限界令嬢は、今日もココロが騒がしい。
「おはよ、ルチア! 昨日のドレス、マジで似合ってたな!」
学院の前庭に響く声に、ルチアはぴたりと足を止めた。
振り返ると、朝の光の中でノア・ラングレイが笑顔で手を振っている。
侯爵家の令息で、いつも賑やかな彼の一言は、いつだってルチアの胸をざわつかせるのだ。
──舞踏会の翌朝。
夜会の喧騒はすっかり遠のいて、学院はいつも通りの静けさを取り戻していた。
昨夜のことを思い出すだけで、胸が騒がしくなる。
煌めくシャンデリア、耳元にかかったノアの声、そして──
「惚れそうになったわ、マジで」
近くにやってきたノアが目の前でにかっと笑い、ルチアの心は今日も騒がしい。
(なにそれ、なにそれ、なにそれ!!!)
脈アリなのかどうなのかと、自分の鼓動のほうが脈打った、その瞬間。
「でも惚れたら困るか。婚約者でもないし」
空気が止まった。
(……こっちはとっくに惚れてるんだけど!? 私も言わなきゃ! 昨日のノアは、誰よりもカッコよかったって……!)
「えっとね、わ、私も──」
「お、セドだ! おはよー!」
彼の声が被さるように響き、ルチアの言葉は、あっさり宙に消えた。
通路の先に現れたのは、一際目を引く銀髪の少年。
陽に透ける銀髪は絹糸のように滑らかで、整った立ち姿は制服越しでもはっきりと分かる。王都でも名の知れた男爵家の嫡男──セドリック・フォルカー、その人だった。
「……朝から騒がしいな、ノア」
淡々とした声。けれど冷たいわけじゃない。
ひとつ横目を寄越すだけで、どんな貴族も黙らせるような落ち着きをまとっていた。
「俺、そんな騒がしかったか? ルチア」
「えっ、あ……どうかなぁ」
(あああ、かっこよかったって言い損ねちゃったー!)
頭を抱えていると、ふと気づいた。セドリックが、じっと自分を見ていることに。
「……顔、赤いけど」
「えっ」
不意にかけられた言葉に、鼓動が跳ねる。
「なんにも……ないよ?」
「そっか。ノアがまた何か言ったかと思った」
「っ……!」
どきんとルチアの胸が鳴った。
しかしすぐにセドリックは方向を転換して。
「じゃあ、俺は講堂に用があるから。ノア、ルチア、またあとで」
そう言って、セドリックは背筋を伸ばし、振り返ることもなく、すっと歩き去っていった。
(……なんだろ、あの人。たまに、すごく優しい目をする)
ほんの少しの妙な胸のざわめきが、ルチアを襲っていた。
***
午前の講義が終わり、ルチアは一人、書架の奥にある窓辺で風に当たっていた。
足元に日だまりが差し込む。少しだけまぶしい。
そこへ、影が差した。
「お、ここにいた」
ノアの笑顔を見るだけで、ほんのりと頬が色を差す。
柔らかい栗色の髪に、気の抜けたような笑みを浮かべた彼は、どこまでも自然体で。
「さぼりか? ……なら俺も混ぜて」
屈託のない笑顔で隣に腰を下ろした。自然すぎる距離に、また心臓がうるさくなる。
「サボってないもん。風に当たってただけ」
「ふーん。じゃあ一緒に当たるか、風」
「……うん」
目を逸らしながらも、ほんの少しだけ、肩を寄せてしまう。
ノアに気づかれないくらいの距離で。けれどすぐ──
「なあ、ルチア」
「……なに?」
「お前って、好きなやつとかいんの?」
「──っ!」
視界が跳ねた。呼吸が止まる。
「……なんでそんなこと聞くの」
「俺のこと、どう思ってんのかなって」
(なんでそんなこと聞くのって、もう一回言いたい……!!!)
「親友って感じ? それとも、もうちょい上?」
(もう……限界……! 心臓が無理!!)
