第28話 ありがとうには少し早い
少し待って欲しいと願っても、毎日毎日、時間は確実に過ぎていく。
当初、胡桃は大学で星周と顔を合わせて、必要な授業には顔を出しつつ、ダンスの合同練習の時間帯になるとさっと二人で抜け出して、夜会の当日の動きを細かくすり合わせていた。
星周が胡桃を「恋人」として紹介したときに、想定される騒動の対処法。
参加者の名簿を覚え、会話の口裏合わせをし、いざというときの脱出経路として建物の作りまで説明された。すべて覚えた上で、つつがなく当日を迎えるための準備を進めてきた。場合によっては必要になると、星周から護身術まで伝授されていた。
その会話の最中、星周は「お上はダンスを重要な社交と考えているようですが、無理して踊る必要はありません。踊りたいなら止めませんが、女学校の他の生徒さんたちだって、嫌だと思ったらやめればいい」などと言い出した。
いまはドレスを用意してもらえるとか、大学の学生たちとの合同練習があると盛り上がっている女学生たちも、いざその日知らない相手と踊らなければいけないと強制されるとすれば、かなりの緊張を強いられることだろう。楽しさの代償と言えばそれまでだが「中にはかなり女癖の悪い方もいます。女学生は、格好の獲物にされる」と心配そうに明かす星周の真心を思うに、胡桃の中では信頼感が増していった。
やがて自分の「異能」について打ち明けることに至ったのだが、ちょうどその頃、潮目が変わった。
翌朝、眠そうな顔で迎えに来た星周に馬車の中で打ち明けられたのだ。
市中に妖魔の気配があり、帝都で「異能」持ちに招集がかかって、慌ただしいことになっていると。
「潜伏している、ということですか?」
「玲さんの追っていた妖魔です。女学校に入り込んでいたのが、どうも玲さんの狙いが自分だと気づいて姿をくらましたと聞きました。教師になりすましていたということです」
誰ですかと聞いて、図画の教師の名前を聞き、胡桃はなんとも言えない気持ちになる。格別親しくなくても、名前も顔も知っている相手が実はと聞くと、妙な後味の悪さがあるものだ。討伐対象になる前に、できることがあったのではないかと。考えても、仕方のないことだというのに。
星周は、夜間に市中探索に参加していたらしく、うつらうつらとしながら話す。
「人間の姿から、妖魔や鬼の姿になるところは、確認されていません。被害も出ていません。ですが、どうも松方先生は女学生が録銘館の夜会に動員されることに否定的であったらしく、ただ立ち去って終わりとは考えにくいという意見があります」
「具体的には、どういうことですか?」
女学生が夜会に動員されることに反対する理由は、いくつも考えられる。それこそ高槻家は「年端の行かないものがおいそれと参加するものではない」という考え方で兄妹の参加を見合わせてきた。その理由も、星周の話を聞けば納得というもので、手癖の悪い手合を避ける意味合いであったのだろう。
女学校で教育に身を捧げるような女性であれば、なおさらそう考えるはずだ。それこそ「女学生を大人の都合で引きずり回すな」と憤っても不思議ではない。
(でも、妖魔なんですよね……? 長く人間の間で暮らしているうちに、人間らしい考え方を身に着けたということでしょうか?)
