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第三話

 目覚めた時にまず感じたのは、早鐘をうつ心臓の鼓動。そして全力で駆けた後のように、短く浅い呼吸を繰り返す己自身だった。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出していく。幼いころから、それも幾度となく見てきたこの夢を見る度に、少年の思考は終わりのない問いの迷路へと沈む。

 

 何故彼女は泣いているのか。

 

 何故彼女はあのような悲しい目をして、それでもなお、微笑みかけてくれるのか。

 

 何故、いつも自分の夢の中に現れるのか。

 

 沢山の疑問が少年の心を埋め尽くしていく。痛いほどに膨れた胸の内、その思いを、しかし、声に出して彼女に伝える事はできない。そしてつい先ほど見た光景もその疑問の答えとしては、あまりにも不可解なものであった。

 何故何も語ってくれないのか。何も語ろうとしない彼女は誰なのか。何を伝えたいというのだろうか。

 大きく溜息を吐いたあと、やり場のない苛立ちをぶつけるように布団を蹴り飛ばし、体を起こした。 視線を時計に向ける。時刻は四時を回りかけた頃。


 「考えていても仕方ない」


 少年は立ち上がり、着替え始めた。そして鞄を肩から提げ、部屋を出て玄関へと向かった。

 

 「イセル」

 

 玄関で靴を履いている時に、少年は背後から声をかけられた。振り返ると、そこにローブに身を包んだ、柔らかい笑みを浮かべた一人の女性が立っていた。

 

 「おはよう先生。ごめん、起こした?」

 

 「おはよ。いいえ、朝ごはんを作るところだったからいいんだけど。昨日はよく眠れた?」

 

 少年は、否定とも肯定とも言えない曖昧な唸り声を出した。その様子を見て、女性は苦笑しながら言った。

 

 「また、あの夢?」

 

 「まあ、ね。いや、本当に何なんだろうね、意味が分からなくてさ」

 

 夢の光景、切なさを思い出し、軽く奥歯を噛み締める。ホウ、と溜息を吐きながら玄関の開き戸を開ける。外はまだ夜の帳が下ろされたままの暗闇である。

 

 「あんまり悩んじゃダメだよ。そもそも、そんなきれいな女性(ひと)が夢に出てくること、健全な男子なら喜ぶべきよ絶対に」

 

 「はい?」

 

 何かいきなりふざけたことを言われた気がして、イセルは思わず女性を顧みる。四十を超えるはずの彼女の表情には、年齢よりもはるかに若い(幼い)悪戯心むき出しの笑みが張りついていた。

 

 「いやぁ、でもそれだとその人が裸で出てこなきゃおかしいか。

 まあ、何にせよ異性が夢に出るとは、あなたも大人の階段をのぼりつつあるということだよイセル君」


 イセル君、の部分をやけに強調して、人差し指を振りながら言う。イセルの言う通り先生らしい仕草と言葉だが、少々イラッとさせる要素が多分にあった。


 「それがエリーニャちゃんとか出てきてたらもっと面白いけど。まあ実際親しい人が出てきてそんな夢見出すようになったら、それはそれで喜ばしいやら将来何が起こるか分からず心配するやら……ん? あれ、小さい時から見てきた夢よね? それじゃイセルはそんな時から大人の階段上り続けてるってこと……?」

 

 おどけた様子で一人早口で捲し立て暴走しかけている彼女に、ダメだこりゃ、と少年は呆れたように息を吐いた。そして、目覚めてまだ三十分も経たない内に吐き出した溜息の数と気疲れの重さに苦笑するしかなかった。

 

 「一人でそんなに暴走してないでようっとうしい」


 「うわ。ひどーい。何よー、ちょっとナーバスになってた誰かさんのために明るく振る舞ってたんじゃないのよ。お姉さん傷つくわー」


 「何がお姉さんだよ。自分の年齢と顔面考えた上で言ってよ。特に顔を弁えてください」


 「何それヒドい」


 割とショックを受けたように、演技くさく愕然とする。実際同年の女性よりはるかに若々しく見えるとは思うが、実際の年齢と普段を知る少年にとっては痛々しいものでしかない。


 「もう、馬鹿やってないで俺行くよ? 採ってくるのは昨日言ったやつでいいよね?」


 「あ、ごめんなさい。あとアサネアマグサがあればちょっとお願い。無理して探さなくていいから、とりあえずリストのやつ優先で」

 

 「了解。行ってきます」

 

 そう言って戸を閉める。家の中からの、いってらっしゃいという声を聞き、イセルは早朝の中駆け出していった。



 


 夜が明け始めてまだ間もない森は、空を埋めるばかりに広がる木々の枝のせいで未だ暗い。その中でイセルは野草を手に取り、それを肩掛けの革のバッグに入れていく。

 土地に慣れない者なら方向感覚を失う。だが、彼にとっては幼い頃から何度も行き来し通り慣れた場所であるため、枝に足をとられる様なこともなく、木の位置、根の凹凸、地面の窪みの一つ一つが見えているかのようにその足取りは軽く確かなものだった。

