その7 シモンズ侯爵邸に来ました
王都郊外にあるシモンズ侯爵邸は、ヘイワード伯爵家とは比べ物にならない立派な邸だった。正門を通過してから本館まで五分以上は馬車に揺られた。
馬車が止まり、降りたアシュリーは本館を見上げて一瞬、足が竦んだ。
王宮のように立派な建物だったので見惚れてしまった、だけではなく、なんとなく悪寒が走ったのだ。邸全体がどんよりとした黒い靄のようなもので覆われているように見えたのでアシュリーは目を擦った。
「どうした?」
ヒューイは立ち止まったアシュリーを訝しげに見た。
(なんだろ、この感じ、全身に鳥肌が立つような……それにしても)
「立派なお邸ね」
「まあな、でも、領地の本邸に比べればちっぽけなもんさ、シモンズ家の領地は広大だからな、本邸もバカデカくて使用人も大勢いる、領地の治安を守る騎士団もあるんだぞ」
自慢するように言うヒューイは無邪気な子供のようだった。
そんなヒューを見て、少し緊張は和らいだものの、言い知れぬ不快感は収まらずに動作はぎこちなかった。
「エスコートが必要か?」
ヒューイは手を差し伸べたが、
「いえ、侯爵様の手を煩わせたりしません、平民ですから」
「平民で通すのか、別にかまわないが」
(きっと気のせいだわ、呪いなんて妙な噂を耳にしたから、神経質になっているだけよね)
アシュリーは違和感を無理に振り払おうとした。
「ヒューイ叔父様!」
そこへレースフリフリの可愛いドレスを着た令嬢が、ゴージャスな金髪の縦ロールを弾ませながら駆け寄った。
「なんだオリヴィア、騒々しい」
オリヴィアはアシュリーより少し年下、長いまつ毛の下には大きな碧の瞳、白い肌にサクランボ色の唇が映える人形のように愛らしい少女だった。
しかしヒューイは露骨に嫌そうな顔をしている。
「どこへ行ってらしたの、怖かったわ」
オリヴィアはヒューイの様子などお構いなしに彼の手にしがみついた。
「またですの、今度は薔薇園が荒らされたんです、お母様が丹精込めて育てていた薔薇が、全部切り落とされていましたのよ」
オリヴィアはヒューイの腕に顔をうずめた。
なにが起きたかわからないまま、黙って様子を窺っていたアシュリーは、そっぽを向きながら溜息をつくヒューイを見た。
事情は知らないが、二人の関係は一方通行で、慕うオリヴィアと煙たがるヒューイの図式が一目瞭然だった。
「わかった、あとで様子を見に行くから、それよりお客様を案内したいんだけど」
「お客様?」
その時はじめてオリヴィアはアシュリーの存在に気付いた。
「誰?」
「アンだ、しばらく邸に滞在してもらう」
「アン・ヘイズと申します、お世話になります」
偽名を名乗って挨拶をしたが、オリヴィアはアシュリーを完全スルーで、ヒューイを見上げた。
「なんでこんなみすぼらしい平民をお邸に泊めるのですか?」
「ぶつかって怪我をさせてしまったんだ、治るまで面倒を見る責任がある」
「叔父様にぶつかった? そんな無礼を働いた平民など、捨て置いても良かったんじゃありません?」
貴族の中にはこんな考えをする人が多いのだろうとアシュリーは嫌悪感を覚えた。社交界に出ておらず、貴族らしからぬ生活をしていたからかも知れない。薬草畑で平民の使用人と共に働いているアシュリーには浮かばない発想だった。
「トンプソン、客室の用意を頼む」
ヒューイは中年の侍女長マリエス・トンプソンに指示した。トンプソンは〝えっ?〟と言う感じで眉間に皺を寄せたが、なにも言わずに了承した。
「かしこまりました」
「彼女は鞄を盗まれてなにも持っていないから、必要な身の回り品も用意してやってくれ」
「はい」
* * *
トンプソンは四十絡みの中年婦人、若い頃は美人だったのだろうと思わせる整った顔立ちと気品を備え持つ女性だ。男爵家の出で、行儀見習いのために侯爵家に来たが、色々と事情があって婚期を逃し、そのまま侍女として仕えている。
アシュリーはトンプソンのあとに続いて邸内に入った。
広いエントランスホールには豪華なシャンデリアがあり、螺旋階段が二階へと続いていた。その奥にはダンスホールがあるようだったが、使われている様子はなく、照明も薄暗かった。
大きく立派な邸宅だが雰囲気は陰気臭くて、寂れた感じが否めない。それに、案内してくれているトンプソンも負のオーラが滲み出ているようにアシュリーは感じていた。
ヘイワード家にいた時は、なじみのある人たち以外とは接点がなかったので、久しぶりに見知らぬ人たちの中にいる不安から、そんな風に感じるのだろうかとアシュリーは自分がいかに引きこもりだったかを思い知らされた。
エントランス付近を抜けて、中庭が見える回廊のほうへ進んだ。
外から見た印象通り、だだっ広い邸をアシュリーは物珍しそうにキョロキョロしながら歩いていた。中庭も広かったが、あまり手入れされていない様子が窺えてガッカリした。
(邸が大きいから仕方ないんでしょうけど、お客様をこんなに歩かせるなんて)
と感じたアシュリーの疑問はすぐに解決した。
彼女が案内されたのは、客室ではなく、本棟からほど遠い、使用人たちが暮らす西棟の隅にあるメイド用の空き部屋だった。
使用人でも貴族出身の執事や侍女と、平民のメイドや下働きの者は待遇が全く違う、案内されたのは質素な部屋だった。
一瞬、えっ? とアシュリー立ち止まった。
(どう見ても客室じゃないわよね)
トンプソンをチラリと見たが、
「着替えと食事はあとで運ばせるから」
(客に対してその言葉遣いか)
「お手数をおかけます」
ここで反発してもしょうがないと思ったアシュリーが部屋に入ると、トンプソンはバタンとドアを閉めて去って行った。
(ヒューイ様は確かに客室って言ったわ、ここはどう見ても使用人部屋、いくら平民の格好をしているかと言って、あからさまに主人の指示に従わない侍女ってどうなの?)
アシュリーはふと馬車の中で気かされた話を思い出した。ヒューイは前々侯爵が若いメイドに手を付けて産ませた妾腹、半分は平民の血が流れている。異母兄夫妻の死で急遽呼び戻されて爵位を継ぎたての彼は、使用人たちにまだ認められていないのだろう。
とは言え、主人を蔑ろにする使用人など解雇を言い渡されてもおかしくない、そうならない自信がトンプソンにはあるのだろうか? なにか訳ありな邸のようだとアシュリーは感じた。