1-08 薔薇色の歓待
龍人。
それはその名の通り、神話に語られるような『龍』としての特性を兼ね備えた特殊な人間を指す言葉。
逸話では沈んだ艦船を一人で引き揚げ、山の如し獣を片手で押さえつけたというその種族は、今やその数を数えるほどまでに減らし衰退の一途を辿っていた。
「その特徴的な見た目が、角と瞳です」
フェリスは、両手の人差し指を二本の角のように額の上で立てた。
「私、そんなのついてないけど」
「ついてたらしいじゃないですか、こないだは」
リュックがエリアに「そうなの?」と聞くと、エリアは子供のように首を縦に振った。
「…覚えてないけど」
「ついてたよ、ほんとに。正直ちょっと怖かったもん」
カミヤもフェリスの真似をして、両手の指で角をつくる。
リュックは、困ったように自分の額を撫でた。
「龍族じゃなきゃ、あの跳躍力にも説明がつきませんしね」
あの、というのはフェリスが初めて彼女に会った路地裏での出来事。
リュックは、その力をさも当然の様に使いこなして二階建ての建物より高く跳んでいた。
「壁壊して飛び込んできて、ジョンのことも凄い勢いで吹っ飛ばしてたしね」
カミヤは両腕を右へ左へ動かして勢いを表現する。
エリアは小さな声で「ジェイさんじゃなかったかな…」と訂正するも、その声は届いていない様子。
「あ、彼はなんとか死なずに衛兵団のお世話になったそうですよ。クロが言ってました」と、フェリスはまあ一応といった感じで付け加えた。
「エリアさんは気が付かなかったんですか?」
フェリスがそう聞くと、エリアはうーん、と髪をいじった。
「力が強いのは知ってたよ。でも、角が生えたのは見たことがなかったし―――龍…っていうか…うぅん」
しばらく考え込んで、エリアは隣に座るリュックの顔をまじまじと眺め始めた。
エリアが何を言おうとしているのか、その答えが気になってじっと待っている一同。
だいぶ至近距離でリュックと目を合わせ続けた後、少し落ち込むように彼女は視線を落とした。
「…わからない」
「…?」
何か重要なことを言うことを想像していたフェリスは、真面目な表情のまま拍子抜けする。
「なんていうか、ね。ただ強いとか、人より優れてるとか、そういうことじゃない…気がするの」
エリアは、もう一度リュックの顔を見上げる。
この人は一体何者なのだろう、と考えても、答えは浮かばない。
「私、あなたのこと何も知らない」
そう言ってエリアはリュックの頬に触れた。
リュックは、何も言えなくなって、何かが不安になってエリアを抱き寄せた。
「…」
薄々、その場にいた一同は、その二人が只ならぬ関係性にあることには気が付いていた。
静まり返った部屋の中で、カミヤはやや気まずそうに左右に目をやる。
何か話題を振ろうと思ったところで、機械的なインターホンの音が部屋に響いた。
「やあ!気分はどうかなお嬢さん達。みんな大好きエド隊長の登場だよ」
気前よく右手を上げて挨拶をした彼に対し、女性陣の視線はやや冷ややかだった。
「やあ、空気を読む能力はいつも通りだねエド君」
「今、そういう雰囲気じゃないんだ隊長。ごめん」
「絶対、新しく来た女の子の人気を狙ってましたよ。今のはそういう挨拶でした」
マリー、カミヤ、フェリス三人からの連撃を受けた彼は「もうちょっと手心をくれないかな?」と笑った。ちょっと泣いていた。
◇ ◆ ◇
「話には聞いていたけど―――本当、いろいろ訳アリなんだね」
自己紹介もそこそこに、エドは彼女達から事の顛末を聞いた。
彼が“あの高原”から二人を助け出し、エリアをマリーに引き渡し、リュックを病院まで搬送した後からの出来事。
彼が不在の間に起きた誘拐事件についても、当事者からの聴取はこれが最初であった。
「カミヤも怪我が無くてよかった」
「クロが頑張ってくれたからねぇ。今度おいしいもの奢るって約束したんだ」
嬉しそうに足をぱたぱたと動かすカミヤ。
「ていうか、あの時エドさんはそもそもバルベナに居なかったんですね?」
