5-16 瑠璃と春空(5)
「璃空」
その声が聞こえてくるまで、何時間そうしていたかはわからない。
ただ、名前を呼ぶその声だけは意識に突き刺さるように神経を刺激して、ただ光に誘われる虫のように私は顔を上げた。
目を向けた先には、春瑠が立っている。
台所の窓から差し込む光は茜色で、顔の片側だけ照らされた春瑠の顔は、何だか優しくて安心するような、何処か異質さを感じさせるような、そんな笑顔をしているように見えた。
部屋の電気は消えていて、部屋そのものが茜色に染まっている。
意識が覚束なくて。
今、自分が覆いかぶさっている相手が誰なのかも、考えられないほどに瞼は重い。
思考が止まって、脳が全てを拒んでいるのを感じる。
このまま眠ってしまいたかった。
春瑠の存在だけが、私の意識を埋める。
いつの間にか、彼女は目の前に顔を近づけていた。
「もう、行こうか」
どこに。
そう問う気力さえなくて、私はただ首を縦に振った。
外へ出て、しばらく歩いて。
見覚えの無い線路沿いを、ただ歩き続ける。
空は、まだ茜色に輝いている。
音が聞こえない。
人の気配が無い。
私達はいつの間にか線路の上を歩いていて、電車の一本も走っていない静かな空間の中で、ただ、どこに向かうかもわからない一本道を歩き続けた。
歩きづらい、でこぼこした線路の上を平気で歩いて行く春瑠を、私はふらつきながら追いかける。
こんなところ、あったっけ。
空は、ずっと茜色に輝いている。
線路沿いのほうに目を向けると、もうそこに人の住む世界は見えなかった。
時間は止まっていて、辺りの木々から落ちる枯葉は宙に浮かんでいる。
正面に見える西日が眩しくて、春瑠の姿がよく見えない。
春瑠は振り向いて、私に声を掛ける。
逆光でよく見えなくとも、きっといつもの笑顔でそこにいるのだということは理解できた。
「璃空はさ。きっと、幸せになれる素質を持ってると思うんだ」
よくわからなくて、私は首を傾げる。
「好きなものを、ちゃんと好きだって言えるでしょう。素敵だと思うものを、素直に素敵だと言える優しさを持っているでしょう」
思い当たる節がなくて、何も返せないうちに、春瑠は続きを話す。
「きっと、この世界は。まだ、私達を迎え入れる準備が出来ていなかったんだと思う。私達は、本当なら、まだここにはいない筈だったから」
どこかを見上げる春瑠の横顔を、私はただ眺めている。
姿は見えないのに、電車が走る音が聞こえた。
「帰らなきゃいけない」
春瑠が居なくなってしまうような気がして、私は咄嗟に前に走ろうとした。
途中で枕木に足がつかえて、鈍い音を立てて転ぶ。
私は前に進んだ筈だったのに、春瑠との距離は少しも縮まっていなくて。
ああ、いよいよ彼女はこの世界の人ではなくなってしまったのだと、そう思うにつれて視界は潤んで見えなくなった。
「待って」
「璃空」
立つことも出来ない私を見下ろして、春瑠は笑う。
いつもより、ほんの少しだけ寂しい笑顔で。
「私は帰り道を作ることはできるけど、あの世界に辿り着くことは出来ないから。きっと、あなたを一人にしてしまうと思う」
「待ってよ」
「だから、せめて向こうで友達ができるように、幸せになれる足掛かりを残すよ」
春瑠の指先で、何かが光るのが見える。
彼女の後ろには、景色をそのまま切り落としたような、虚空が形を成した門が現れる。
「ただ、忘れないで。あなたは、あなただから」
いつの間にか、手を引かれていた。
虚空の門に、身体が吸い込まれていく。
落ちていくにつれて、私の身体は軽くなっていく。
罪の意識も、今までずっと感じていた息苦しさも、全てが軽くなっていく。
いつの間にか、そうして落ちていくのが、気持ち良くなっていた。
こうしてずっと落ち続けていられたら、どんなに幸せだろうかと思いながら。
ただ、引き換えに春瑠の姿は、いつの間にか見えなくなっていて。
それに気が付いた私は、余りに大きすぎる対価に気が付いて、音も聞こえないその闇の中で、出せる限りの声で叫びながら、膝を抱えて落下し続けていた。
◇ ◆ ◇
「―――ねえ、ねえ。答えて、お願い。聞こえてるでしょ、私を見て」
雨粒が音を立てる、曇天に包まれた高原。
孤独感で叫び出したくなるような広い空間の中で、誰かが私を起こす声が聞こえる。
もう、夢も現実もわからない。
この感情が、何故こんなにも自分を苦しめるのかがわからない。
きっと一人ならこのまま死んでしまったであろう世界で、何もできずに泣いていた私を見つけてくれたのが、あなただったのは、きっと。
誰かが最後に、私に残してくれた奇跡だったのだと、そう思う。




