5-14 瑠璃と春空(3)
突然に、春瑠は「夏祭り、行こう」と言って私を夏の夜の街に引っ張り出した。
どうして急に、という私の問いかけにも答えずに春瑠は足を進める。
気付けば周囲には人と屋台の熱が立ち込めていて、汗が滲むような、提灯の灯りが辺りを淡く照らす、そんな空間が広がっていた。
―――いつの間に、夏になってたんだろう。
今が何月なのかも、どういう季節なのかも頭ではわかっていながらも。
それを肌や音で感じることを忘れていた私は、急に子供の頃の、季節が変わる度に心を躍らせていた感覚を思い出して、無性に懐かしい気分に包まれていた。
「りんご飴、買おう。璃空、ああいう小さくて可愛いの好きでしょう」
「…もう、子供の時とは違うんだよ」
「一緒だよ。璃空は、璃空だ」
そう言われて、強く否定する気にもなれず、連れて行かれるままにそれを買い与えられる。
子供の頃、きらきら輝くのを眺めるのに夢中で中々食べられなかったりんご飴を、手を滑らせて地面に落としてしまったことがあった。
その時の私は大泣きして、母が一生懸命に私をあやしてくれたのを覚えている。
そんな中で、表情一つ変えなかった春瑠は、齧りかけの自分の飴を、「ん」と突き出して私に譲ってくれた。
普通は、そこで「齧りかけなんて要らない」といって余計に泣き喚くものなのかもしれないが、当時の私はなんとなく、「春瑠の宝物を貰った」というのが嬉しくて。
私は跳びはねて喜んで、春瑠はそんな私の姿を見て満足げに目を見開いていた。
隣では、安心したように微笑む母の姿があった。
父親は―――その時に一緒にいたのかは、憶えていない。
あの頃から、春瑠は確かにまるで変っていない。
何を考えているのかわからなくて、表情も読みづらくて、その目に何が映っているのかも想像が出来なくて。
―――ただ。
いつも彼女は、どうやったら私が笑うのか、私がどんなことを望んでいるのか、というのを完璧に理解してくれていて。
そして、それを実行に移すだけの関心を、私に持ってくれていると、そう感じていた。
だから。
そんな彼女が言うのだから、確かに私もその頃から変わっていないのだろうと、妙に納得してしまっていた。
「もうじき見えるよ」
「見える?」
「ほら」
春瑠が指差すのと同時に、夜空に一筋の光が昇っていくのが目に入る。
数瞬後、その夜空には息を呑むような大輪が咲き誇った。
「…」
黙り込んでいる私に、春瑠はいつもの様に口元だけで笑う。
「また来ようって言ったでしょう」
「…そんなこと、言ったっけ?」
「璃空が言ったよ、ずっと昔に。こないだ、それを思い出したんだ」
「…全然、憶えてないや。でも、まあ、いっか」
私は、繰り返し打ち上がる花火に目を奪われて、半ば上の空で、春瑠との会話を続ける。
「来年も、来よう。これは、璃空が璃空で在り続けるための、大事な思い出になるから」
「私が、私に?何言ってるのか、よくわかんないけど」
「一応、念のため言っておいただけ。大丈夫、気にしなくていい」
「…相変わらず、訳わかんないこと言うね」
私は、さっきのりんご飴を小さく齧りながら、冷ややかな視線を春瑠へ向けた。
◇ ◆ ◇
いつの間にか夏休みが始まっていて、それが終わって、二学期の最初。
朝に下駄箱の中を見ると、そこには以前にも増して酷い量のゴミが詰め込まれていた。
ジュースの空きパック、紙くず、菓子パンのビニール袋。
異臭がすると思って覗き込んでみれば、中には生ごみや湿ったものも入っていて、恐らくはそこらのくずかごの中身をそのまま押し込んだような状態になっている。
朝早くに来ていた私は、それを誰に気付かれるわけでもなく、一人で黙々と綺麗にしようと手を動かし始めた。
遠目から見れば、ただ自主的に清掃活動を行っているだけにも見えたと思う。
それから先、私は何事も無かった振りをして一日を過ごした。
次の日も、その次の日も。
