5-11 回帰
空が、赤く染まっていた。
本当に空が赤くなっていたのか、彼の目が血に濡れていたのかはわからない。
ただ、そこに広がっていたのはまごうことなき地獄の景色。
地面に残された者たちは、一人の少年を残して、誰もが命を落としていた。
「なんだよ、これ。意味が、わかんねぇよ」
アディの見上げる空に浮かぶのは、街を形成していたあらゆる物が螺旋状に浮き上がる異様な光景。
ただ地面に座り込んで見上げている間にも、地上にあった筈の車や建築物は破壊されて、空中の立体作品に加えられるかのように浮かび上がっていく。
遥か彼方、その中心では、見覚えのあるドレスを着た少女が、嬉しそうに宙を舞っていた。
茫然とした顔で、彼は周囲を見回す。
背後を見れば、堕とされた鳥のように横たわる、かつて英雄だった龍騎士。
横を見れば、皆から大切に守られていた魔女の少女が、地面から突き上がる蔦に巻かれて絶命している。
正面を見れば、獣の神の肉体が、頭部の半分を欠損し、死して尚も彼らを守るように立ち尽くしている。
彼の大切な家族や、面倒を見てくれた医師が居た筈の病院は、今や粉々に崩れている。
―――脳が、理解を拒む。
「何やってんだよ、あんた」
遠くとも、彼には分かる。
天空で笑っているのは、かつて友人だった筈の、一人の見習い医師。
地上へ視線を落とすと、いつの間にか、見覚えのある男の姿が見えた。
「ここまでになるとは、思っていなかった。悪いと思っているよ。…でも、もういいだろう。どうせ作り直す世界だ、彼女の好きにさせてあげても」
「…クリス先生?」
ガランサスは、空を見上げる。
「獣の神様も、現世の生命を操る魔女も、今はあの子の糧になった。ここまで成長すれば、もう冥界の魔女に臆することも無いだろう。計画が狂う可能性も、完全に無くなった」
「何、言ってるんだ。先生、助けてよ」
這うように近づいてくるアディの頭に手を置いて、ガランサスは穏やかに話す。
「心残りは、君だ、アディ。君は、魔女を生むべき母体から生まれた男児だった。魔女の力を持たないどころか、その摂理にさえ従わなかった稀有な例だ。時間が足りるならば、君が秘めた力が一体何だったのか。それも確かめてみたかった」
「わかんない、わかんないよ」
目の前の男から感じる訳の分からない恐怖に怯えながらも、アディは混乱してそれに縋りつく。
途端、彼は何者かに蹴り飛ばされる。
「我が兄に気安く触れるな、子供。最早、我々が神となる世界は約束された」
「何、言ってんだよ。この人はマリー先生のお兄さんだ、お前なんか知らな―――」
再度、ニヴァリスはアディを蹴り飛ばす。
「殺さないでくれよ。彼とは仲が良かったんだ」
「…」
ガランサスに止められて、ニヴァリスはその足を地面に降ろす。
「さあ、最後の戦いだ。これが終わって、僕が神様になったら。正しい世界を作り終えたら、その時には、きっとまた会おう」
誰に話しかけているのか、彼はただ天空の渦を眺めながらそう呟く。
「待っていてくれ、エフタ」
ガランサスは、その手に持った冥界の箱、『最初の一つ』で冥界の扉を開く。
おいで、彼にと呼ばれた厄災の魔女は、その隣に姿を現すと。
次に来る冒険に期待を膨らますように、幸福に満ちた顔で、死に繋がる黒い門を潜って、この世界から消えて行った。
◇ ◆ ◇
「―――おはよう」
聞き覚えのある、男の声。
リュックは、僅かに目を覚ます。
「酷い夢だっただろう、悪かったね。でも、見てもらわなきゃいけなかったんだ。これを現実にしてしまわないために」
ぼやけた視界には、白い髪をした誰かの姿。
彼の足元には、小さな子供、冥界の魔女が抱き付いている姿が見える。
「僕の友人を、止めてあげて欲しい」
「…」
意識がはっきりせず、リュックは僅かに動く身体を揺らして、辺りの様子を見た。
僅かに見覚えのある木製の床板。
自身も、木でできた質素な椅子の上に座っている。
それは、一度だけ冥界に来た時に見た、魔女の里の景色だった。
ディアスシアが、ぼそぼそと話す声が聞こえる。
「この子、早く消しちゃおうよ。お父様、そうしたら元に戻れるんでしょう」
「…ディア。それは出来ないよ」
「どうして」
「彼女も、誰かにとっての大切な家族だ」
宥められて、彼女は不服そうに口を噤む。
「にゃあ」
黒い何かが動く。
足元を見ると、そこにはメルの姿が見えた。
エフタは、思い出したように、その娘に語り掛ける。
「―――そうだ。ディア、もう一つお願いがある」
「…」
「今、君が持っている、それ。この子に、返してあげてくれないか」
「嫌」
ディアスシアは、その身体の幅と同じ程の大きな本を、離すまいと大事に抱きしめている。
「これ、渡したら、お父様が消えちゃう」
「消えないさ。多分」
「嫌!」
彼女は声を大きくして、身を捩ってその本を抱え込む。
「…それは、何」
リュックの問いに、エフタは短く答える。
「君の記憶だ」
彼女は、驚いたように、僅かに目を見開いた。
「これを君に返せば、きっとこの世界に来る前のことを思い出す。君は、君に戻ることが出来る」
「…」
静かに、それを見つめる。
ディアスシアは、宝物を奪われまいと躍起になる子供の様相そのもので、一向にそれを手放そうとはしなかった。
「あの子の記憶を返したら、きっと、お父様の記憶が代わりに消えてしまう。記憶が消えたら、お父様はお父様ではなくなってしまうわ」
「ディア、手を離して。これはあの子の物だ」
「やっと、帰ってきてくれたの。私、ずっと待ってたの。何度も、何度も、お父様が居ない誕生日を繰り返して、やっと、やっと」
「大丈夫、僕は消えないから」
「嘘!そう言って、アゼリアも、他の魔女の皆も、皆いなくなった!私が影で体を作ってあげても、元には戻らなかった!偽物、皆偽物なの!本物はお父様だけなの、もう居なくなっちゃ嫌、嫌!」
床に転がり込んで、泣きながら蹲る。
「ディア」
頭を撫でられて、彼女はようやく顔を上げて、エフタと視線を合わせる。
「消えないよ」
目を見据えてそう告げる彼の様子を見て。
最後の一粒の涙を溢した後、ディアは袖で目を拭って、ゆっくりと、その場に座り込んだ。
「…」
黙ったまま、差し出されたエフタの手に、彼女は本を置く。
「ありがとう」
振り返った彼は、椅子に座り込んだままのリュックと向かい合う。
「これは、君に返すよ」
リュックは、懐かしいものを見るような、少し怖がるような顔を見せる。
その様子を見てか、エフタは言葉を続けた。
「また、君は少し辛い夢を見るかもしれない。でも、負けちゃいけないよ。君の、大切な友人を取り返すために」
そう、告げられて。
その言葉の意味を深くは理解できないままに、彼女は首を縦に振った。
少しずつ、また瞼が重くなって。
彼女は、夢に落ちていくような、あるいは夢から覚めるような感覚に包まれていく。
「大丈夫だよ、璃空」
一瞬、懐かしい声が聞こえた気がして。
その声の主を探すことも出来ないままに、ずっと昔の、懐かしい記憶に身体を預けた。




