その6 強盗に襲われました
三年前の初秋。
「収穫間近ね、今年も順調に育っているようね」
バルト子爵夫人のマルレーネは青々と広がる薬草畑を見渡した。
マルレーネは栗色の髪に青い瞳の少しきつそうな顔立ちの女性。横に立つヘイワード伯爵夫人のミシェルは蜂蜜色の髪に紫水晶の瞳の優しそうな美女だった。二人とも三十代の落ち着いた雰囲気の貴婦人だった。
「今年は天候にも恵まれたし、例年にない出来栄えよ」
ミシェルも太陽に光を浴びた緑の葉が微風に揺れるのを見て目を細めた。
「主人が喜ぶわ、高値がつけばうちも儲かるしね」
マルレーネは満足そうに頷いた。
「いつもお買い上げありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらよ、王宮薬師ご用達の特別な薬草を扱わせていただいているのですもの、感謝しているわ」
マルレーネの実家とヘイワード伯爵家は親戚関係で、年上のマルレーネはミシェルを妹のように可愛がっていた。お互い嫁いでからも変わらず親しい付き合いを続けていた。
「そうだ、今週末ディナーに招待させてよ、ちょうどブルーノも帰宅する予定だし、寄宿学校へ行ってから婚約者になかなか会えなくて寂しいって言っていたから、アシュリーも来てくれたら喜ぶわ」
「そんな風に言ってもらえて、アシュリーは幸せ者だわ」
ミシェルはふと寂しそうな笑みを浮かべた。
「あ……ルドルフは相変わらず家に帰って来ないの?」
夫婦関係が最悪なことを知っているマルレーネはピンときた。
それは今にはじまったことではない、もう何年も前から、もしかしたら結婚当初から愛人がいたのではないかとマルレーネは疑っていた。
この結婚は最初から失敗だったのではないかと……。
「もっと強く言ってもいいのではなくて、実際あなたが伯爵家を切り盛りしてるんだし、好き勝手させておくことはないわよ」
貴族に政略結婚は付き物、ヘイワード家のように婿養子を迎えなければならなかった場合は猶更だ。マルレーネ自身も、家格は下だが裕福なバルト家へ嫁いだのは実家への資金援助を目当てにした政略結婚だった。しかし、バルト子爵とは相性も良く円満な夫婦になれて、三人の男児に恵まれた彼女は幸運だった。
「あまり酷いようなら離縁して追い出してもいいと思うのよ。いえ、誤解しないで、ブルーノに早く爵位を継がせようとかそんなつもりはないのよ、でも、あまりに勝手すぎるから見ていられないのよ、私ならとっくに追い出しているわ」
結婚当初は穏やかな紳士だった夫ルドルフは、ミシェルの両親が流行り病で相次いで亡くなった頃から態度を急変させた。まるで前伯爵が死ぬのを待っていたかのように。
金遣いが荒くなり、伯爵家の執務もなおざりで家に帰らなくなった。外で愛人をかこっているのだろうとわかっていたが、
「もういいのよ、あの人がどこで何をしようとかまわない、アシュリーを授けてくれたし、あの人の役目は終わったのだから」
ミシェルは遠い目をして畑を見渡した。
「私にはこの薬草畑がある、そしてそれを受け継いでくれるアシュリーもいる。あの子には力があるわ、立派にこの畑を守ってくれるわ。それにあと数年の辛抱よ、アシュリーとブルーノが結婚したらルドルフには引退してもらって、ブルーノに爵位を継いでもらうから」
「それがいいわ、ブルーノにもしっかり言って聞かせておくわ、アシュリーを支える立派な夫になりなさいって、あの子、流されやすいところがあるからちょっと心配だけど、アシュリーがしっかりしているものね」
そこへ、十三歳のアシュリーが籠いっぱいに摘んだ薬草を見せに来た。
「見てくださいお母様、どれも最高級品です」
満面の笑みを浮かべるアシュリーはこの直後に起きる悲劇を知る由もなかった。
* * *
アシュリーが目を覚ましたのは一週間も経ってからだった。
一週間、生死の境を彷徨っていたアシュリーは、不思議な夢を見ていた。
こことは違う世界。
アシュリーは夢の中で別人だった。
黒髪に黒い瞳、年齢は二十代半ばから後半、自分とは似ても似つかないが、それが自分だと思う妙な感覚、ああ、これは別の世界で生きていた自分なのだ、きっと前世の記憶なのだとアシュリーは夢の中で納得した。
前世のアシュリーは日本という島国で生きていた。その世界は化学や文明が発達しており、人々の考え方もまったく違う、身分や家柄、男女の差別もないもない、アシュリーが今生きている世界よりずっと自由だった。女性も自立して職業を持つことが出来る、アシュリーは前世、薬剤師として働いていた。
夢の中でアシュリーは生き生きと働く前世の自分を羨ましく思った。
(自分の未来を自分で選べるなんて!)
