第六話
夕暮れ時。つい先ほどまで子供たちの華やぐ声が響いていたが、今では穏やかな静寂が辺りを包む。茜色の光が照らし、木々が長い影を落とす。その庭に面する縁側。そこに少女は座っていた。顔をしかめ、手をたどたどしく動かし紐を操っている。両隣には女の子が座り、少女の様子を眺める。
「こう……かな?」
少女が女の子たちに手の中の、綾取りの紐でできた星を見せる。それを見て、女の子たちが楽しげな、高い声をあげてはしゃぐ。
「できたー! お姉ちゃん上手!」
「すごいすごい! ホントに今までやったこと無かったの~?」
「うん。教えてくれて、ありがと」
少女の言葉に、二人は満面の笑みで応えた。その時、イセルが二人を呼ぶ声が届いた。保護者の方が来たのだろう。女の子たちは立ち上がった。
「お姉ちゃん、また明日ね」
「明日も遊んでね」
「うん、また明日ね。バイバイ」
少女は手を振り、二人は大きく手を振って、家の奥へ駆けていった。
一人残された少女は、目の前の庭に視線を運ぶ。イセルに運ばれ、ルナの下へ来て二日経った。体の強張りは残るものの、体を動かした方がかえっていいとルナに言われ、それなら子供たちと一緒に遊んだ方がいいとイセルや、子供たちに誘われ、一日中庭で子供たちに付き合い、先程のように女の子たちと遊びに興じていた。
少女にとっては慣れたものではなく、ちゃんと子供たちの相手をできていたか分からない。それでも失って久しい、穏やかな時を過ごした。
この日の安らいだ時間を思い返していたが、少女は我に返り、そして頭を振った。自分がここにいれば、彼らのこの生活が脅かされる。ずっと居続けられるわけはない。巻き込まないように、早く回復してまた旅立たなくてはならない。少女は大きく、息を吐いた。
風が少女を撫でる。首元まで伸びた髪が靡く。湿り気を帯び、どこかせわしなさを伴ったそれは、近づく夏の訪れを告げるものだろうか。髪を指で軽く横に流しながら、風に身を委ねるように、少女は瞳を閉じた。
「不思議に、思わないのですか? 私が、何をしていたか、とか。何で、誰に襲われていたのか、とか」
恐る恐る紡がれた少女の問いにルナは軽く目を開き、少々の間を置いた。
「……聞いたとして、あなたは答えてくれるの?」
「それは……」
逆に問われ、少女は戸惑う。小娘一人が夜も明けきらぬ森で、矢を受け毒で死にかけている。治療どころか、関わることすら忌避されるような状況だ。明らかに面倒事の巻き込まれていると分かる者を、助けようとする者の方が少ないだろう。警備隊に通報されていたっておかしくはない。
まさかすでに。
少女は息をのんだが、ルナは相変わらず微笑んだままだ。
「確かに、聞きたいことは沢山ある。それなりの事情もあるんでしょうけど、多分答えてくれないでしょ?」
少女は何も言えずに、ただ言葉を待つだけだった。
「私はこれでも医者の端くれ。目の前に苦しむ命があれば、全力で救うのが努めだと思ってる。例えそれが誰で、どんな人だったとしても」
「もし私が、犯罪者だったとしてもですか? 殺人鬼だったとしてもですか? 助けたことで、誰かが犠牲になるかもしれない。もしかしたら、あなたが犠牲になるかもしれないのに?」
少女の言葉に熱が込もり、畳み掛けるように言葉を重ねる。明らかに不信の表情を浮かべる少女に、ルナは平然として言葉を放つ。
「その結果私が死ぬとしても、後悔は無いわ。自分の持てるもの全てを出して命を救う。それが……」
一瞬その目はどこか遠い場所を見つめるように意識が消え、そして哀しげな表情で俯く。しかしすぐに顔をあげ、
「まあ他の人、イセルや子供たちが犠牲になるなら、そうなる前に私は刺し違えてでも止めるわ。でもそんなことを聞いてくれるあなたは、少なくともそんな輩ではないと思ってるけど」
いくらか真剣さが表情に出ているものの、その口調はやはり穏やかである。だが少女は唇を噛みしめ、ルナを睨んだ。
「そんな綺麗事、信じられるわけない……!」
身体を震わせるほどに、その言葉は不信と怒りに満ちていた。この感情はお門違いだとは少女も気付いている。手厚い治療を受けられただけでも、少女にとって奇跡に近しい幸運だ。感謝こそすれ、このように激情のままに言葉をぶつけることは間違っていると。