 

 「こんなもんかな……」

 

 昨夜に先の女性に頼まれた野草を思い出し、名前のリストが書かれた紙を確認した後、少年は額に浮き出た汗を拭った。

 ほぼ同時に腹の虫が軽快な音を立てる。朝食の内容を楽しみに思い、家路に就こうと一歩踏み出した時だった。

 

 微風が、木の葉の揺れ擦れる音と共にそれを運んだ。鉄錆のような独特の、嫌な金属臭が鼻腔を(くすぐ)るのを感じる。強いわけではなく、現に今に至るまで気付かなかったほどだが、決して無視できないほどの存在感を主張する。頻繁に接するわけでもないが、今漂うそれが血の匂いであることは明らかだった。

 

 (どこから……?)

 

 イセルは目を凝らし風上の方を見渡した。すると、地面に血が溜まっている場所を十数歩ほど先に見つける。さらにこの血の跡が、やがて少し先の木の裏まで続くのを見た。動物が怪我をしているのかもしれない。慎重にそこへと歩みを進めた。

 

 目当ての木に辿り着き、その裏側を覗く時、木々の隙間から突然光が差し込み、少年の周りだけ世界から切り取られたように光に包まれた。暗闇に慣れた目にそれはあまりにも鮮やかすぎて、思わず目を瞑る。

 恐る恐る開いた少年の目に飛び込んできたのは、木に身を委ね座り、苦悶に眉を歪める少女だった。

 イセルは一瞬呆気にとられた。森の動物だと思い込んでいたからというのもあるが、亜麻色の髪、鼻筋の通った整った顔、澄んだ蒼い綺麗な瞳、目の前の少女は夢の中に出て来る女性と非常によく似ていた。

 しかしふと視線を落とすと、日常とはかけ離れた、異様とも言うべき光景が、イセルの心にサッと冷たい帳を落とす。少女の周り、そして少女の腿部が真っ赤に染まっており、それは少年の思考を遮断させた。

 

 「だ……れ……?」

 

 少女はか細い声で弱々しくそう言った後、力無く倒れかけた。その時にはもう、イセルの体は思考を凌駕し、脳の指令を待つ事無く反射的に少女の体を抱き起こした。

 

 「君、大丈夫? おいしっかりしろ!」

 

 声を張り上げ、少女の体を揺らし、意識を確かめるが、目の前の少女は意識を沈ませたままだ。慌てて少女の首元に指を当てる。

 脈はまだあるものの、その拍動はあまりにも弱弱しい。呼吸も絶え絶えで、その苦しみを物語る。出血部分であると思われる腿部を調べようと足に触れた。細くしなやかな太腿の感触を楽しむ余裕などあるわけもなく、イセルは傷口を調べ、そして気付いた。

 出血の跡の割には、傷が小さい。いや、正確には、傷が塞がりかかっているのだ。出血はほぼなかった。応急処置がすんでいるため、出血によってもここまで弱る事は無いだろう。

 これほどの出血量の傷をどうやって処置したのかは分からない。だが他に外傷もなく、何故彼女は苦しんでいるのか、何が彼女を蝕んでいるのか、緊迫した状況に屈することなく、イセルは思考を必死に走らせる。

 少女の顔に浮かんだ大量の汗、体が小刻みに痙攣しているのを見る。さらに額に手を当て異常なまでの熱を感じると、思考は、これが毒によるものであるかもしれないという可能性に至った。

 鞄に入っている薬草を無闇に使えば、症状を悪化させるどころか、下手をすれば少女を死なせてしまうかもしれない。

 ここでは何もせず、急いで村に戻る事が最善の選択だろう。冷静とは程遠い心境の中で、限りなく正しい選択肢をイセルは掴んだ。

 その時、赤く血に塗れた矢を視界に捕らえた。これに毒が付いているかもしれない。そうすれば解毒剤を作り易くなる。そう考えた彼はその矢を半分に折り、バッグの中に入れた。

 少女を抱きかかえる。体は細く、軽く、そして、柔らかかった。己のそれよりも遥かに頼りなく思えるその体が壊れぬように、そっと、腕に力を込めた。そして先程よりも明るく、見渡しが利くようになった森を走り出した。

 

 「待ってろ、村に着けば、先生がきっと助けてくれる! だから頑張れ! もうちょっとだから!」

 

 少女に向けて、必死に声を掛ける。

 少年の声が聞こえているのかも分からない。だが少女の目がほんの微かに開き、少女が微笑んだように見えた。それを見てイセルは胸を撫で下ろし、森の中をさらに駆け抜けた。

 闇は消え、森の中に幾筋もの光が降り注ぎ、少年の行くべき道を鮮やかに照らしていた。



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