5-06 厄災の芽
―――長い夢を見ていたように、エリアは目を覚ます。
気がつけば、何処かで見た覚えがあるような場所に居た。
天を覆い尽くすような大木が、何処までも並ぶ森の中。
視線を上げれば、木の間を繋ぐような足場と、その上に作られた何軒もの家屋が見える。
距離感を見失うような広大な空間の中、陽射しは木々の隙間から差し込む僅かな光だけ。
いつか大切な友人と共に見た、海の底にいるような、そんな錯覚を覚える空間だった。
「なんで、ここにいるんだっけ」
たった一人で立ち尽くしていたエリアは、それまで自分が何をしていたのか、まるで思い出せないままで周りを見渡した。
集落はあるのに、人が居ない。
たった今眠りから覚めたような気分のままで、迷うような足取りで彼女は足を進めた。
魔女の里。
それは、数千年もの過去にエフタが生み出した、魔女だけの小さな世界。
今、その世界は複製され、冥界の中で、彼の娘によって大切に抱え込まれている。
いつか昇った、木でできた階段。
時間をかけて昇りきった先には、いくつかの小さな家々が並ぶ。
扉もなく、簾で隠された部屋の中を覗き込むと、誰かが楽しそうに話しているのが見える。
見えはすれど、その話声は全く聞こえなかった。
その姿も、良く見えない。
何を話しているんだろう、そんなことを気に掛けながらも、他にやらなければいけないことがあるような気がして、彼女はそこを後にした。
空中の足場はその先へは続いていなくて、仕方なく下りの階段を降りていく。
その先にあったのは、ささやかな市場のような空間だった。
子供の飯事のように、淡色の果物や花が並べられて、その奥ではまた誰かが忙しなく手を動かしている。
周りに集まる彼女達も、しきりに辺りの商品を吟味しては、楽しそうにあちらこちらへと歩き回っていた。
ただ、彼女達の姿も、エリアには影のように黒く、実体のない『何か』にしか見えない。
「あの」
意を決して、話しかけてみる。
何か、教えてくれるかもしれない。
彼女達は、驚いたように振り返って、途端に動きを止めた。
「あっ、えっと」
彼女達に目は無いのに、視線が集まっている気がして、怖くなる。
まるで、『どうしてお前がここに居るんだ』と責められているような気がして。
「な、なんでもないんです。ごめんなさい」
エリアはその視線に耐えられなくなって、通り過ぎるようにそこを去った。
その先も、何処に行っても。
彼女に居場所は与えられなくて、次第に、何故こんなところを歩き回っているのかもわからなくなって。
どうしようもない無力感に苛まれて、彼女はその足を止めた。
何を、しているんだろう。
行き場のない視線を床に落としていると、どこかから、楽しそうにはしゃぐ子供の声が聞こえた。
「…声、聞こえる」
今までの、音の聞こえない影の魔女達ではない。
自分の耳に届く『声』を持つ誰かが、近くの家の中で楽しそうに話していた。
縋るように、窓を覗き込む。
「よく、見えない」
目を細める。
「―――お父様、お父様。おかえり、おかえり。ねえ、もう、どこにもいかないでね。ずっと、ずっと一緒だからね」
嬉しくて仕方ない、とでも言うように笑う子供の目の前にいるのは、椅子に縛られた、髪の長い『誰か』。
髪は白く、きっと今は意識を失くしているその人は、エリアの眼には、確かに大切な友人の姿に見えていた。
その子供の正体を思い出して、エリアの頭には急激に血が昇る。
心臓は高鳴って、息は切れて、彼女の脳内は一気に『怒り』で埋め尽くされた。
窓を殴りつけて、叫ぶ。
「返して、返して!あなたのものじゃない、リュックは私の友達なの!」
一気に、今までの出来事が彼女の脳裏を駆け巡った。
◇ ◆ ◇
「―――エリア、歩こう。辛いけど、まだ立ち止まれない。進まないと」
冥界の魔女と、厄災シリルの戦いによって街を破壊された朝。
あの地獄のような朝を迎えた後、エリアはリュックに手を引かれて、失意も冷めやらぬままに何もない平原の中を歩き進めていた。
急に立ち込めた雲で辺りは暗くなり、俄雨で服を濡らす。
リュックが向かおうとしていたのは、レリアが住む森の邸宅。
件の悪意に満ちた新聞による、彼女の身の危険を知らされたエリアは、畳みかけるような凶報で心が折れて、足は震え、涙も止まらなくなり、その場から動けなくなっていた。
縋るようにして座り込む彼女は、もう駄目だ、と言うように額をリュックの身体に擦りつける。
自分が魔女だったせいで、目の前で救えた筈の命が消えた。
自分が魔女だったせいで、壊さずに済んだはずの絆が失われていった。
幼少期からずっと恐れていた『最悪の幕引き』が目の前で起きた一部始終は、彼女の心を完膚無きまでに叩きのめすには、余りに十分だった。
これ以上は何をしても無駄で。
どれだけ積み上げても、努力を重ねても、自分が自分である限りは何も成し遂げられない、誰も救えない。
すべて、おまえのせいだと。
朝の出来事の全てが、彼女にそう宣告していた。
「駄目だ、エリア。立って、歩いて」
リュックの目は焦りに染まっていて、動けないエリアを何とかして立たせようと躍起になる。
ここで二人で足を止めたり、彼女を置いて単身でレリアの安否を確認しに行ったりすれば、更に不幸な結末を生むかもしれない。
その可能性を恐れたリュックは、罪悪感と焦燥感で冷たい汗を流しながら、必死になって彼女を歩かせようとしていた。
