5-15 瑠璃と春空(4)
また、いくらかの時が過ぎた頃。
家に帰った私が目にしたのは、いつもとは打って変わって、機嫌が良くなったように、穏やかに笑う母の姿だった。
「おかえり、璃空」
心臓が跳ねた。
まるで、父が居なくなる前にまで時間が戻ったようで。
「…ただいま」
それ以上は何も言えなくて、ただ手に持っていた鞄を床に降ろす。
「ねえ、璃空。今日は、学校楽しかった?お友達とは仲良くなれたの?」
彼女の目には、今、私がどう見えているのだろうか。
小学生の頃の私に見えているのかもしれない。
かつての学校帰りの一幕を思い出して、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「うん、楽しかったよ。友達とも、仲良くやってる」
必死で平静を保って、台所で座り込む母の前で、私も膝を折る。
あの頃よりもずっと細くなった身体を抱きかかえて、そのまま身体を寄せる。
「お友達の凛ちゃんとは仲直りできたの?また遊ぶ約束、ちゃんとできた?」
小学生の頃の友達の名前。
母の時間は、当時のまま、ずっと止まっている。
「できたよ」
「そっか、よかったね。頑張ったね」
声が上手く出せない。
「ねえ、璃空」
「何?」
「ちょっと、遊びに行こうか」
「―――うん」
呼吸が止まりそうになるのを、涙が出そうになるのを必死に堪えて。
私は、帰って来た格好そのままで、その人と手を繋いで玄関を出た。
しばらく来ていなかった、学校とは反対方向の河川敷。
記憶にずっと残っている桜の木は、青々と葉をつけて、今も綺麗に並んでいる。
川へ降りていく芝生の坂道に、彼女は静かに座る。
昔と変わらない水の流れをじっと眺めて、何も言わないでいる。
私も、その隣に座って、昔より不健康に窪んだ彼女の目元を、なんとなく横から眺めていた。
んふ、と息を漏らすように、彼女は急に笑う。
何かをまた、思い出しているのかもしれない。
ただ、それを問う気にはなれなくて、私はただじっとしている。
「春瑠ちゃんは、元気だね」
ふと、彼女はそんなことを呟く。
誰も居ない河原のほうを見ながら、私は「そうだね」と相槌を打った。
「お母さんはさ、春瑠姉のこと、大事?」
どうしてそんな質問をしたのかは、自分でも分からない。
ただ、ずっと、子供の頃から、そう聞いてみようかと思いついては辞めていたことを、急に思い出した。
「大好きだよ。春瑠ちゃんも、璃空の事も」
幸せそうな顔で、そう答える。
「これからも、一緒にいたいと思う?」
「もちろん」
彼女は、また遠くを眺めて。
落ち始めた太陽を覗き見て、「帰ろうか」と弱弱しく立ち上がった。
ほんの少しだけの時間。
でも、この数分が、これからの私の人生ではずっと、忘れられない記憶になるのだろうと、そう思った。
いつかの日、春瑠姉と魚の骨を埋めた桜の木は、今も私達を見守るようにそこに立っていた。
帰ってきた後、母は、「ご飯作るね」と言って台所に向かった。
そんな腕で包丁が持てるのかと、私は心配になりながら頷く。
しばらく待っても、とても料理をしているとは思えないような静寂だけが室内に残る。
結局耐えられなくなって、私が台所に様子を見に行くと。
彼女は、また、力が抜けたようにフローリングに座り込んでいた。
「お母さん」
ふと我に返って、私は駆け寄る。
やっぱり、私がやらなきゃだめだ。
この人は、隣の部屋で座らせておかないと。
そう思って抱き起そうとすると、彼女は私に縋りつくように身体を預けてきて、上手く受け止めることが出来なかった。
「ねえ、ほら。上手く立ち上がれないから、ちゃんと座って」
「ありがとうね、璃空」
辛そうにそう言うだけで、私の言うことは聞いてくれないまま、彼女は弱弱しく呟く。
幸せを目一杯吸い込むように、あるいは耐えきれない痛みを飲み込むように、大きく息を吸い込んで。
ゆっくりと、諭すようにまた、彼女は口を開いた。
「私ね、わかってるんだ。あなたたちがもう子供じゃないことも、このままじゃいけないってことも」
急に夢から醒めたように、今まで向き合えなかった現実への思いを吐露されて。
また、私は思考が纏まらなくなって、息が出来なくなった。
「何、言ってるの。立って、ほら」
「お金、足りてないでしょう」
「…?」
急に何を言い出すのか、よくわからなくて、私は首を傾げた。
「これからのお金、足りないでしょう。あなたたちが、学校に行くお金。春瑠ちゃんは、きっと大学にも行って、もっと勉強するでしょう。でも、私、お仕事出来ないから。このままじゃ、あなたたちのこと、邪魔しちゃうから」
「…いいから、立ってよ」
目を合わせられない。
そんなことを言われても、私にはどうしたらいいか、わからない。
「私、お金、準備したの。ほら、見て」
彼女は、ずっと着ていたエプロンから通帳を取り出す。
嫌な汗が首筋を伝うのを感じながら、私はそれを受け取って、中を見た。
信じられないほどの金額が記帳されている。
「どこから、手に入れたの、これ」
「えへ、えへへ」
「どうやって準備したの、ねえ!!」
肩を掴む。
窪んだ目、細くなった腕。
それがいつにも増して酷くなっていることに今更気が付いた私は。
虚ろな目で笑う彼女をそのままに、台所を、リビングを、至る所を探し回って、怪しいものが無いかを探し始めた。