ルチアが何かを言いかけたときだった。
「……お前、ほんと無自覚だな」
その声に、二人同時に振り返る。
いつの間にか立っていたセドリックが、書架の影から顔を出していた。
「うわっ、セドリック!? びっくりさせんなよ~」
「別に隠れてたわけじゃない」
セドリックは静かにノアに視線をやる。
その目は、どこか冷めていて、でもどこか、怒っていた。
「ルチアがどんな顔してるか、見てやれよ。たまには」
「え?」
ノアがぽかんとする横で、ルチアは小さく体をすくめる。
(なんで……セドリック、そんなこと……)
視線が合った。銀の瞳が、まっすぐにルチアを見ていた。
「……泣かされたら、ちゃんと教えてよ」
ぽつりと囁かれる、優しさ。
「俺がその分、ちゃんと笑わせるから」
風が吹き、沈黙が訪れる。
「…………は?」
それを破ったのは、ノアだった。
「なにそれ、なんかずるくね? お前、今いいとこ持ってったろ?」
「別に。事実を言っただけだし」
セドリックはそれだけ言って、顔を背ける。
ルチアはそんな彼を見つめて、思わず口を開いた。
「セドリックって、ほんっとうにいい人ね……」
素直に、素直すぎるほどに、ルチアはそう思う。
「……どうも」
「そうなんだよな! こいつ実は、めっちゃくちゃいい奴なんだよ!」
ノアは自慢げに親友の肩を組んだ。
セドリックは鬱陶しそうにしながらも呆れたようにして笑っているので、ルチアもふふっと声を上げて笑った。
***
茜色の光が学院の石畳を照らす中、ノアとルチアは並んで歩いていた。
セドリックは用事があるから先に帰ってくれとのことで、珍しくふたりきりの帰り道だった。
「なあ、今日の授業、マジで眠かったよな〜」
「う、うん……確かに」
「でもさ、ルチアが真面目にノート取ってたから助かったわ。おかげで俺も寝ずに済んだ」
「えっ……」
「ルチアを見てると、頑張ろって思うんだよな」
(待って待って待って!? なんかサラッと心臓を射抜いてくるんだけど!?)
「あとさ。今日、髪結んでただろ?」
「えっ!? あ……うん」
「めっちゃ似合ってた。後ろから見て“やば、かわいい”って普通に思ったし。金髪、ホント綺麗だよな」
(言うの!? 今それ言うの!?!?!?!?)
「てかさ、ルチア。いつも自信なさげなの、なんでだよ。もっと自信持ったほうがいいって」
「え……そう、かな……」
「ルチアって、真面目で優しくて、かわいくて、気ぃ遣えて……ほんと、最高にいいとこ詰まってんのに」
「ちょ、ちょっと待って!?!? 褒めすぎだってば!!」
「本当のことじゃん」
(しんどいしんどいしんどい!! もう感情の容量がぶっ飛んじゃいそうなんだけど!!!)
限界に達したルチアは、プシュウッと音を立ててその場へうずくまった。
ノアは悪びれる様子もなく、屈んで笑いかけてくる。
「ルチアはほんと顔に出るな〜。わかりやすくてかわいい」
「っ……!!」
(やめて、その“かわいい”は危険物!!!!)
ノアの手が伸びて、ルチアの耳にそっと触れた。
体がびくんと跳ねそうになり、ぎゅっと身を硬くして我慢する。
「なあ」
「な、なに……」
「俺が急にキスしようとしたら、怒る?」
「!!??!?!?」
ノアの唐突の言葉に、ルチアはばっと顔を上げる。
バチッと目のあったノアは、驚いたように手を慌てて左右に振った。
「しないけどな!? たとえばの話な、たとえば!」
(たとえばなの!? したいのしたくないの、どっち〜〜ッッ!!)