ヘイワード家に生まれた瞬間から将来は決まっていた。選択権はない、ヘイワード伯爵家の血筋を守るため、決められた男性と結婚し、薬草栽培の技術を子供に伝えるのが使命と決まっていた。
畑仕事は嫌いじゃない、薬草が元気に育つのを見るのは楽しかった。でも、母はいつも寂しげだ、その訳をアシュリーは知っていた。愛のない結婚、父から見向きもされない母の姿を見て、アシュリーも悲しかった。そして予感があった、婚約者ブルーノとの結婚もそうなるのではないかと……。
夢から醒めれば、そんな人生が待っているだけだ。
「アシュリー!! よかった目が覚めたのね」
一週間ぶりに意識を取り戻したアシュリーを見下ろしていたのは、目に涙をいっぱい溜めたマルレーネだった。
「あなただけでも助かって、本当によかったわ」
アシュリーはまだ意識がハッキリせず、自分になにが起きたのか把握できなかったが、
「お母様……、お母様は!」
あの日の帰り道、強盗に襲われたことを思い出した。
突然、その時の記憶が押し寄せる。
馬車が止まったかと思うと、覆面をした数人の男がドアを乱暴に開けた。
ミシェルの悲鳴。
あっという間に引きずりおろされるミシェルとアシュリー。
地面に投げつけられるように降ろされたアシュリーが見たのは、すでに血だらけで横たわる二人の護衛騎士と御者。
そして、アシュリーにも棍棒が振り下ろされた。
抵抗するどころか、悲鳴を上げる間もなかった。
頭に激痛が走った瞬間、アシュリーの意識は途切れた。
「ミシェルは……苦しまなかったと思う、即死だったらしいわ」
マルレーネは辛そうに言った。
「そんな……」
ミシェル、二人の護衛騎士と御者、全員が殺害され、アシュリーも頭を殴打されて瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に一命を取り留めた。
「お母様……お母様、お母様ぁぁぁ!!」
泣き崩れるアシュリーをマルレーネが抱きしめた。
貴族を狙った強盗団の仕業だと聞かされたが、アシュリーは納得できなかった。貴族の馬車と言っても薬草畑を往復するだけの簡素な馬車だったし、取られるようなものは乗せていない。あきらかに最初から殺すつもりで自分たちを馬車から引きずりおろしたような印象だった。
結局犯人は捕らえられなかったし、真相は闇の中に消えた。
負傷した頭の包帯が取れたのは一か月後だった。額には一生消えない傷跡が残った。それ以上に、理不尽に母親を失った心の傷は深く、アシュリーは臥せったまま部屋から出られなかった。
翌年から予定していた王立学園の入学もなくなり、デビュタントも見送られることになった。そしてヘイワード伯爵家の令嬢は、引きこもりの傷物令嬢になってしまった。
そんな彼女を気遣って見舞ってくれるのはマルレーネだけ、娘がそんな目に遭っても父ルドルフの無関心は変わらず、顔を合わせることもなかった。
そして一年後、父は愛人だったカティアを後妻に迎え、アシュリーはますます居場所を失くした。
しかし、マルレーネの勧めもあり、薬草畑には毎週通い続けて栽培に力を注いだ。
前世の記憶を夢で見たアシュリーは、薬草栽培だけではなく、その先にも興味を持つようになっていた。いつか、自分が育てた薬草で薬を作ってみたいと思っていた。
ヘイワード伯爵家からの家出は夢を実現する最初の一歩、家のしがらみから解き放たれれば違う未来が開ける、自らの足で踏み出そうとしたのだが、一日目にして躓いてしまった。