その32 散歩に行きました
心配された後遺症もなく、アシュリーはすっかり元気を取り戻した。クローゼットの通路へと続く穴は厳重に塞いだものの、それでも信用できないないのか、ヒューイは事務書類を持ち込んで、アシュリーの部屋で執務をしていた。
「もう逃げませんから」
と言っても、
「俺がここにいたいだけだ」
動こうとしないので、仕方なくアシュリーも執務を手伝った。
監視されているとわかっていても、窮屈に感じることはなく、不思議と心地よかった。母が亡くなってからヘイワード家ではいつも一人だったので、それに慣れていると思っていたアシュリーだったが、本当は人恋しかったのだと気付かされた。
それとアシュリーは地下通路で会った黒マントの女が気になってしょうがなかった。
(私と同じ紫の瞳の女性、なぜ、私を殺さなかったの? 彼女が魔女で呪いをかけているの? あの人は、本当に魔女だったのかしら? とても悲しそうな瞳だった)
もう一度、会って話がしたいと思ったアシュリーだったが、地下通路へと続く出入口はガッチリ閉鎖されてしまった。
「どうした? 頭痛いのか?」
ボーっと考えていて手が止まっていたアシュリーをヒューイは心配そうに見た。
「いえ、ちょっと集中力がなくなってきました」
「そうか、じゃあ、外の空気を吸いに行くか」
回廊から北棟の廊下を抜けて、騎士団の訓練場も通過し、二人はその奥に広がる外庭まで来た。
「邸に来た時、案内してもらったでしょ、その時にこの場所がとても気になってたんですよ」
手入れが行き届かずに、草木が伸び放題の森のようになっている自然み溢れる素敵な場所、アシュリーはこの外庭がどこまで続いているのだろうと来てみたかったのだ。
「この外庭はどこまであるんですか?」
「けっこう広いよ、王都でも郊外だからこれほどの敷地を持てるんだ。その昔、戦争の時、王都まで敵に攻め入られたことがあって、シモンズ家の広大な敷地で食い止めたって話もあるくらいだよ」
「ここが戦地に……」
(だからなのかしら、この全身に鳥肌が立つようなゾッとする感じが襲ってくるのは、地下通路に入った時みたいな不快感、戦で命を落とした者の無念がこの地にこびり付いているのかしら)
「やっぱり庭師を捜さなきゃ、荒れ放題じゃもったいないよな、子供の頃はちゃんと整備されてたし、遊び場にしてたんだ」
ヒューイは少年のように瞳をキラキラさせた。
「走り回ってた頃が懐かしいや」
「私も駆けっこは得意だったんですよ、うちの場合は庭じゃなくて畑ですけどね」
「畑? そうか薬草畑だな」
「畦道はぬかるんでて走りにくいんですけど、私は平気」
と喋りながら足元を見ていなかったアシュリーは木に根に躓いてよろめいてしまった。
「キャッ」
ヒューイが彼女の腰に手を添えて支えたので転ばずにすんだ。
「平気じゃないな」
彼の笑みが目の前に迫り、ドキッとする。
ヒューイの深い緑の瞳がアシュリーを映している。吸い込まれそうな錯覚に頭がボーっとなる。
大きな手で支えられた腰が引き寄せられたような気がした。
彼の顔が近づく……ふと、目を閉じたくなったが。
ヒューイはハッと我に返った。
彼女を抱き寄せてなにをするつもりだったんだ! と顔を背けた。
そして、
「もっと奥には小川があって、釣りもできるんだ」
話を逸らしたが、赤くなった耳は隠せなかった。
アシュリーはあえて見ないようにして、
「じゃあ、釣り竿持ってくればよかったですね」
言いながら、彼から距離を取った。
「今度な」
今度なんてないかも知れない、ふとそう思うとヒューイは喪失感に襲われた。
「左手、もう治ってるんじゃないか?」
「え……、いえ、まだ痛いですし」
咄嗟にそう言ったが、嘘だった。痛みは全然ないし完治していると言ってもいいだろう。でも、そうなればすぐに追い出されるのではないかという不安が、嘘をつかせた。
(私はまだ、ここにいたいのかしら?)
怖い目にも遭ったが、ここでの生活は楽しかった。ヘイワード家では一人で黙々と執務をこなしていたが、ここではヒューイと二人で過ごす時間が多かった。ヒューイは無愛想だけど、お互い気を遣わない関係が気楽だった。
その時、ふと、雑木に埋もれた小屋が目に入った。
「あれは?」
「ああ、昔庭師が使っていた小屋だな、今は専属庭師がいないから使われていないみたいだ」
アシュリーは引き寄せられるように足が向いた。
急に、あそこへ行かなければならないという強迫観念に襲われて、アシュリーはフラフラとそちらへ行った。
ドアは蝶番が一つ外れて傾いていたが、アシュリーはそれを引いた。
ギギィと不気味な音がした。
ついてきたヒューイは中に入ろうとしたアシュリーを止めた。
「危ないからやめておけ、崩れる恐れがある」
アシュリーは仕方なく思いとどまった。
「戻ろう、そろそろ夕食の時間だ」
「ええ」
ここはいったんあきらめることにした。
「なぜ専属庭師を雇わなくなったの?」
「俺が寄宿舎に入っていた頃のことだから、あとから聞いた話なんだけど、若い庭師が亡くなったのがきっかけなんだ」
ヒューイはこちらに戻ってから、アルドに聞いた事件の概要を語った。
「ライナスは俺が寄宿舎に入る前から働いていたから知っていたけど、そんなことになっていたなんて、当時ここを離れていた俺には知らされなかったし驚いたよ。それ以来、シモンズ邸は使用人に無茶を押し付けた上、病気になっても見殺しにすると悪い噂が立ったらしい」
「そんなことがあったんですか」
「だから呪いの噂云々より前から、シモンズ家は評判が悪くて、近隣から働きに来る者は少ないんだ」
アシュリーは騎士棟の方に戻りながら、ふと振り返った。
ちゃんと庭師の手が入っていた頃は、きっと美しい外庭だっただろうと思うと、今の荒れ果てた状態が残念だった。