それはもう妖魔ではないのでは、という考えがかすめないでもなかったが、ことはそう単純ではないはずだと胡桃はその考えを保留とした。
「松方先生が女学生の参加に渋った理由まではわかりませんが、玲さんはこの後に妖魔による攻勢があると考えているようで、録銘館の夜会の襲撃を警戒すべきと主張しています。何かがあってからでは遅いので『異能』持ちは市中配備と夜会の警戒担当に分かれてその日に備えることになりました。それまでに見つかれば良いんですが」
「わかりました。大学に着くまでは寝ていてください。大学に出席はなさるんですか」
「いえ、胡桃さんを送り届けたら俺は出ることになります。時間がないもので」
それを聞いて、胡桃は「わかりました」と余計な問答を避けるべく口をつぐんで、ひとまず星周の睡眠時間確保を優先させた。わずかな時間とはいえ、胡桃の横で、星周は気を許した様子で穏やかに眠る。
馬車を下りるときになってから、胡桃は「高槻敦であれば、妖魔の探索に加わっていてもおかしくありませんね?」と自分の見た目が敦であることを理由に反対を押し切り、同行を了承させ、行動を共にした。
そして、妖魔の発見には至らず徒労に終わる日を過ごし、ついには夜会の前日となった。
「妖魔の襲撃は、まだ起きておらず、起きるかもわからないことです。夜会は中止となりませんし、その場では海外要人に向けて威勢を顕示すべく景気の良い話がいくつも語られるでしょう。柿原家の婚姻も、そのひとつに」
早いうちに市中探査を切り上げて大学に戻り、星周は胡桃にそう言った。
心地よい、昼下がりの木陰である。以前研究室で「異能」について話したことから、胡桃は「密談をするなら、部屋の方が何かと都合が良いですよね」と研究室に向かおうとしたのだが、星周に止められた。密室で二人きりになるのは何かと良くないと。
敦のふりをしている胡桃としては「胡桃の姿ならともかく、いまは誰かに見られても噂になるわけでもありませんね?」と首を傾げてしまったが、星周には断固反対されたので、こういった風通しの良い場所が選ばれている。
「敦兄様が、楠木菜津さんのことは懐柔したから心配ないなどと言い出しているんですが……。それでも、星周さまのお義母様は納得なさらないんですよね? お義母さまというより、分家の一族でしょうか」
これまでも遠回しに、あるいは直接的に胡桃は何度かその件について、星周に尋ねていた。そのたびに、星周の口が重くなる。答えにくいようだ。
――家の恥をさらすようなものだから、これまで敦にもあまり言わなかったんだが……。父の後妻である義母は、柿原本家へ影響を持ちたい分家筋の出身なんだ。もし義母と父の間に子が生まれていれば、俺はここぞとばかりに厄介払いされたかもしれない。だが、今までのところ弟も妹も生まれてはいない。当てが外れたことで、義母を本家へ送りこんできた一部の者たちが焦っているようで、そそのかされた義母が俺に狙いを定めてきたんだ
(星周さまは、敦兄様にも言えないご様子でしたが……)
星周が困るその話題こそ、この問題の発端なのではないかと、胡桃としても気になる。
平時であればもちろん、無理に聞き出そうとは思わない。それこそ星周が胡桃の「異能」を自分に打ち明ける必要はないと断りを入れていたように、胡桃とて星周を無闇に追求して、悩ませたり苦しませたりはしたくないのだ。
だが、知らなくて本当に大丈夫なのだろうか、という不安はどうしても残る。そこは、物わかりの良いふりをしている場合ではないように思うのだ。
胡桃のその気持ちは星周にも伝わってしまっているようで、ついにその日、星周は決心をしたように胡桃に切り出してきた。
「胡桃さんには非常に言いづらいというか、胡桃さんにこそ知られたくないと思っていたんですが、言わないわけにはいかない。聞いてほしい、義母のことを」
「ここで話して大丈夫ですか? 誰かに聞かれる心配は……無いと思いますが」
見晴らしが良いだけに、近くにひとが来れば気づくはずだが胡桃は慎重に辺りを見回し、念の為学舎との距離も取り、木の上にまで視線を巡らせてから、立ったまま木を背にして、星周に話の先を促した。
観念したわりには、やはりとても話しにくそうに、星周は重い口を開く。
「後妻である義母は、父との間に子ができなかった。二人の間でどういうやりとりがあったのかは知らないが、義母は子どもができない原因は父にあると考えているようだ。それで、柿原の血筋であればその息子であっても、問題ないと。つまり、義理の親子関係とはいえ本物の母子ではないので、現当主ではなくとも次期当主の俺の子であれば……だからその……」
黙ってしまった。
すうっと心地よい風が吹き抜けて行き、胡桃はぼんやりと星周の苦悩に満ちた顔を眺める。
やがて、何を告白されたのか唐突に気づいた。
(「俺に狙いを定めた」って言っていましたが、お義母様の一族から誰かを星周さんの伴侶に推挙するのではなく、お義母様ご自身が星周さんと子を成そうとしたと、そういうことですか……!?)
