その23 噛みつきました
新鮮な空気を吸いたかったヒューイは庭へ出た。
例の薔薇園まで来ると、花を見つめるアシュリーの姿を見かけた。
「へー、綺麗に咲いたな」
あの時、難を逃れた蕾が開いているのを見て、ヒューイは感嘆の声を上げた。
「そうでしょ、すぐ元通りにはなりませんけど、ちゃんとお世話すれば来年はもっとたくさん咲かせられますよ」
ヒューイはリフェールから聞いた〝ヘイワード家の血に流れる魔力〟を思い出していた。全滅だと思っていた薔薇園を再生させたのは、彼女の力の証明なのかも知れない。
「ありがとう」
「いえ、植物を育てるのは好きですし、いい気分転換になりました。庭木も剪定してちゃんと手入れすれば素敵な中庭になるのにもったいないです」
ヒューイはアシュリーの横に立ち、共に開花した薔薇を見おろした。
「そうだな、昔は専属の庭師がいたから、ちゃんとした庭だったんだけどな。この花壇はもともと俺の母が作ったものらしい、三歳の時に病で亡くなったから、母のことはあまり覚えていないんだけど」
花を見つめるヒューイの横顔があまりに美しかったので、アシュリーは思わずポーッと見惚れてしまった。
不意にこちらを向いた彼と目が合って、アシュリーは慌てた。
「なんだ?」
「いえ、ヒューイ様のお母様は、きっとこの薔薇のように美しい人だったのでしょうねと思って」
「ああ、でも切り落とされた花のように可哀そうな人だった」
ヒューイはふと目を伏せて、淋しそうな笑みを浮かべた。
「メイドだった母は当時の侯爵に目を付けられて無理やり愛人にされたんだ、望んでもいない男の子供を身ごもって……、俺さえ生まれていなければ逃げられたかも知れない」
そう漏らしてから、ハッと顔を上げた。
「また余計なことを聞かせてしまったな、どうもお前には口が軽くなってしまう」
「大丈夫ですよ、私は怪我が治ったら出て行く身です、聞いたことは全部ここに置いていきますから」
「そうか」
「お母様はヒューイ様を生んだこと、後悔されてないわ、だってこんなに愛されてたんですもの」
「愛されてた? なぜそう言い切れる」
「お母様の愛情をいっぱい受けられていたから優しいんですよ」
「優しい? 俺が? 冗談はよせよ」
「さっき執務室での話、ちょっと聞いちゃったんです、そんなつもりはなかったんですけど、お声が大きかったから……。オリヴィア様には通じなかったようですけど、本当に彼女のためを思って領地へ避難させようとされてるんでしょ」
「ああ、本当に魔術師が呪いをかけているのなら俺の手には負えないし、シモンズ家が恨まれているとしたらオリヴィアが一番危険だと思ったが、呪いなんて不確かなことを口にするのは憚れたし、うまく説明できなかった」
「……ですね」
「お前もここから離れたほうがいいかも知れないな」
「えっ、なぜです? 私はこの家の関係者じゃありませんよ」
「わかってる、でも、この先もなにが起きるかわからないだろ」
「心配してくださってるのね」
「ああ、お前は我が国にとって重要な人物らしいからな」
「えっ?」
ヒューイはキョトンとしたアシュリーを真っ直ぐ見つめた。
「アシュリー・ヘイワード、それが本当の名前だな」
「なぜそれを」
アシュリーの顔からたちまち血の気が引いた。
「リフェール殿下は最初からお前の正体に気付いていたんだよ」
「そんな」
まさかあんな昔、一度会っただけの平凡な女の子を覚えていたなんて思いもよらず驚いた。
「ウィルトンには行けないよ」
「え?」
「リフェール殿下はお前を国から出さないつもりだ」
「なぜ!」
「ヘイワード家の血を絶やしてはいけないらしい」
「血筋ってそんなに重要なんですか!? ずっと言われ続けて重荷でした、だからそんなものは捨てて自由になりたいんです!」
「隣国へ行けば自由になれるのか?」
「それは行ってみなきゃわかりませんけど」
「逃げられないよ、リフェール殿下はああ見えて容赦ないから、どこへ逃げても必ず君を見つけ出すよ」