部屋の端、ガスコンロの近くの棚。
そこに無造作に折りたたまれていた一枚の紙を開く。
信じたく、なかった。
「―――ねえ、嘘でしょう、これ」
彼女の肩を掴んで、正面から顔を覗き込む。
もう焦点も合わなくなった彼女の目を、どうにかこちらへ向かせようと身体を揺らす。
「大丈夫だよ。私、あなたたちがちゃんと生きていけるように、ちゃんと選んだから」
「よく、ない。よくないよ、何やってるの、ねえ。意味が分からないよ、なんで、なんで。こっち見てよ、ねえ!」
臓器売買の契約書。
彼女の服を捲れば、痛々しい傷の後が残っている。
もう、何を言えばいいのか分からなくなって、ただその傷跡だけしか見られなくなる。
彼女はもう、本当に、自分を壊す事しか出来なくなってしまった。
それが、悲しくて仕方なくて、思考は、呼吸は猶更に乱れた。
先程から―――もしかしたら、出かけていた時から、ずっとそうだったのかもしれない。
彼女は、ずっと苦しそうに、短く、細かく息を吐いては、また短く吸って、そんな呼吸を繰り返していた。
「大丈夫かなって、思ったんだけどね。私、思ったより痛いの。思ってたより、苦しいの。だから、そろそろ、終わりにしなきゃいけないと思うの」
「わかんない、何言ってるか分かんないよ」
彼女の左手が、私の頬に触れる。
「私、あなたたちの為に、残せるものは残していくからね。足、引っ張らないようにするから。これから、頑張って生きてね。あなたの事、好きだって言ってくれる人、きっと沢山いるからね」
「いないよ、どうでもいいよ、そんなこと。こっち見てよ、お願いだから」
彼女の目は、こちらを向いている。
でも、もう、私のことは見えていない。
今から病院へ行けば、間に合うかもしれない。
きっと、まだ諦めてしまうような段階じゃない。
―――でも、足が震えて立ち上がれない。
「ねえ、お願いがあるの」
「何」
いつから持っていたのか、彼女から、冷たく光る金属の刃を渡される。
包丁を渡されたその意味を、考えたくなくて、私は思考を止める。
「私、自分でやるの、怖いの。終わりにさせて、お願い」
彼女は私のほうに身体を倒して、肩に頭を乗せるように身を寄せる。
頭が真っ白になった。
彼女はそれを望んでいるんだと、理解してしまいそうになって、思考を自ら止めた。
嫌だ、嫌だ。
最後に向けられる笑顔がそれだなんて、絶対に嫌だ。
でも、どうしたらいいか分からない。
このまま一緒に生きていてもいいのか、わからない。
このまま、彼女のその壊れ切った身体を引き摺って、どこまで生きていけるのか、わからない。
結局、いずれどこかで耐えられなくなって、自ら命を絶ってしまうのかもしれない。
ここで命を奪うことが彼女の幸福だと言うのなら、それが彼女を愛していることの証明になるというのなら、それをどうして拒むことが出来ようか。
「大好きだよ。だから、お願い」
「わかんない、わかんないよ。なんで、なんで」
もう、彼女の表情も見えない。
彼女の手が、包丁を持つ私の手を包む。
「あなたがそうしてくれるなら、きっと、痛くないの。大丈夫だよ、怖くないよ」
全身の血の気が引く。
手が震える。
その手を引かれて、包丁の刃は彼女の腹部、その間近に突き立てられる。
私の肩に巻き付くように、彼女は身体を近づけて、抱き着いて。
そのまま私を引っ張って、後ろに倒れ込んだ。
引っ張られた私は、彼女に覆いかぶさるように、床に片腕を突く。
「ねえ、大好きだよ」
そう、何度も繰り返す。
それは最早、呪いの言葉になって、私の脳内に響き続ける。
思考を埋め尽くして、私の視界をぼやけて見えなくさせていく。
「最後に、あの子にも会いたかったなぁ。元気かなぁ、元気だといいなぁ」
うわ言のように、彼女はそう呟く。
窓から僅かに差し込む光が、台所を茜色に染める。
「もう、いいよ。ごめんね」
私は、もう、訳が分からなくなって。
何も、考えられないままに、小さく首を縦に振っていた。
「ありがとう、ありがとうね」
彼女は、やっと終わる、とでも言うように、安堵の表情を浮かべて。
私の手を引いて、その刃を身体に押し付ける瞬間に、もう一度、小さく呟いた。
「大好きだよ。―――春瑠ぅ」
北向きの台所、日は落ちきって、冷たく淡い外の光だけがそこを照らす。
海の底のような、温度の無い空間。
左手に伝う血液の温度だけが、私の神経を刺激した。
耳元で、優しいその人の声が、まだ聞こえる。
「ごめんね、ごめんね、ありがとう」
仰向けになった彼女のその手が、力なく私の頬を伝う。
わからない、何もわからない。
ただ、少しずつ弱っていくその意志が、魂がどこにもいかないように。
私はただひたすらに、力なく倒れるその人に身を寄せて抱きしめた。
左手に残っていた温度も、少しずつ感じなくなっていく。
それでも、離したくなくて、私は縋るように、その人を抱き締め続ける。
何時間も、何時間も。
何も見えない水底で、私はずっとそうして。
ただ、ああ。
少しくらい、私も、自分のお願いを言ってもいいのなら。
―――最後くらい、私の名前を呼んで欲しかったなぁ。
そう心の奥底で、呟いて。
私は、深海の暗闇に身を預けるように、そのまま静かに、目を閉じた。




