第20話 なかよし
「君は少しばかり、思慮が足りない。男のくせに、男というものがわかっていない」
男子学生たちが帰路につき、女学生たちも三々五々ダンスホールから解散となった頃、敦の着物の袖を掴んで、絹がその耳元で囁いた。
視線を流すようにしてわずかに顔を向けた敦は、他に聞こえぬよう声を潜めて言う。
「玲。玲が出てる。そっちこそ、もう少し気をつけろ。男だなんだと、紛らわしい話をして誰かに聞かれたらどうする」
離せ、とばかりに袖をひく。
いかに姿形が可愛らしい絹であっても、中身が玲であることは二人の間ではもはや既知の事実。敦は、もはや素を隠さないばかりか、主に玲との相性の問題で、本来の気性よりも少々当たりがきつく振る舞っており、何かと小言めいた物言いになる。
絹はふふっと笑って、なおさら敦の袖を強く握りしめて囁いた。
「気づいているか? 今日は変化をするときに、身長を君に合わせていつもより高めにしたんだ。他の学生たちには近づかず、遠目に君と私で並んでいれば、いつも通り同じくらいの背の高さの二人だと錯覚を引き起こせるだろう。そう邪険にするものではない、これは二人の距離が近づいてこそ効果のある策なんだ。ほら、もっと寄って」
「うるさい」
袖に絹をぶらさげたまま、敦はつれない態度で言い捨てて、歩き出す。だが、思い直したように顔を寄せて、ひそひそと問いかけた。
「男のくせに、男をわかっていないとはなんだ」
よくぞ聞いてくれたとばかりに、絹は満面の笑みを浮かべる。
「さっきのあの胡桃さんの芝居だよ。男子学生たちを寄せ付けないために、普段の彼女とは違う言動をしてみせたんだろうが、逆効果というもの。その可憐さであれほど鼻っ柱が強く高飛車な乙女など、おいそれと出会えるものではない。よくよく興味をひいていたよ。男というのはね、容易に屈しない相手を見れば燃える生き物だ」
「……は?」
敦が、まったくわからないという顔をしたので、絹はやれやれとばかりに息を吐き出した。
「愚か者だな、君は。あれでどれだけ『胡桃ファン』を増やしたかわかってないんだ。幸い、星周が空気を読んで胡桃さんを、つまり敦くんを恋人のように扱っていたから、虫よけにはなっていたが……」
「待て。『ファン』ってなんだ?」
不安を煽る言葉を耳にして、敦が確認のために絹の言葉を遮る。絹は敦の耳に唇を寄せて、すばやく囁いた。
「『崇拝』みたいなものだ。どうも、胡桃さんにはその素質があるみたいだね。いや、この場合、敦くんかな?」
近い、と絹を手で押し返しながら、敦は「気の強い女を崇める……?」とぶつぶつと言っている。
そのとき、二人の行く手にひとりの女性が立った。
「ご苦労さまでした。男子学生との合同練習は、皆さんもっと抵抗があるかと思っていましたが、仲良くなさっていたようで。高槻さんは、特に打ち解けている相手がいたようですわね。あの方は、柿原の若様ですね?」
眼鏡をかけた、二十代と思しき女性である。紺色のドレス姿は地味ではあるものの、品の良さが漂っていた。年齢や雰囲気から学生ではないことはすぐに知れたが、敦は「誰だ」と絹に目配せをする。
敦はこれまで何度か胡桃と入れ替わっていたが、女学校に立ち入るのは今日が初めてだ。顔も名前も一致しない相手の方が多く、ぼろを出さぬためには「先輩」である絹が頼りとなる。
心得ている絹が、はきはきとした調子で言った。
「松方先生。胡桃さんとあちらの若様の件は、どうぞ胸に秘めておいてください。いずれ両家から何らかの知らせがあるかもしれません、いまいたずらに騒ぎ立てることではありませんわ。それこそ、今日のような突然のダンスの練習ともなれば、同じ場に男女が会するとはどういうことかと色めきたつ親御さんたちもいるかもしれませんが」
松方先生。敦は、前日胡桃から教わった知識と照らし合わせて相手が誰か了解する。たしか、図画の担当教師がそういった名であったはずだと。
松方は、絹に対して「そうなのよねえ」と悩ましげに答えて笑った。
「女学校に男子学生が入り込んだ、といった妙な形で噂になったら困りものとは思っていました。晩餐会で恥ずかしくないダンスを披露するためという大義名分がありますから、説明はなんとでもなりますけれど、ご納得いただけるかはまた別ですものね」
まさか学校を出会いの場にされるとはと、怒鳴り込んでくる相手がいるのではないか。もっともな心配である。
会話の流れを見越していたかのように、絹は朗らかに笑って言った。
「案外、婚約者のお決まりではない方は、ここぞとばかりに『どなたか良い相手がいたら、是非にでもお近づきになるように』と、言い含められて来るかもしれませんね。男女の自由恋愛が新しきこととして推奨される向きがあるとして、親世代は半信半疑かもしれませんが、私たちの世代では、もう風向きが変わっていると思い始めています。先生もそうお考えではありませんか?」
言い終えて、絹は敦にそっと身を寄せる。「なんだよ」と思って敦が目を向けると、にこにこと微笑み返された。
不思議に思いながら首を傾げつつ、教師の方へと顔を向けると、妙に優しい顔で見られていた。
「二人とも、仲が良いのね。その友情を大切に」
それではね、と言って通り過ぎていく。
十分に離れてから、敦は「どういうことだ?」と声を潜めて絹へと尋ねた。ちらっと後ろを見た絹は、敦に対して低い声で告げた。
「あの先生のことも、少し疑っているんだ。どうも図画を好む女学生に声をかけては、個別指導をすると別室に呼び寄せているらしい。教師の立場でありながら、特定の学生と仲良くしようとする……。人間について学ぼうとしている妖魔なら、ありそうじゃないか?」
それを聞いた敦はため息とともに「なるほど」と言って、松方の去った方を振り返る。
「玲さんといつまでも女学生ごっこをするつもりはない。怪しい相手がいるならさっさと調べるのみだ。行こう」




