第2話 この国の街は綺麗だ
街は、きれいだと思う。
歩いているだけで、やたらと整ってるなって感じる。
ガードレールも、標識も、家の壁も、車も。
視界に入るもののほとんどが、人間の手でつくられたもの。
当たり前のように道が舗装されていて、
誰かがそこに「道が必要だ」と思ったことの名残が、ちゃんと残ってる。
ビルが建ってる場所には、計算があって、
何かしらの理由があって、
「ここに建てよう」って誰かが決めたんだろうなって思う。
そう考えると、なんだかすごい。
全部にお金が動いてて、全部に人の判断がある。
何気なく通り過ぎてる街並みが、実は経済そのものなんだよね。
「作る」って、そういうことだ。
でも私は、たまに車で郊外に出る。
そうすると、街を抜けた先にあるのは、左右に連なる山や林や、何も手が加えられていない自然。
そういう景色にふと出会うと、ちょっとだけホッとする。
きっと、1万年前も同じだったんじゃないかなって思うような景色。
誰にも決められていない、誰の意図も感じない風景。
街の中では“必要なもの”として評価されるものばかりが並んでるけど、
山の中には、意味のないものがたくさんあって、それがなんだか、私にとっては救いみたいに思えることがある。
たぶん、私は昔からそういう視点で物事を見てしまうタイプだった。
みんながSNSで盛り上がってる話題にも乗れないし、
流行りのカフェで写真を撮るより、好きなYouTubeを観ている方が心休まる。
そういう話を誰かにしても、たいていは「ふーん」で終わる。
それが普通だってわかってるし、誰かを責めたいわけじゃない。
ただ、私の感じ方が少し“違う”だけなんだ。
「どっちが間違ってる?」って聞かれたら、
きっとこの国の多数決では、私のほうが変な側になる。
それも仕方ない。
この世界は、共感を集めた人が“正しい”ことになってるから。
本音を話せば、「見下してる」って言われることもある。
でも本当は、ただ自分の目線で語ってるだけなのに。
私は最近、あまり人の目が気にならなくなった。
誰かに何かを言われても、あまり腹が立たない。
多分、誰かの期待にも、失望にも、慣れてしまったんだと思う。
自分って、自分を“ちゃんと見てくれる人の数”だけ存在してる気がする。
例えば100人の前にいて、誰もこちらを見ていなければ、
私はきっと、そこにいても“いない”ことになる。
逆に、たった一人でも「あなたの話を聞いてるよ」って人がいれば、
私は“存在できる”。
だから、こうして言葉を書いてる。
誰に向けてってわけじゃないけど、
どこかにいるかもしれない“誰か”に届けばいいなって思ってる。
そしてできるなら、
その誰かが、自分のこともちょっとだけ肯定できるようになれば、それって、すごく尊いことなんじゃないかなって。