「嫌っ!」
駆けだそうとしたアシュリーの手をヒューイは掴んで止めた。
「嫌よ! あの家には戻らない!」
振りほどこうとするがビクともしない。
「放して!」
「どこへ行くんだ」
「どこでもいいでしょ、逃げられるところまで逃げるんだから!」
「大丈夫、お前を傷付けた奴らのところへは戻さないから」
「騙されないわ!」
「騙すなんて」
アシュリーはいきなりヒューイの手に噛みついた。
「痛っ!」
堪らず放すヒューイ。
その隙にアシュリーは走って逃げた。
「おい! どこ行くんだ!」
とは言っても、走った方向が東棟の方だったので、すぐには邸からは出ないだろうと思ってヒューイはそのまま見送った。
噛まれた手を見ると、歯形がクッキリついていた。
「とんだじゃじゃ馬だ」
* * *
ルドルフ・ヘイワード伯爵が薬草畑に赴いたのは十数年ぶりだった。
家業のことは妻に任せきり、薬草の知識はなく勉強する気もなかった。妻が亡くなってからも無関心を貫き、娘のアシュリーに押し付けていた。
品質不良による返品を受け、仕方なく畑の状態を見に来たのだ。同行したカティアは日傘を目深にかぶり、ぬかるんだ足元をしきりに気にしていた。
広大な畑を埋め尽くしていたのは、青々とした薬草ではなく、変色して萎びた雑草のような葉ばかりだった。正直なところ、ルドルフにはこの状態が異常なのかさえわからない始末だった。
しかし使用人から、ほぼ全滅と聞かされて愕然とした。
「どういうことなんだ! 責任者はどこ!」
「責任者はアシュリーお嬢様です、畑の管理はあの方がすべて担っておられました、我々は指示通りにしていただけで」
「じゃあ、今まで通りにすればよかったんじゃないか」
「指示は毎週変わりました、水の量、肥料の量、生育状態を見られて種類ごと事細かに、我々では見分けがつかない変化をアシュリー様は見極められておられましたので」
「それにしても、たった三週間で枯らしてしまうなんてありえないだろ、役立たずどもめ! 全員クビだ!」
「そんな殺生な! 今月の給金も頂いておりませんのに」
「先週の収穫分も不良で返品されているんだ、損失を出しておいてなにが給金だ!」
「せめて今まで働いた分だけでも」
「ええい、うるさい! とっとと消えろ!」
ルドルフは護身用に帯刀している剣を抜いて威嚇した。
「ひえっ!」
使用人たちは驚いて逃げ去った。
しかし、ルドルフの怒りは収まらない。
「あんな役立たずどもに今まで給金を支払っていたのか!」
「それにしても変ですよ、急にこんなことになるなんて、もしかしたらアシュリーがなにかしたのではなくて?」
カティアが冷ややかに言った。
「なにかとは?」
「婚約破棄を恨んで、毒を撒いたとか」
「そうか! そうだな、そう訴えれば、王宮の薬師への言い訳になるし責任回避できるかも知れないな」
ルドルフは腕組みをしながら頷いた。
「その間に薬草栽培の専門家を雇って畑を立て直せば、なんとかなるだろう」
「資金はどうされます? ブルーノは実家に援助を断られて役に立ちませんよ」
カティアが不服そうに顔をしかめた。
「それどころか、本当に縁を切られそうだと焦っていますわ、気の小さい男です」
「バルト子爵の奴も今までさんざん儲けさせてやったのに、細君の言いなりになって取引停止を言ってくるなんて、情けない男だよ」
「実家の後ろ盾がないのなら、ブルーノとリディアを結婚させる意味はないのでは?」
「そうだな、家格は下だが商売上手で資産だけは豊富なバルト子爵家と繋がれば損はないと思っていたのだが、こうなっては彼を婿養子に迎えるメリットはなにもない」
「リディアの美貌なら、もっと条件が良い男性との縁組も可能ですわよ、ブルーノと正式に婚約を届け出ていなくて幸いでしたわ」
「そうと決まれば、リディアに新しいドレスだ、夜会には必ず出席させて、美貌をアピールさせるんだ」




