げのように、一行だけ、文字が浮かび上がった。
『――ようこそ、猿。魔法使いの世界へ』
健司は、笑った。
それは、半年ぶりに、心の底から湧き上がってきた、歓喜の笑いだった。
彼の目の前には、退屈なバイトも、返済不可能な借金も、もはや存在しなかった。
ただ、無限の可能性と、飽くなき欲望を満たすための、輝かしい未来だけが、広がっていた。
その第一歩は、リセマラによって得た、確かな手応えと共に、今、確かに記されたのだった。