息が詰まる。どうにかして自分を保っているけれど、もう限界は近い。
そんなルチアに、ノアは一言。
「顔、赤いぞ。風邪か?」
(風邪なわけないでしょー! この天然無自覚男子ー!!)
ルチアが言葉に出せずに首を横に振ると、ノアはハハッと笑った。
「そっか。俺が触ったからかと思った」
(それだよ!!!! 自分で原因言う!? なんで気づかないの!?!?!? いや気づいているの!?)
ノアの横顔は無邪気そのもので、まるで悪気がない。
ようやく気を取り直して歩き始めると、さらに彼は平然とルチアに話しかけた。
「俺らも十七だし、そろそろ結婚とかそういう話も出てくるよなー」
「う、うん……そうだね……」
ノアは侯爵家の嫡男で、ルチアは伯爵令嬢だ。
(もしかしてもしかしたら、ワンチャンある? って思ってるけど……ノアには他にいい人、たくさんいるよね……)
心で肩を落とすルチアに、ノアは気にもせずにまっすぐ言った。
「もし、将来誰かと本気で結婚するなら──」
「……うん……?」
「俺、ルチアみたいな子がいいなって思ってる」
(私、みたいな子!? 待ってそれ、喜んでいいの!? 私じゃないの!? どゆ意味!?)
もう胸が苦しい。脳も沸騰寸前。ルチアは爆発しそうな内心を必死に抑え込み。
「そ、そうなのね!」
と、言うに留まったのだった。
──そして、その数メートル後ろ。
夕陽に照らされながら、何も言わずに歩いていた銀髪の彼の存在に、二人は気づいていない。
ただ彼は、そのやりとりを見て、そっと息を吐いていた。
***
次の日、午後の授業を終えたルチアは、教室の出口でノアとばったり顔を合わせた。
「お、ルチア! 一緒に帰ろうぜ」
「え……あ、うん……!」
ノアの申し出に素直に頷いたものの、ルチアの胸の内は嵐のようだった。昨日の帰り道を思い出すたび、鼓動がうるさい。
(“ルチアみたいな子がいい”って……結局あれ、どういう意味だったの?)
まだ答えは出ないまま、気づけば──石畳の中庭を三人で歩いていた。
そう、今日はセドリックも一緒だ。
「ルチア、髪ちょっと崩れてる」
横でノアが軽く笑って、ルチアの金髪に手を伸ばす。
「ここ、こう……って、こうすれば──ほら、直ったぞ!」
「っ……あ、ありがと……」
(やめてよぉ……そういうの……心臓が爆発するってば……!)
「かわいいのに、本人は気づいてないんだよなー。もったいないよな、セド」
セドリックの名を呼んで、ノアが無邪気に笑う。
「なあ、そう思わね?」
セドリックは立ち止まった。
銀の瞳が、ふたりを静かに捉えていた。
夕暮れの光に照らされたその目は、普段よりも少し、冷たく見える。
「……お前、いつまでそうやって無自覚でいるつもりなんだ」
「え?」
ノアは、ぽかんとした顔でセドリックを見つめた。
「何の話だ?」
「……気づいてないなら、教えてやるよ」
セドリックの声が低く落ちた。
けれどその声には、ただの怒り以上のものがあった。切実な苛立ちと、わずかな哀しみを含んでいた。
「ルチアは、ずっとお前に振り回されてる」
「えっ……?」
「お前が軽い気持ちで言ってる言葉に、何度も顔を真っ赤にして、立ち止まって、飲み込んで──それでも、笑おうとしてる」
ノアの目が見開かれる。
ルチアは思わず、セドリックの横顔を見つめていた。
こんなに感情を込めて話す彼を、初めて見た。
「ふざけるなとは言わない。でも、少しは考えろ。“好きだ”とか“かわいい”とか……そんな簡単に言葉にしたら、言われた方はどう思う」
「……っ」
ノアがようやく何かを察したように、表情を曇らせた。
「……俺、そんなつもりじゃ──」
「知ってるよ。だから“無自覚”なんだろうが」