「うん、ちょっと王都の騎士団に用があってね。街のことは部下に任せてたんだ。…まさかそのタイミングを狙われるとは」
「…この街トップの衛兵が居ない事も犯人は見越してた、ってことですか。ほんと、無駄に凝った計画ですね」
犯人に対する恨みが強いのか、唾でも吐くような勢いで怒りを露にするフェリス。
むしろ、被害に遭った当人であるカミヤとエリアのほうが複雑そうな顔をしていた。
―――セブレムの過去の事件については、誰も触れようとはしない。
「犯人は三人とも衛兵団屯所の地下に投獄されてる。適切な措置を行う予定だよ」
「ええ、もうめちゃめちゃにシバき倒してやってください」
「…法的に問題ない範囲で、ね」
困った顔で笑うエド。
少し間を置いた後で、エドは少し気まずそうな顔をした。
「カミヤとフェリスは、もう少しここにいる?」
「んー?もうちょっと遊んでこっかなぁ」
カミヤはそう言うが、フェリスはきっぱりと「駄目です」と答える。
「ずっと待たせてるお客さんがいるじゃないですか。お礼したらすぐ帰るって言いましたよね」
「えぇー」
「ノエルさんからの話、忘れたわけじゃないですよね」
「…忘れてないです」
「はい。やりたいことがあるなら、やるべきこともしっかりと。行きましょう」
フェリスが立ち上がると、カミヤも「はぁい」と渋々立ち上がった。
「リュックさんとエリアさんは、当分はここにいるんですか?」
フェリスからの問いに、リュックは「しばらくマリーにお世話になると思うよ」と答える。フェリスは「了解です」と片手を上げて返事をした。
「マリーさん、お邪魔しました。是非またウルフセプトに来てくださいね、色々とサービスしますから」
「うん、帰り道気をつけてね」
カミヤも、「また来るね」と言って一同に手を振った。
エリアが手を振り返すのを見て、リュックも一緒に手を振り返した。
「―――さて、また大事な話だ。…事件の最中、君、帽子取られたよね?」
エドは、真剣な顔でエリアに聞いた。
「…うん」
その場にいた犯人の三人、そしてカミヤはそこで彼女が魔女であることを知った。
犯人については各自別々に、外への連絡は取れない状態で捕縛されている。
「カミヤは…大丈夫かな」
「うん、事件の後に、こっそり『内緒だよね?』って確認してくれたから。大丈夫だと思う」
「あの子の場合、悪気無く言っちゃいそうなのが怖いけど―――まあ、後でユアンから念押ししてもらおう。他には見られてなかった?」
「うん。後は、元々私のこと知ってる人だったから」
「そっか。ならOKだ」
一安心して笑顔を見せるエド。
対して、エリアはずっと何か言いたげに手元に目をやっていた。
エドも、彼女が何を聞きたいのかは大方察していた。
「…聞きたいことがあるなら、いいよ。幾ら機密でも、こうなった以上、君達には話す義務がある。…いいよね、マリー?」
「…うん。ユアンには、確認取ったんでしょ?」
「勿論」
そう言って、二人はエリアのほうへ視線を向ける。
「…この街に魔女がいた、って本当?」
エドは、少し間を置いて「本当だよ」と答えた。
「レリアっていう子がね。少し病気がちな子で、治療の為にこの街に来てたんだ」
「治療?」
「そう。何か、他の噂でも聞いてた?」
「あ…えぇと」
「一部の界隈ではね、セブレムが良くない研究の為に魔女を利用していたとか、そういう噂も立ってるんだ。多分、犯人もそう考えてたんじゃないかな。だから、その真偽を確かめるために機密情報の開示を要求した」
「…」
少し俯きがちにエドは続ける。
「でも、それは違う。元々は、僕からの頼みで、マリーがレリアの家に行く形で治療を続けていたんだ。セブレムはそもそも組織として関与していなかった」
マリーは医者であり、エドは衛兵団の隊員。ただ、個人的にエドからユアンへ相談をすることはあったのだという。
「ただ、訪問診療だとできる事に限界があった。だから彼らの力を借りた」
