第30話 争乱
「おはよう」“おはよう”
「ありがとう」“ありがとう”
「ごめんなさい」“ごめんなさい”
言葉を教わっても、人間になんてなれるはずもなかった。
彼が何を伝えようとしていたのか、その「意味」がわかったのは、彼を殺して咀嚼して血を啜ったときだった。
“もう誰も傷つけたくない! 君の手でぼくを殺して!”
狡猾とは生きるための知恵であり、言葉を信じて殺されるなど相手が愚かなだけ、それすらもそのときは考えていなかった。
ただぼんやりと、相手の動きを止める言葉は「これ」だろうと、予想をつけていただけだ。予想通り相手を止めることができたから、安心して食らったのだ。
それから長いこと「相手の不在」という空恐ろしいまでの空虚を抱えることなど、考えもせず。
「玲さんは、本当によく食うな」
録銘館の警備に入った玲のそばで、着物から異国風のスーツに着替えて新鮮な見目をした敦が、呆れを通り越して感心したように言った。
玲は客に紛れて会場入りをしており、立食用途でテーブルに並んだ料理を遠慮なく端から食らっている。
「お腹空くんだよ。あんまりお腹空きすぎると、食べ物と人間の区別がつかなくなって、横にいる人間食っちゃうかもしれないだろ」
「またそういう、悪ぶって妖魔気取りなことを言う。本当はそこまで悪い性格じゃないくせに、玲さんは」
敦は、整っているがゆえに女性的にすら見える優しい面差しに苦笑を浮かべて、玲を見た。
目が合ったところで、玲は皿を持ったまま動きを止める。
――殺せるわけがない
長らく続いた「不在」の場所にごく自然に入り込んできた相手は、姿かたちは以前とは全然違うくせに、その言動のことごとくが彼と似ている。
「……そういうこと言っている奴から食われるんだぞ。妖魔は本当に、食べて良い相手とだめな相手の区別がつかないんだ」
表情を変えぬまま、敦は玲から目を逸らさずにきっぱりと告げた。
「区別なんかつける必要がない。全部だめだ。人間を食べてはいけない」
玲はゆっくりと笑みを広げて、呟いた。「もう遅いんだよなぁ」と。
その言葉に対し、敦が何かを言う前に、遠くで悲鳴が上がった。
* * *
夕刻、録銘館にて。
国内外の要人を集めて盛大な夜会が催されるという場に、胡桃は星周と連れ立って訪れていた。
光り輝くシャンデリアの下、大理石の柱が立ち並ぶ廊下。足元に真っ赤な厚手の絨毯が敷かれていて、ひとびとは履物を脱がぬまま歩き回っている。
造りは完全に異国風の建築だが、壁や天井を彩る七宝焼絵画には、まるで襖絵のようにこの国の四季の花や鳥が描かれていて、異彩を放っていた。
「胡桃さん、靴は大丈夫ですか」
隣を歩く星周に声をかけられて、胡桃はひとまず笑顔で「ええ」と返事をする。草履ではなく、靴を履いている。その方が動きやすいと言われたが、履き慣れていない分、いざというときにうまく立ち回りができるか、少しドキドキとしていた。
「俺の腕を掴んで、寄りかかってくれていいんですよ。異国風の装いをなさったときは、そういった異文化の嗜みを楽しむ心構えでいても良いものかと」
星周は掴みやすいように腕を差し出してくるが、胡桃は「結構です」と断った。
「高さのある靴ではないので、歩きにくいわけではありません。紐も結んでいますから、脱げる心配もありません。転んだりはしませんので、お気遣いなく」
胡桃としては、自分がおどおどしているから星周に気を遣われるのだと、気を引き締めていっそう背筋を伸ばした。所在ない様子で腕を引っ込めながら、星周は「いつでも言ってください」と独り言のように言う。
胡桃は、居並ぶひとびとを、さりげなく見回した。
(一方的に存じ上げているような政府高官や軍の要人の方が、いらっしゃいますね。女学校の皆さんは、まだ到着していないようですが)