有り体に言えば、星周は父の再婚相手である義母に、貞操を狙われたという告白ではないか。
それを拒否されたからこそ、楠木菜津の名前が挙がっているのであろうが、なりふり構わず迫られた星周としてはもはや、義母も義母に連なる一族も決して信用できるものでもないと、思い詰めている様子である。
心情を思えば、当然だ。
「未遂であったとはいえ、その場で即座に父に申し立てをし、離縁を促せば良かったのかもしれないが、義母に逆手にとられる恐れがあって言い出せなかった。つまり、『女である自分が襲われた側である』と言われてしまうと……。父としても『息子だから無条件に信じる』というわけにはいかないだろう」
声もなく、胡桃は両手で顔を覆った。辛すぎる。
(最近なのか、以前のことなのかわかりませんが、星周さんはそれを抱え込んでしまっていたのですね……。同じ家の中に邪な考えを持つ方がいて、しかもそれを誰にも言えないというのは、相当に苦しい……)
自分の思いをどう言い表すべきか考えあぐねて、胡桃は顔を覆ったまま「大変過ぎます」と呟いた。
星周もまた苦しげに「こんな話を、ごめん」と繰り返しながらも、先を続けた。
「義母としては、こうなった以上俺の結婚相手は、俺から何を聞いても騒ぎたてたりはせず、確実に自分が支配できる女性を自分の身内から出すべしと思ったことだろう。だから絶対に『俺の連れてきた相手』など認めるわけがないし、場合によっては排除しようとする。そうとわかっていても、俺はあのひとの思い通りにはなりたくない。だから敦に……」
長いまつ毛が伏せられ、目元を美しく彩るも、憂いの濃さが気になる。
胡桃は星周を力づけたいと思い、意を決して口を開いた。
「私を関わらせてくださって、ありがとうございます。それは星周さまのわがままではありませんよ。誰かの助けを必要としていて、助けを求めることができたあなたは、とても勇気があります。自分が耐えればいいだけと、我慢するところではありません」
星周の表情は、暗いまま、まったく晴れない。
(いまのこの時点では、まだ何も解決していませんものね。ですが、他人である私に言えただけで大きく前進しています。それは「恥」ではなく、他人を巻き込むことは決して「身勝手」ではありません。どう言えば伝わるでしょう)
もし自分が本当に「敦」だったのであれば、ためらわずに星周を抱き寄せていたかもしれない。それができない胡桃は、いまにも「やっぱり、君を巻き込むわけにはいかない」と言い出しそうなその顔に向かって、精一杯笑いかける。
「お父様にも言えなかった時点で、ずっと『誰かに言えば、相手に迷惑がかかる』と悩んでいたのではありませんか。そういうのは、言っても良いのですよ。後先など考えず、言ってから考えれば良いのです。星周さまのような名家の若様であれば、お墓まで持っていくことを美徳と考えるのかもしれませんが、そのようなことで重苦しい人生を送る必要はないのです」
木漏れ日が、星周の秀麗なかおにまだらに落ちる。光をまぶたに受けて、目を見開いた星周は、胡桃へと視線を向けて、淡く笑った。
「後先、ずいぶん、考えた……」
言葉がぎこちなくなっているのが、星周の中でも整理がついていないことの現れのようだった。
胡桃はなんとか彼の心情に想像を働かせて、励ますように言い募る。
「仕方ありません。義理とはいえ相手とは親子の関係であり、後から考えれば支配を受けた事実がとても馬鹿馬鹿しいことであろうとも、そうと気づくまでの間はどうしても心を蝕まれるものだと、思います。もう大丈夫ですよ、私がついていますからね。星周さまの人選は確かですよ」
言いながら、胡桃は星周の左胸の上に手をかざした。
「私の治癒の力で、あなたの悩みすぎた心を癒せたらいいのに」
星周は、小さく笑い声を立てて胡桃のその手を取り、軽く握る。
「あまり可愛いことを言わないでください。首筋に噛みつきますよ?」
ハッと胡桃は息を呑んだが、手を引くことはできなかった。拒絶を印象付ければ星周を傷つけるからと自分に言い訳をしようとしたが、理由はそれだけではないように思う。
もし星周が望むならば、捧げても良いと考えてしまったのだ。彼の望むものを。
澄んだ瞳と、言葉もなく見つめ合う。
星周は、ゆっくりと唇に笑みを浮かべた。
「ときどき、俺は自分を妖魔のように感じることがあります。本当の母を知らないせいかな。玲さんが半分人間で、半分妖魔であると聞いたときに、自分もそうかもしれないと共感してしまったんです。俺はあまり、妖魔に対して嫌悪感がない……」
馬鹿なことを言ったとばかりに星周は視線を逸らして手を下ろし、離す。
そして遠くを見たままぼそりと「ありがとう」と言った。
聞いてくれてありがとう、避けないでくれてありがとう。たぶんいろんな意味がそこにあると気づきながら、胡桃は笑顔で星周の手を再び取る。
「まだ早いですよ。ありがとうは、明日が無事に終わってからです」