あくまで助力であり、付け加えると組織的な行いでもない。それはユアンを始めとした一部職員が自発的に求めに応じ、起こした行動であった。
「それで、その後に…まあ、色々あったんだ。詳しくは、ちょっと話せないけど―――今は、レリアはこの街には来ていない。前と同じように、マリーが直接彼女の家に診療に行くようになった」
その『色々あった』という言葉を発する時のエドの目は、どこか遠くを見つめるような目をしていた。
聞くべきではなかっただろうか、と身を引くエリア。
少し、気まずい空気が流れた。
「レリアは、いい子だよ。もし会いたいなら、彼女と掛け合ってみよう。きっと仲良くなれるはずだから」
エドはそう言うが、あまり気の進まないような言い方をしているように見えた。
いつの間にかマリーが用意してくれていた紅茶をぐっと飲むと、エドは気を取り直してリュックの顔を見た。
「さて、僕がここに来た理由はもう一つあってね」
急に目が合ったことに少し驚くリュック。
「リュック、だよね。君、衛兵団に興味ない?」
「わ、私?」
エドからの提案に、マリーが横から「えぇ~」と呆れるように声を出す。
「ああいや、違うんだよマリー。龍人だから戦力にしたいとか、そういうんじゃないんだ。全く違うかというとまあ―――うん、それはともかく。君、今まで龍人としての自覚、無かったでしょ?」
「うん、まあ。何なら今も」
「それ、正直危ないと思うんだ。普通、龍人の力って言うのは子供のうちには発現するものだ」
「…?」
何のことやら、と首を傾げるリュック。
「だからね、僕が君にその力の使い方を教えてあげたい。変に暴走する前に、制御できるようになってほしいんだ」
「は、はあ…」
マリーはまだ少し納得していない様子。
「で、それとこの子が衛兵団に入るのと何が関係あるのさ」
「トレーニング施設とか、そういうものは衛兵団屯所のものを使ったほうがいい。けど、あそこって情報管理の都合で隊員しか入れないんだよね」
「だから、隊員になってしまえばいい、と?」
「そう。それに、僕の目に入るところに居てくれた方が何かと安心だしね」
なるほど、と一瞬納得しかけるが慌てて制止するリュック。
「待って待って。それってもう、私たちがバルベナに住むっていう前提になってない?」
エドは、けろっとした顔で「うん、そうだよ」と頷いた。
「ユアンも言ってたんだけどね。当事者として機密に関わってしまった時点で、君たちは僕らの関係者。申し訳ないけど、アゼリアの街に帰らせる選択肢は無くなってしまった」
「ああ…」と、リュックは困ったように肩を落とした。
「それは、いいんじゃないかな」
「エリア?」
リュックのその様子とは裏腹に、エリアはあまり慌ててはいない。
「もしかしたら、龍人としてしっかり力を付けたら、リュックの記憶にも何か起こるかもしれないし。私は、あなたがここで楽しく暮らせるのならいいと思うの」
「で、でも…」
「リュックが強くなってくれたら、きっともっといろんな所にもいけるよ。そしたら、ユアンもきっと私たちがまた旅に出ることも許してくれるよ」
「そ、そうかなぁ」
「うん」
エリアの後押しもあって、リュックの心はバルベナに住むことに傾いていた。
エドと目を合わせると、彼はにこやかに視線を返す。
「改めて、ようこそ。薔薇色の街バルベナは君たちを歓迎するよ」
マリーも、同じように二人へ笑顔を向けて座っていた。
◇ ◆ ◇
「―――と、いうわけで。今日から訓練生として入隊したリュックさんだ。新人教育、任せたぞ。ウィル」
「え?」
衛兵団屯所―――もとい、バルベナ市庁舎の衛兵管理課。
彼らの仕事場は、赤煉瓦作りの壮大な建築物の中にあった。
「ちょ、ちょっと待って。私、エドと行動するんじゃないの?」
「そうしたい所ではあるけど、ずっとって訳にはいかないかな。僕、これでも隊長なんだぜ?」
「だったら先にそう言ってくれても…」
「あれ、言ってなかったっけ。ごめん」
この街の男たちはどうにも説明が足りないな、と少し呆れるリュック。