抱えて持ち上げようにも、エリアは身体を丸めてその腕から擦り抜けようとする。
泣き喚いて、這いながら逃げようとする。
なんで、なんでと狼狽えながら抱え込もうとしても、彼女は応えてくれない。
次第にリュックの焦りは苛つきに変わって、エリアに対する物言いは更に強くなり始めていた。
「エリア。―――エリア!立って、お願いだから!ねえ!」
「嫌、嫌だ、もう、もう何も」
腕を掴んでは、振り解かれて、そんなやり取りを何度も繰り返す。
次第に、掴み合う腕には力が籠って、お互いに意地になり始める。
「エリア!」
無理矢理に腕を引いて、エリアが悲鳴を上げる。
強く腕を引き過ぎたことに気が付いて、彼女は驚いて手を離した。
「…お願いだから」
膝を折って、力なく頼み込んでも、エリアは蹲って泣いたまま、答えようとしなかった。
雨の音だけが、耳の中で響く。
「どうしたらいいの、じゃあ」
彼女のその独り言は、誰も受け取ることは無く、平原の中に小さく消えた。
―――おいで、おいで。
今、一番聞こえて欲しくなかった呼び声が、彼女の頭に響く。
「…お願いだよ。今、そんなことをしている場合じゃないんだ。私達は、もっと守らなきゃいけないものが沢山あるんだ」
―――知らない、知らない。おまえには言ってない。
お父様を連れ去ったおまえなど知らない。
私が呼んでいるのは、私を愛してくれるお父様だけ。
私を救ってくれた、お父様だけ。
目の前に、呪いの門が現れる。
冥界の魔女が作る、帰り道の無い死の扉が、視界を埋める。
「エリア、立ってよ」
そう、口では急かしながら。
彼女の目は、既に呪いの門に意識を奪われていて。
悪夢に誘われるように操られたまま、何一つ抗うことも出来ずに、二人は冥界の中へと引き摺り込まれていった。
◇ ◆ ◇
全部を思い出して、エリアの後悔と、憤りと、悲しみの全ては、八つ当たりのようにディアスシアに対する怒りに変わっていた。
「返して!返して!!」
狂ったように叫んで、窓を殴って、冥界の魔女を睨みつける。
まるで世界の不幸は全てお前のせいだとでも言うように、彼女は叫び続ける。
「―――お父様、お父様。ずっと、ずっと一緒。私を助けてくれた、優しい、優しい、大切なお父様。えへ、えへへへへ」
窓の向こうにいるエリアの声は全く聞こえないのか、ディアスシアは執着に満ちた笑いを浮かべ、彼女の言う『お父様』にべたべたと体を寄せ続ける。
エフタの姿で眠るリュックは椅子に縛られたままで、一切の反応を見せることはなかった。
尚も叫び続けるエリアのもとに、何かが近づいてくる音が聞こえる。
咆哮。
空を裂くようにあらわれた三つ首の番犬は、彼女を捕食するように大きく口を開く。
巨大なその化け物に対して身構えたところで、彼女の力では敵う筈もなくて。
爆発を起こすほどの音圧で吠えた番犬は、音だけで彼女の身体を吹き飛ばして、天空の足場から落下させた。
エリアの魔法は上手く働かず、彼女はそのまま深く、深くに落ちていく。
悪夢を見るように、地を通り過ぎても、まだ先へと落ちていく。
次第に何も見えなくなって、只の暗闇の中で、跳ねるように転がり落ちて。
行きついた場所は、何も見えない、本当の深海のような世界だった。
「やめて、出して。お願い、全部返してよ」
すぐさま体を起こして、元居たであろう方向を見上げても、もうそこには何も見えない。
また、彼女は蹲って泣き始める。
近くで、何かが動く音が聞こえて、彼女は驚いて顔を上げた。
「誰か、いるの。…ねえ、答えて。あなたは、誰」
もぞもぞと、虫が蠢くような、気色の悪い何かが起き上がる。
「…んふ、えへ、えへへ。お友達。ねえ、もっと頂戴。私に、もっと頂戴」
寒気が走る。
その声を上げる人物の正体に気が付いて、エリアは尻餅をついて、必死に逃げようと藻掻き始めた。
ただ、距離も速度もないその空間で、彼女の身体はまるで思うように動かない。
あの朝、村を襲った『厄災』。
心臓を壊され死して尚、冥界に拒絶され、無の空間で閉じ込められていたシリルは、投げ込まれた餌に飛びつくように、エリアを押し倒して覆い被さる。
「頂戴、頂戴。まだ、足りないの。もっと、沢山、奪いたいの」
「嫌、嫌、お願い、助けて」
掴みかかられたエリアは必死に腕を伸ばして、誰も居ないほうへと助けを求める。
ただ、そうやって幾ら身体を逸らしても、シリルの不吉な笑顔は避けられなくて。
エリアの意識は、その笑顔が近づいてくるにつれて失われて、次第に冥界の闇に呑まれて消えて行った。
◇ ◆ ◇
リュックとエリアの二人が姿を消した平原、その中央。
影の中から、一人の少女が姿を現す。
プラチナブロンドの髪、白いドレスを着た羊耳の魔女。
それは、かつて数千年前に生きた、とある女神にも見紛う姿。
彼女は、何事もなかったように立ち上がると、自分の両手をまじまじと見つめて、その身体が自由に動くことを確かめると、何かを理解したように、気色の悪い笑顔を浮かべる。
「―――えへ」
かつての彼女の笑顔は、今はどこにも無い。
かつての彼女の魂も、そこには無い。
そこに生まれたのは、紛れもなく、悪意と物欲に染め上げられた厄災の芽。
悪魔の魂を持ち、玩具のように権能を与えられた魔女が、新たな享楽を求めて歩き始めていた。