冷たい風が吹き抜ける。
ルチアは言葉を失っていた。
セドリックの言葉は、彼女の心にさえ突き刺さっていた。
「……だから、お前が気づかないなら、俺が言う。──ルチアを泣かせるな」
ノアが初めて、真剣な顔になった。
「……泣かせたつもりなんて、なかった」
「じゃあ、これからはそう思わせないように気をつけろよ。……それだけだ」
静かにそう言って、セドリックは先に歩き出す。
ルチアは、その場に立ち尽くすしかなかった。
──そう思わせないように気をつけろ。
その言葉を反芻して、唇を噛み締める。
(私……セドリックの言う通り、勘違いしちゃってた……ワンチャンなんて、どこにもなかったんだ……)
傷つく隣でノアもまた、何かを噛みしめるように、じっとセドリックの背中を見ていた。
***
セドリックの言葉は、思っていた以上に、ノアの心に残っていた。
──ルチアがどんな顔してるか、見てやれよ。たまには。
──……泣かされたら、ちゃんと教えてよ。
その夜、ノアはベッドの上で寝返りを打ったまま、目を閉じられなかった。
「……泣かせてたのか、俺……」
ルチアが、顔を真っ赤にして目をそらして。
言いかけた言葉を、飲み込んだことが何度もあった。
そんなかわいい顔を見て、ノアはただ楽しかっただけだった。
自覚はなかった。でも──
「……最悪かもしんねぇ」
苦笑が漏れた。
セドリックの言う通りだったのだと。
無自覚に、彼女をいじめていたのだと思うと、胸が苦しかった。
そして翌朝から、ノアは少しだけ、ルチアとの距離を取るようになった。
話しかけられても笑顔で応えるだけ。
肩を並べて歩くことも、髪に触れることもやめた。
無自覚で踏み込んでいた距離を、一歩引くようにした。
けれど──気づいた。
(……あれ。なんか、物足りない)
ルチアが笑ってるのに、心にすき間がある。
一緒にいても、届かない。
いつも隣にいたはずのぬくもりが、妙に遠い。
(なんで……寂しいんだ、俺……)
ずっと、仲のいい友人だと思っていた。
けど今は──ただ視線が合うだけで、胸がざわつく。
(俺、ルチアのこと……もちろん好きだったけど。これってまさか──恋、だったのか?)
そう、気づいてしまった。
けれど気づいた瞬間、何も言えなくなった。
もう、軽口なんて叩けない。
「かわいい」なんて、冗談でも言えない。
そんなことを言ったら、自分がどれだけ本気かバレてしまいそうで──
(……言えねぇ。こんなの、言えるわけないだろ……っ)
それでも毎日、ルチアの姿を目で追ってしまう自分がいた。
ちょっとした笑顔に安心して、他の誰かと楽しそうにしてると胸が苦しくて。
視界に入らないと、不安で仕方がない。
好きだと自覚することで、ノアは何も言えなくなってしまっていた。
話しかけることで、また彼女を傷つけてしまうのなら──黙っているしか、できなかった。
けれど、沈黙の距離は、確実にルチアの心を蝕み始めていた。
***
ルチアは、気づいていた。
──最近、ノアが少し、よそよそしい。
話しかければ笑ってくれるし、いつも通りの口調で返してくれる。
でも、なんというか……踏み込んでこなくなった。
前は、髪のことを褒めてくれた。
ふざけて肩を寄せてきたり、時には、心臓を射抜くような甘い冗談を投げてきたのに。
──最近のノアは、まるで壁を作っているみたいだった。
(もしかして……嫌われちゃったのかな)
舞踏会の日の翌朝。
ノアの「惚れそうになった」って言葉に、少しだけ期待してしまった。
勇気を出して、自分も言おうとして──でも言えなくて。
(私が勇気を出せずにいたから……)
勝手に期待して、勝手に浮かれて、勝手に失望して。