これほど大勢のひとのいる場において、たとえ星周の義母の意に染まぬ知らせがあろうと、無闇に攻撃を加えられることはないに違いない……招待客の中には「異能」持ちも多数いるのだから。胡桃としては当然そう考えるのだが、星周の考えはまた別だ。
「俺があやめさん、つまり義母の勧めた女性以外のひとを婚約者に迎えたいというのは、あやめさん側にとって受け入れられることではないです。胡桃さんは敵として排除の対象になりますし、この場で仕掛けられなくても近い内にどこかで必ず災難に巻き込まれる。今日この場で妖魔の襲撃が考えられるとなれば、それこそ彼女たちにとっての好機でもあります。場が荒れたときに、妖魔の仕業に見せかけて胡桃さんを害することくらい、あやめさんはするでしょう」
なんという、負の信頼。胡桃としてはそれを否定する根拠も持たないだけに、「わかりました」と答えるに留める。
絶対に柿原あやめの思うようにさせたくなかった星周は、自分の意志で婚約者を選ぶ必要があった。しかしその相手は確実に災難に巻き込まれる。ならば、簡単に手出しされない異能持ちであり、さらには家系的に異能を発現している者が家族にいて、星周も懇意にしていることからいざというときに守りやすい相手が良いと、敦の妹の胡桃が頭に浮かんだというのは、妥当な流れである。
ただ、当初はそうと考えて胡桃を遠目から見て、さらには話すうちに、単純に利用したいという以上の気持ちを抱いた……と、胡桃は星周の現在の言動をそう解釈しているのだが、はっきりと言葉で確認してみたわけではない。
何かというと星周は「噛みたい」と言い出すのが、やはりひっかかる。妖魔じみており、胡桃としても簡単に受け入れられるものでもない。
(やっぱり、妖魔なんですかね、星周さまが。玲さまの例があるので、いまとなっては驚きはしませんけれど……。いえ、驚きますね)
どうなんでしょう、と胡桃が視線を向けると、星周とばっちりと目が合った。その秀麗な美貌に、これまで見たこともないほど甘く蕩けるような笑みを浮かべた星周は、胡桃を見つめたまま言った。
「胡桃さんは、本当にお可愛らしくて素敵ですね。おそらくこの会場のどこを見渡しても、それどころか国中のどこを見てもこんなに可愛いひとはいません。胡桃さんだけです」
とても重いことを言い始めた。
胡桃は、ひとの耳目のある場で何を言い出すのかと焦り、身を寄せて小声で囁く。
「そういうのは、いいですから。星周さまのことですから、続けて言うのでしょう、首筋に噛みつきたいと。もう少し、ふつうに褒めてください」
「ふつうに褒めて、噛みたいとは言いませんでした。でも、ご明察です。噛みたい気持ちはあります」
認めれば良いものではないと、胡桃は無言で首を振る。星周もそこは心得たもので「許しを得るまでは、噛みません」と言った。根本的に噛み合っていないように思うのだが、いまは言い争っている場ではない。
「あやめさんは、どちらですか」
「あそこです。 装花の前で、原男爵と話している着物の女性です」
星周が示した先に目を向けると、貴族の後妻とはかくやという高雅な美貌の女性が立っていた。会話が聞こえるはずもない距離なのに、まるで気づいていたかのように、女性からも視線を向けられた。
目が合った瞬間に、ぞわりとするほど敵意を向けられたのがわかった。
胡桃の体がこわばったのは星周も気づいたのだろう、「どうします」と気遣うように聞かれたが、もはやこの期に及んで進む以外の選択肢があるとは思えない。
胡桃が覚悟を持って足を踏み出せば、同時に星周も前へと進んだ。
するりと人の間を通り抜けて、柿原あやめの正面に立つ。
冷ややかな笑顔で迎えられた。
「あらあら星周さん。ずいぶんと早く家をお出になられましたが、きれいなお嬢さんを迎えに行っていたのね。どなた?」
「あやめさん。今日この場で、父とあなたと皆さんに紹介したい方をお連れしました。高槻胡桃さんです。友人である高槻敦くんの妹さんで、かねてより親しくお付き合いしております」