今まで通りに続いていた嫌がらせも全て見ない振りをして、平気な振りをして過ごし続けた。
数日が経過して、休み明け最初の部活の日。
夏休み前の出来事を思い出して気まずくなりながらも、料理部の部室に顔を出してみると、そこには不穏な表情を浮かべた面々の姿があった。
「久しぶり」
面識のある部員へ軽く挨拶の声を掛けると、驚いたように顔を上げる。
「―――あ、璃空。えっと、久しぶり」
その子は、ぱっと取り繕うように私に手を振り返すと、またすぐに目を逸らしてその面持ちを暗くする。
先程まで他の部員と何かを話していたのか、その子がいた周辺の人物はみんな話題を失ったようにあちこちに目を逸らして誤魔化そうとしていた。
ふと辺りを見回すと、夏休み前、女子トイレで言い争いをしていた友人たちの姿は見えない。
その誰もがあまりに浮かない顔をしているので、つい、気になってその真意を聞いてしまう。
「…何か、あったの?よくないこと?」
「う、ううん。何でもないよ。きっと話しても仕方ない事だし、まあそのうち解決すると思うから」
あからさまに、私には言わないようにしている様子。
隠し事をしているのか、気を遣っているのか。
私には、その違いがわからない。
「仕方ない、か。深く聞くつもりは、ないけど」
「うん、うん。それで大丈夫」
そんなよくわからない会話を続けていると、後になって、先日の言い争いのせいで会いづらくなっていた友人が部室内に姿を現していた。
「…璃空。おはよ」
彼女はそれだけ言って、後は目も合わさずに他の部員たちと話し始める。
私も、何を話したらいいかはわからなくて、そのままきっかけを失って、お互いに微妙な距離を置いたままで背中を向け合った。
その日の、夜。
風の噂で、『例の女の子』が行方不明になった、と聞いた。
警察が動いただとか、学校の誰かが事情聴取を受けただとか。
かなり事は大きくなっているらしく、今までそれを知らなかった私は、罪悪感のような何かで心臓を嫌に揺らした。
まだ、家に着くには遠い。
日は落ちて、心細くなるような住宅街の一本道を、私は歩いている。
「…」
等間隔に並ぶ街灯。
そこには何もいない筈なのに、どうしても誰かに見られている感覚が抜けなくて、次第に足の動きは早くなった。
ほんの少し、音が聞こえた気がする。
誰かが、靴で地面を擦るような音。
半ば怯えるように、振り返る。
誰か、いますか。
そう言おうか迷って少し息を吸って、やっぱりやめよう、と口を噤む。
何事も無かったように、前を向いて。
また歩き出そうとした時に、またさっきと同じ音が聞こえてきて、また私は素早く体の向きを変えた。
「…あ、その。ひさし、ぶり」
咄嗟に、呼吸を止める。
どうしてかは、わからない。
ただ、私の後悔とか、自分に対する嫌悪とか、そういう感情をすべて詰め込んだ集合体のような存在がそこにいるような気がしてしまって、叫び出してしまいそうだった。
「…」
声は出せなかった。
彼女は、そんな私を見て、視線を落としながら小さい声で話す。
「…言い訳が、したかったの。私、あなたのことを傷つけたかったわけじゃなくて。ただ、その―――私を、見て欲しかっただけだったの」
言葉を返してはいけない気がして、私は尚も、ただ息を切らすだけでいる。
「生ごみの臭いでもいいから、思い出して欲しかったの。手に切り傷をつけたら、あなたに何かを与えた印になると思ったの」
小さく指先を遊ばせながら、恥じらうようにそう話す。
「でも、そういうの駄目だって、怒られたから。私、あの日から悪いことしてないよ。あなたを困らせること、もうやってないよ」
彼女は、小さく笑う。
「だから、私のこと、嫌いにならないでね」
私は、小刻みに首を縦に振って。
次の瞬間には、彼女はどこかへいなくなっていた。
幽霊が解けて消えるように。
音も、姿も見えなくなって。
ただ、ずっと誰かに見られ続けているような感覚だけが、背筋を気味悪く撫で続けていた。