ルチアは、自分のことが嫌になりそうだった。
ある放課後。人気のない渡り廊下の片隅で、ルチアはそっと膝を抱えて座り込んだ。
じん、と胸が痛くて、ついに目からぽろぽろと涙がこぼれた。
(もう、顔も見たくないのかな……)
「──泣いてるのか?」
思わず涙を拭ったとき、声が落ちた。
振り向くと、そこにはノアが立っていた。
「……ルチア?」
ルチアは、慌てて立ち上がった。
でも、すぐに目が合ってしまって、ごまかせるわけもなくて──
「……違うの、べつに……なんでもない……!」
「なんでもない顔じゃねぇよ。目、真っ赤だぞ」
「泣いてないってば!!」
ルチアはぷいっと顔をそらした。
視界が歪んで、涙がまた溢れそうになるのを必死にこらえながら。
ノアは、静かに彼女を見つめた。
「……俺が、なんかした?」
ルチアは答えなかった。
「距離、取ったのは……俺だけど……」
ノアはゆっくり言葉を選ぶように、続けた。
「ごめん。ルチアのこと、泣かせるつもりなんて、なかった」
その言葉に、ルチアはぴくりと肩を揺らした。
「……泣いてない。別にノアのせいじゃないから」
「……ほんとに?」
「ほんとに!!」
語気を強めたルチアの目には、まだ涙が光っている。
「私はただ、ただ……ちょっと眠くて、目にゴミ入っただけ! だから気にしないで!」
明らかに嘘だとわかる言葉を並べて、ルチアは強がった。
──けれど、その姿があまりに健気で、痛ましくて。
ノアは、息を飲むように呟いた。
「……泣かせたの、俺……?」
その声は、自分でも驚くほど、かすれていた。
ルチアは、またそっぽを向いて、黙り込んだ。
夕暮れの光が、二人の間に長い影を落とす。
すぐに言えたはずの「ちがうよ」も、「ほんとは寂しかったの」も──
どちらも、言えなかった。
そしてその沈黙が、ふたりの間に、確かなすれ違いを生んだ。
***
夕暮れの屋上。風が吹き抜ける静かな時間。
ノアは、柵に肘をついてぼんやりと空を見上げていた。
茜色に染まる雲が流れていく。けれど、心は重いままだ。
あの時の、ルチアの涙。
言い訳のように「違う」と言われた言葉。
それでも、はっきり覚えている。あの目は、確かに悲しんでいた。
(俺、やっぱ──やっちまったよな)
よかれと思って距離を取った。
変に意識して、余計な言葉を言わないようにして。
だけど、それが一番傷つけていたなんて、気づきもしなかった。
「──女泣かせといて、ぼーっとしてる場合か?」
背後から爽やかな声がした。
振り返ると、セドリックが立っていた。制服を綺麗に着こなしている彼は、ノアを見下ろしている。
「……なんで知ってんだよ」
「たまたま通りがかっただけだ。……お前、ルチアの顔、ちゃんと見たか?」
ノアは押し黙る。
「……見てないな。見てたら、あんな顔させたまま立ち尽くしてるはずない」
言葉は冷たいのに、声は静かで、まるで誰よりも悔しそうだった。
「お前さ」
風が吹いた。
セドリックが、ノアの背中をドンッと押す。
「もう、気づいてるんだろ?」
「……なにを」
「とぼけるな。どうでもいい子にそんな顔、しないだろ? お前は」
ノアの肩が、びくりと動く。
「“ルチアみたいな子”じゃない。“ルチアがいい”んだろ? ノア」
言われて初めて、自分の心が、あまりにもはっきりと見えた。
「……泣かせるなよ、これ以上」
セドリックはそれだけ言って、ふっと背を向けた。
「……お前が泣かせるなら、今度は俺がもらうからな」
それは冗談のようで、冗談に聞こえなかった。
ノアは、言葉もなく立ち尽くす。
けれど──胸の奥で、何かが確かに動き出していた。
(……泣かせない……だったら俺のすべきことは──!!)