しかし少女は抑えられなかった。これまでかけられてきた甘い言葉、温かな言葉は、少女の隙や油断を誘う打算や欺瞞に満ちていた。
だが過去のどんな言葉よりも、ルナの言葉に少女の心は大きく揺さぶられた。何故ここまで心が波立つのか、少女自身分からなかった。
ルナは笑みを絶やさず、口調を変えることなく穏やかに言葉を紡いだ。
「あなたは何も心配せずに、ただ回復に専念なさい。無駄な詮索はしないし、あなたを危険に晒すこともしないと約束するわ。だから完全に回復するまでは、あなたはここにいることを約束して頂戴。いいわね?」
それは自分にとって都合の良すぎる提案であり、ルナがそれを違えることがないという保証もない。騙されているのかもしれない。それでも、ルナの力強い視線、その誠実な態度に、少女は思わず彼女の言葉に、気付けば少女は頷いていた。ルナは優しげに微笑み、今度こそ部屋を後にしようとした。
「お名前くらいは、教えてくれるかしら?」
部屋の去り際に、さも唐突に思い出したようにルナが言った。
「……。セラ、セラ」
目を開く。振り向いくと、イセルが近づいてきた。
「もう夜だし、家の中戻ろう?」
明るく言うイセルの言葉に曖昧に頷き、セラは庭へ視線を移した。いつの間にか影は消え、全てが夜闇に包まれている。日は沈んだが、西の空にはまだ茜色がうっすらと残る。それもやがて紺碧に染まるのだろう。星たちが俄かに煌き始めていた。
セラの隣にイセルが座る。隣のイセルに目を向けると、イセルの方もセラを見ていた。
目が合い、しばらく沈黙が訪れる。それを先に破ったのは、イセルだった。
「お疲れ。病み上がりなのにごめん、無理させた?」
「そんなことないです。久しぶりに楽しませてもらいました」
「……そっか」
軽く微笑むイセル。普段のあどけなさは影を潜め、その笑みは穏やかでルナのそれにどことなく似ていた。妙に胸がざわつくのを感じ、それを悟られないよう、セラは俯いて言葉を続けた。
「凄いですね、イセルは」
「ん? 何が?」
「子供たちとあんなに打ち解けて遊べるって、そうできるものではないと思います。少なくとも、私にはできません」
この日のことを思い返す。慣れていないセラには仕方のないことかもしれないが、子供たちと接していても年齢差ゆえの隔たりを感じてしまっていた。 イセルは、本当の意味で対等に共に遊んでいるようにセラには見えた。その中でも子供たちに危険がないように注意を払い、時には喧嘩の仲裁に入るなどして気を配るイセルを見て、心から子供が好きなんだと思い胸に温かいものが去来した。
「そんなことないよ。俺だってセラみたいに女の子の遊びできるわけじゃないから、どうしても男の相手ばっかりしがちになる。今日は本当にありがと。助かったよ」
「そんな、お礼なんて。私だってしたことなかったから、ずっと教えてもらっていただけです」
「それでもいいよ。あいつらはそれだけで楽しかったみたいだから」
「そうですか?」
「うん。そんなもんそんなもん。あんまり考えなくていいよ」
再び訪れる静けさ。誰からというわけもなく、二人は空を見上げた。全てが紺碧に染まり、そこに浮かぶのは満天の星。普段は日の光で消されるか細い光が今、集まり、この場に満ちる。月は雲に隠れているが、それでも十分に場を照らす。
どれくらい経っただろう。或いはそれほど過ごしてはいないのかもしれない。今度はセラが言葉を紡いだ。
「将来はやっぱり保育士か、先生に?」
「んー、そうだな。魔力無し(プレーン)の俺は魔導学校には行けないし、そんなところかな」
この世界の人間は本来なら魔導物質と呼ばれる、魔法の素となる力、所謂魔力を持つ。人によって赤、青、緑、黄の四色に分かれ、初等魔導学校、中等魔導学校をほぼ全ての人間が通う。その中でも才能を持ち、研究者、教員、魔導兵等、魔法に携わる専門職を志す者のみ、高等魔導学校、その先の魔導学院へと歩みを進める。
しかしイセルやルナのように(今日の会話でセラに分かったことだが)ごく稀に魔導物質を持たない、いわゆる魔力無し(プレーン)が生まれる。そういった者たちや、魔法職以外の道に進む者たちは、普通高校、一般大学へと進むことになる。
「来年街に出て、教員養成の学校に行けって先生から言われているんだ。でも、正直なところちょっと迷っててさ」