そんな彼女の様子とは裏腹に、傍らにいる少年―――に見える男はなんだか嬉しそうにしていた。
「俺に…後輩…!」
燃えるような赤色の髪が特徴の彼は、どうやら衛兵団の中でも特に若いようだった。
見た目は、リュックよりも幾つか年下に見える。
「いいかウィル。基本はいつも通りでいいし、何か成果を出そうとする必要はない。僕らの普段の仕事がどんなものか、何となくリュックに知ってもらうのが目的だからね」
「はいっ!俺、この人が最高の衛兵になれるように頑張ります!」
「ん、聞いてた?」
少年、ウィルは初めてできた後輩という物に非常に興奮しているようだった。最もリュックは年上である上に異性であるわけだが、それを気にする様子は無い。
むしろ、彼が年齢や性別を気にしない人間であるがために指南役として選ばれている節はあった。
「…ね、ねえ。君は、いつから衛兵団に?」
おずおずと聞くリュック。
ウィルは、元気よく「半年前です!」と答える。
「あの…エド?彼、ほんとに大丈夫?」
「うん、初対面でこうなることはわかってた。まあ、正直言うと彼の成長を促すためってのも考えての采配だ」
「そ…そっかぁ」
「ウィルは優秀だよ。仕事はもう殆ど覚えていて、彼自ら君の指導役に手を上げたんだ」
衛兵団って結構ブラックな仕事なんだろうか、とリュックは少し心配になった。
「隊長!俺、まずは何したらいいっすかね!?」
「焦らない焦らない。今日はまだ顔合わせだからね。リュックには僕と一緒に市庁舎の中を見て回って貰う。君と行動するのは数日後からになるから、具体的な話はまた後で相談しよう」
ウィルは「了解っす!」と元気よく敬礼をする。
通りすがりの青年から「相変わらずうるせぇな、お前は」と言われて勢いそのままに「何を!?」と言い返していた。
青年は、エドには礼儀正しく挨拶をして去っていく。
「はい、じゃあちゃんと自己紹介。まだ、衛兵団入って半年ってことしか伝えてないでしょ」
充分に人となりはリュックに伝わっているが、彼は改まってリュックに向き直った。
「俺、ウィリアム・リエーブル。皆からはウィルって言われてます。あと…あ、一応前期の訓練生の中では首席取ってました。よろしく」
おっ、と小さな声で驚きの声を出しつつ、リュックは彼と握手を交わした。
「しゅ、首席か。凄いね、よろしく」
「いやぁそんな。リュックさんに比べたら全然」
「え?」
「だって、リュックさん龍人でしょ?隊長と同じ種族だし、こないだの誘拐事件でも大活躍だったって聞いてますよ」
「あ、ああ…うん、大活躍…だったのかな?」
「かっこいいなぁ、龍人。俺もリュックさんや隊長みたいにすげぇ動きしてみたいっす」
「いや、私は…」
未だ自分の力に対して自覚が伴っていないリュックは、なんとなく自分ではない何かを褒められている気がして気が落ち着かなかった。
「あ、リュックさんは自分のこと話さなくても大丈夫っスよ。エドさんから、色々訳アリだって聞いてますから」
「え」
エドは困ったように「おい、コラ」とウィルに注意を促す。
が、ウィルはその注意の意図をイマイチ理解していない様子だった。
何を勘違いしたのか、は、と何か気が付いたように居住まいを正すウィル。
「…よし、そういう訳で!今日から俺があんたの先輩になるからな!わかんない事があったら何でも聞いてくれ、よろしく頼むな!」
と、彼は自分の胸に親指を立てた。
呆れた様子のエドと、苦笑いで「よろしく、先輩」と返すリュック。
なんか違ったかな、とウィルも苦笑いで小首を傾げた。
「…じゃ、じゃあ、俺、掃除の続きやってきます!」
「ああ、うん。またバケツの水ひっくり返さないようにね、よろしく」
「はいっす!」
元気よく答えると、彼はさっと振り返って走り出した。
そして近くを歩いていた職員の女性に激突し、書類をばら撒かせて平謝りしていた。
「―――と、まあ、あんな感じだ。普段はそそっかしいけど、いざというときはやる男だから、そこは安心してほしい」