夕焼けを前に、ノアはようやく決意を固めたのだった。
***
放課後の中庭には、淡い夕日が射し込んでいた。
石畳に長く伸びるふたつの影。そのうちのひとつが、静かに口を開く。
「ルチア」
名前を呼ばれて、ルチアはぴくりと肩を震わせた。
振り返れば、そこにはノアが立っていた。
いつも通りの笑顔ではない。少しだけ、不器用な表情。
「話、していいか?」
予想外の言葉に、ルチアは目を伏せる。
「……嫌われたのかと思ってた」
ぽつりとこぼしたルチアの言葉に、ノアは目を見開いた。
「違う。違うんだ……俺、怖かったんだ」
「え?」
「ルチアのこと、気になって仕方なかったのに。言葉にしたら壊れる気がして……でも、気づいた。離れてる方が、ずっと、ずっと苦しいって」
ルチアの瞳が揺れる。
「泣かせたの、俺だったんだよな……ごめん」
ノアは深く頭を下げた。そんなノアに、ルチアは首を振る。
「私ね……ノアにかわいいって言われるの、嬉しかった」
「……本当に?」
予想外の言葉にノアは顔を上げるも、ルチアは眉を下げたままだ。
「でもそれが……ノアにとってはただのからかいの言葉でしかなかったんだって思うと悲しかった……もしかしたら、ノアも私のこと好きなのかも──なんて、勘違いした自分が嫌だった……!」
ノアはその言葉を聞いて、大きく目を見開いた。
「それってもしかして」
「本当は、私……ずっと、ノアのことが好きだった」
初めて声に出すその言葉に、ルチアの唇は震えている。
ノアはそんなルチアへと、ゆっくり一歩、近づいた。
「俺もだよ。ルチアが好きだ。誰よりも、ずっと前から」
「ノア……本当に?」
「本当」
そう言って差し出された手を、ルチアは震えながら握り返した。
そっと指が重なる。
それは、すれ違いの果てに、ようやくたどり着いた両想いのかたち。
「ノア……嬉しい、信じられない……! 夢じゃ、ないよね?」
「はは、俺も夢みたいだ。でも、夢じゃない」
「……うんっ」
微笑み合う二人を、夕陽が優しく包み込む。
背後では、少し離れた物陰から、そっと様子を見守る人の姿。
彼は小さく息をつくと、そっとその場から歩き去っていった。
その背中に、どこか清々しい覚悟滲ませて。
優しく穏やかな風が抜けていき、ノアはふっと目を細める。
「夕暮れの風って、なんか落ち着くよな」
「う、うん」
「……ほんと、落ち着く」
(私は落ち着かないんだけど!?)
ふたりで並んでいるだけなのに、心臓の音だけがやたらと大きく響いている。
「なあ、今日が終わんなきゃいいのにな」
「ど、どうして……?」
「ルチアと一緒にいられる時間が終わるの、なんか寂しい」
(もう私の方が終わりそうなんですが!?!?)
そんな風に言われて、無事でいられるわけがない。
でも、ノアは気づいているのかいないのか、いつもの調子で。
「なあ、ちょっと手、貸せ」
「え、えっ!?」
「別に意味ないけど、握りたくなった」
(意味しかないよ!?!?)
突然すぎて思考が止まる。けれど、彼の手は温かくて優しくて。
拒めるはずなんて、なかった。
「このまま、繋いで帰ろうぜ」
にぱっと笑うノアに、もうルチアは今日こそ、限界で。
……その時、不意に彼の目がまっすぐ自分を見つめてきた。
いつもの笑顔じゃなく、少しだけ、真剣なまなざしで。
「ルチア」
「え?」
「近いうちに、正式に婚約しにいくから」
「ふぁ、ふぁい……っ!」
毎日限界を迎えていた令嬢の心は、今日もまた、騒がしい。
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