この三日間で初めて見せた歯切れの悪い言い方に、セラは興味を示した。
「どうしてです?」
「勉強は先生に見てもらってるし、受ける所もそんなにレベルは高くないから合格はできると思う。けど俺が学校行く間、ここを先生だけに任せるってのがさ。街までの距離考えると、通いながらはきついからあっちで寮生活になっちゃうんだよね」
魔導物質が発現するのは、一般に六歳から八歳までの間。ルナの家はその歳までの村の子供たちの面倒を見る託児所的な役割を果たしている。その側らでここは村の診療所としての働きもあり、ルナは村人の診察を行っている。結果ほぼ一日中、イセルが子供たちの面倒を見ることになる。
「ちゃんとした教師じゃなくても、ここでずっとチビたちの相手しているのも悪くないって思ってるんだ。実際充実はしてるし。まあ、どっちがいいかってのは、分かってるんだけどさ……。ごめん。セラに話してもしょうがないよな、こんなこと」
とりたてて話すことでもない、というふうに話を切り上げようとするイセル。だが言葉を続けるときの表情は真剣そのものだった。
村での託児所、街での学校。待遇や労働環境をみればどちらがいいのか、というのは考えるまでもないだろう。それでも、子供たちやルナのことを思い、自身がとる道に悩む少年に、セラは穏やかに告げた。
「たとえどの道を選んだとしても、ルナさんや、子供たちは応援してくれると思います。私もイセルなら、子供たちにとって素晴らしい先生になれると思います」
優しさに溢れるイセルの言葉に、セラもまた偽らざる思いで答えた。素直で、飾らない言葉に、イセルは軽く瞠目する。出会ってまだ間もない少女。赤の他人とも言える者であるにも関わらず、その言葉は、少年の胸の中心へと確かに響いた。
「ありがと。なんか元気出た」
屈託ない、ともすれば幼いともいえる笑顔を向けられ、セラの胸に甘い痺れが走った。ルナや、子供たちに向けられるそれが自身に向けられていると思った途端、頬に熱を感じ、思わず顔を背けた。
「そ、そんな、私は何も……。ただ、お、思っただけのことを言っただけです。無責任なこと、言って、しまったんじゃないですか……?」
急に言葉の回りが悪くなったセラ。その態度を単なる照れ隠しだと受け取ったイセルは、悪戯っぽい笑みを浮かべ言葉を続けた。
「でも、先生になるんだったら、俺も大人にならないとな。俺今だって、おやつの取り合いでチビたちとケンカできる自信あるし」
その言葉を聞いて、セラを軽く噴出し、やがて肩を揺らして笑い始めた。一日中子供たちと一緒になってはしゃぐ姿を見て、それもありえると。子供たちと一緒になってアマリロを取り合い、そしてルナに怒られる場面を想像するのに難くなかったからだ。
笑いが零れるセラを見て、イセルは明るい笑みを浮かべた。
「やっと笑った」
「え……?」
ぽつりと呟いたイセルに、思わず言葉をもらすセラ。雲に隠れていた月が現れ、空の光がその輝きを増す。光に照らされ、少女の顔に浮かぶ無防備な表情。大きな目がさらに見開かれ、瞳の蒼い光が淡く揺れる。儚げなその姿を見て、今度はイセルの胸が、大きく高鳴った。
「いや、セラがここに来たときから、なんかこう、上っ面だけ笑ってるっていうか、自然に笑えていないような、そんな気がしてさ。何でかなーって思って、えっと、……だから、今やっとセラが自然に笑ってくれたなって思って、その、だから……あーもう俺何言ってんだ。お節介だったな」
しどろもどろになる口調を誤魔化すように、頭を乱暴に掻いて笑う。しかしセラを見て、無意識にそれを止めた。
瞳から流れ出た雫が頬を伝い、星と月に照らされ一筋の光の筋ができていた。
「セラ……?」
恐る恐る少女の名を呼ぶイセル。少女はその瞬間、我に返ったように身を震わせた。そして手で顔を覆い、しゃくりあげて泣き始めた。
「っ、ごめん、気に障ったなら……」
乾いた声をかけるイセル。大きく頭を振って、セラは顔を上げた。
「ごめ、なさっ、少し、一人に……」
それだけ言うのが精一杯なのだろう。それでもイセルの言葉を待って、しゃくりあげるのを懸命にこらえている。
「……分かった。落ち着いたら戻ってきて」
頷く少女を残し、イセルはその場を後にする。背中に届く嗚咽に幾度か振り向きかけたが、拳を握って家の奥へと進んだ。