「う、うん」
具体的にどう安心したらいいのかわからないが、ひとまず流れに身を任せることにしたリュックだった。
「じゃ、ここに来たついでに市庁舎の中を案内するよ。トレーニング室とかは別棟だから、その後ね」
「ね、ねえ。私、訓練生ってことは厳密には隊員じゃないの?」
「ん、まあ、ね。でも、トレーニング室は使えるし、授業料なんか取らないから大丈夫だよ。むしろ、場合によっては報奨金まで出るくらいだ」
「そ、そっか」
「ま、あんまり肩に力入れず、ゆるくやって行こう」
始めから激しい訓練やら講習やらがあると想像していたリュックは、何となく安心したような、拍子抜けしたような気がした。
「報奨金、か」
「そうだよ~びっくりするくらい貰えちゃうかもよ」
エドは少し悪そうな顔をして笑った。
「いつまでも助けてもらってちゃ、駄目だもんな」
エドには聞こえないくらいの声で、彼女は呟いた。
エドやユアンに助けてもらい、マリーに住まわせて貰って。
これからは、自分が役に立って、エリアと暮らしていけるだけのお金を稼がなければ、と心に誓っていた。
◇ ◆ ◇
市庁舎の中を一通り案内された後、エドは急用が出来たらしくその場を後にしてしまった。
今日は戻れるかわからないからマリーの家に戻っていて、と言われたわけだが、恐らくはエリアと共に外出しているであろう彼女の家には鍵がかかっている筈だった。
「…ちょっと散歩でもしようか」
市庁舎の中の大広間の中は飾りつくされ、まさに豪華絢爛といった姿だった。
今歩いている広場もまた日差しに照らされて綺麗に輝いている。
改めて一人きりになって、彼女はその景色にただ口を開けた。
―――まだ、夢の中にいるみたいだ。
穏やかに、広場を歩いて抜けていく。
市庁舎へ向かう人々とすれ違う。
その喧騒が、彼女にはバルベナの美しさの象徴のように見えた。
目がちかちかとするほどの日の光が、視界全体を照らしていた。
ぼんやりと歩いていると、少し人波が少ない通りに辿り着く。
住宅が並ぶ路地で、建物の影に覆われたところで彼女はふと我に返った。
「…これ以上進んだら、迷っちゃうな」
少し名残惜しいけど、一旦戻ろうと思った。
この歳で迷子というのも、少し恥ずかしい。
そう思って振り返ろうと思った矢先、視界の端に何かが映った。
「エリア?」
少し向こうの路地裏に、誰かが歩いて行くのが見えた。
殆ど見えていなかったはずなのに、不思議とリュックはその名前を呼んだ。
気のせいだったかな、と少し立ち止まる。
行くか、戻るか少し悩んで。彼女は、一応、と人影が向かった先を確かめることにした。
気付けば、周囲に人の気配はなく、そこには無音の空間が広がる。
「…」
路地裏には誰もいない。
誰かが居た気配もない。
そりゃそうか、と振り返ったところにそれは現れた。
「それ、危ないよ」
「うわっ!?」
真っ黒でぼろぼろのローブを着た子供。
その体の殆どを上着で覆い尽くしていて、体格や髪型はまるで見て取れなかった。
ただ、その口元はやや不気味に笑っているように見える。
路地の薄暗さも相まって、それ以外の様子が分からない。
「…それ、って何?君は誰?」
「それは、それ。使いすぎ、禁止」
子供は、彼女の顔めがけて指をさす。
「…?」
何のことかわからず、彼女は自分の顔を触った。
「忘れないで。あなたはあなた」
「ねえ、何言って―――」
子供は、彼女の返事を気にも留めず、背後を取って視界から外れるように走り出した。
「ちょ、ちょっと待って!」
何処に隠れたのかと周囲を見回すリュック。
何処を見ても、その子供の姿はもうそこには無い。
ただ、路地裏に落とされた真っ黒な影だけがそこには広がっていた。
「何?…危ないって、何が?」
何もわからず、彼女はただ自分の頬を触る。
また視界の端、今度は黒い猫が一匹、歩いて行ったように見えた。
何か、何か大事なことを忘れているような。
そんな気がして、少し怖くなった。