その4 鞄を盗まれました
アシュリーに体当たりされた男は不服そうに、蹲っている彼女を見下ろした。彼からすれば、勝手にぶつかってきて侘びもなしか? と言う心境だったのだろう。
「大丈夫?」
リフが心配そうに駆け寄ったが、アシュリーは押さえている左手首が痛すぎて返事も出来ない。
「見せて」
リフはそっと彼女の手を取った。
「倒れた時、手をついたんだね、折れたのかも」
そして責めるように突っ立っている男を見上げた。
「なんてことするんだよ、ヒューイ」
ヒューイと呼ばれた男は、オリーブ色の髪に深い緑の瞳が神秘的な整った顔立ち、身なりのよい服装の見るからに貴族だ。平民を装っているリフが呼び捨てにするのは違和感があった。
「その子が勝手に体当たりしてきたんですよ」
ヒューイは不服そうに言い放ったが、さすがに小柄な女性を吹っ飛ばした罪悪感はあったようで、リフの横に片膝をついてアシュリーの様子を窺った。
「折れてるよ」
リフは同意を求めた。
「かも知れないですね」
「君のせいだぞ」
「とばっちりだ」
「避けられなかったヒューイが悪い」
「無理でしょ」
なぜか口論を始めるリフとヒューイの間で、アシュリーは顔をあげることも出来ず痛みに耐えていた。
「そんなこと言ってないで、早く手当てしてあげなきゃ」
そんな様子を見かねた店の女将ソフィーが呆れながら口を挟んだ。
「そうだね」
リフはアシュリーの手をハンカチできつく縛って応急処置をした。
「近くに診療所があったよね」
「だ、大丈夫です、すみませんご迷惑をおかけして」
「大丈夫じゃないだろ、真っ青だし」
「固定しておけば痛みも治まると思います」
「いやいや、折れてたら無理だよ、僕が君に話しかけたりしたから隙が出来たんだ、申し訳ない」
「そんな、油断した私が悪いんです」
経緯を知らないのでキョトンとしているヒューイに、
「鞄を盗まれたんだよ」
ソフィーが説明した。
「今、ここで?」
「犯人を追いかけようとして君とぶつかったんだ、そのせいで逃げられた」
リフは再びヒューイを責めた。
「それも俺のせいなのですか?」
「避けられなかったろ、反射神経鈍ったんじゃないか?」
「ほらほら、口論はあとで」
ソフィーが再び割って入った。
「早くお嬢ちゃんを連れてっておあげなさい」
「けっこうです! あの中には財布も入っていて、診療所に行っても治療代は払えないし、それどころかここの代金もお支払いできません」
「それは大丈夫、ヒューイの責任だから彼が支払うよ、でも、今日のところはウィルトン行をあきらめるしかないね、治療後は家まで遅らせるよ」
「それも俺ですか?」
「当然だろ」
「帰る家はないんです、だからウィルトンの親戚を頼るところだったんです」
「でも、お金もないんだろ? どうやって行くんだい」
「それは……」
怪我に気を取られて、全財産を失ったことを失念していたアシュリーはさらに青ざめた。
今更どの面下げて家に戻れと言うのだ? そんな惨めなことは絶対にしたくない、かと言って他に方法は見つからない。情けなさと手首の痛みが重なって、涙が込み上げてきた。
(泣くな! 泣いたってどうにもならない)
唇を噛みしめて必死で涙を堪えるアシュリーを見たリフは、しょうがないなぁと言わんばかりに、
「しばらくヒューイのところで休ませてもらうといいよ、それから先のことを考えよう」
リフの提案に、ソフィーは渋い顔をした。
「でもあの邸は」
「ただの噂だよ、侯爵家ならちゃんとした客室もあるし」
「侯爵家?」
ヒューイが貴族なのはわかっていたが、侯爵家ほどの高位貴族がこんな町外れの食堂に一人で来ているのは意外だった。
「こう見えてもシモンズ侯爵様なんだよ」
アシュリーは改めてヒューイを見上げた。
仏頂面だがキリッとした目にスッとした鼻筋、端正な美しい顔だ。目が合ったアシュリーはドキッとした。
出会った男性が連続して男前なんて、これは幸運なのか?とアシュリーは戸惑ったが、
(確かに運命の出会いを夢見たわよ、でも、これは違うわね)
と打ち消した。
(いくらなんでも、私には釣り合わないわ)
「侯爵子息じゃなくて、お若いのにご本人なのですか?」
アシュリーは平常心を取り戻して尋ねた。
「まあ、事情があってね、なりたて侯爵様だよ」
揶揄うように言うリフに、ヒューイはなにも返さず居心地悪そうにしていた。
「でも、ご迷惑をかけるわけには」
「彼のせいで怪我をしたんだから遠慮することないよ」
リフは馴れ馴れしくヒューイの肩を叩いた。