まったく友好的ではない空気の中、星周が淡々としてそう告げると、あやめは目を細めた。その瞳の奥に、暗い炎が灯る。
「ずいぶんと勝手なことを。あなたにそのような自由など、あるはずもありません。すでに相手ま決まっていると、伝えていたはずです」
きれいなお嬢さんと言う割に、胡桃をまったく見ない。ただ、抑えた口ぶりながらも激昂しているのが伝わってくる。あやめの背後で、大壺に活けられた生花が急激に萎れ始めた。何か、強烈な異能の影響が出ているのが目にも明らかだった。
星周も気づいてはいるだろうが、それを指摘することなく、会話を続ける。
「了承してはいません。俺に関して、あなたにそのような権限を認めるつもりもありません」
「生意気なことを。お前のように、母親も知れぬような者が柿原の家を継げるものか。決められた相手と子を成し、さっさと家督を譲るだけがお前の役目よ」
家を出て行くのはやぶさかではないと星周が考えているのは、胡桃も聞いている。
(やはり、星周さんは出自に何か疑念があるか、もしくはあやめさんの誘い断ったことによる逆恨みをされているのか……いずれにせよ、家の中で難しい立場にあるようですね)
だが、あやめの激昂にあてられたように萎れていく花を見ていると、これほど感情に「異能」を左右される者が、名家の次期当主を意のままにしようとしているのは、非常に危険なことであると理解した。これまで彼女の問題が表沙汰にならなかったとすれば、柿原の家の中での出来事はそのすべてが世間に知れる前に、捻り潰されてきたのであろう。ここで動かぬ証拠を押さえる必要がある。
当の星周から助力を乞われた身として、胡桃自身が立ち向かうときだった。
胡桃は、さっと踏み出して、大壺に活けられた花に手をかざし、触れる。
茶色く枯れて腐り落ちそうになっていた百合の花が、みずみずしい姿を取り戻し、芳香を立ち上らせた。
あやめの異能によって萎れた花を、持てる力で回復させてから、胡桃はあやめに対してにこりと笑いかけた。
「あなたは柿原家の奥様でありながら、感情で『異能』の制御もできないのでしょうか」
いつの間にか、場が静まり返っていた。辺りの注目を集めているのをわかった上で、胡桃は笑顔のまま続ける。
「私、星周さんと結婚します。邪魔をしないでください」
「小娘が」
あやめの体から、どす黒い炎が立ち上る。それをぶつけられたら無事ではいられないだろうが、胡桃は怯まなかった。
この場には、「異能」持ちがたくさんいるはずで、人間相手の暴走や暴挙は疎まれるはず。本当の大事になる前に必ず制止が入るはずであり、いざというときには星周が盾になると信じている。
(こういった、自分の都合で他人を意のままにしようとする相手に、星周さんはずっと苦しめられてきたんですね。ここで私が、負けている場合ではありません……!)
足を踏みしめたそのとき、遠くで悲鳴が上がった。
「妖魔に、女学生たちが襲われているぞ!」
ひとびとの注意が胡桃から逸れた。その瞬間を、あやめは逃さず、拳を振り上げて、振り下ろす。
撃たれる、と胡桃は痛みを覚悟したが、走り込んできた星周が身を持って胡桃をかばい、あやめの一撃が胡桃に直撃することはなかった。
「妖魔が出ているという緊急時だというのに、駆けつけることもしない。それどころか、己の怨恨でもって人間に『異能』を使うのがどういうことか、わからないとは言わせませんよ。いまの立場に留まれるとは、ゆめゆめ思わないことです」
これがあやめを失脚させる、何よりの切り札となる。
胡桃を抱きかかえるようにしながら、星周は厳しい声であやめに釘を差し、周囲へと視線をすべらせた。
乱戦の気配を目視で確認し、胡桃に囁く。
「俺から離れたほうが危険です。一緒に行きましょう」
はい、と胡桃が答えたときには走り出していた。




