5-05 三千年前の雪落とし(5)
彼は一目見て、その物体が何なのかを理解した。
「冥界の箱だ」
「そう。あなたも、これを使って帰って来たんでしょう」
「ああ、そうだ。でも、僕が使った箱は隠れ家にあった筈だ」
ガランサスは不思議そうに箱を眺める。
「魔女の里を作る時に、彼がもう一つ作ったんだって。この世界の核として必要になるけど、既存の箱にはお友達が眠っていたから」
「友達って―――ああ、僕か」
「そう」
箱の見た目は、ガランサスが隠れ家で見たものとまるで同じだった。
ただ、今、目の前にある箱は、その比にならない厳重さで守られている。
誰も入ることの許されない、最も高い場所にある鍵付きの倉庫の中。
足場は繋がれておらず、辿り着くためには、特別な魔道具を借用するか、アゼリアの力を借りて空を飛ぶ必要がある場所。
その倉庫の中に、冥界の箱だけが、小さな机に固定するように置かれていた。
机には、『魔女の里』という文字が刻まれている。
「これが、この世界の核?」
「そう。この魔女の里は、この箱の中の精神世界を、特別な結界に投影したものだから。この世界も、魔女の力も、本当は冥界の箱の中にある」
「じゃあ、僕も本当は今、この箱の中にいるのか?」
「そうだよ」
「…不思議な感覚だな」
「この里の皆は、もう慣れてる」
アゼリアは穏やかに笑っていた。
ガランサスは、しばらくそれを見て、小さく首を傾げた。
「これを見せられて―――僕は、どうしたらいいのかわからない」
「彼は、きっと。あなたにも、自分のやっていることを理解して欲しいんじゃないかな」
「理解、か」
ふと、思い出す。
自分たちが生まれたあの集落で、エフタは自分のことを『ただ一人の理解者』だと言ったこと。
同じ場所を目指す者として。
きっとその力量の差などとうに理解しているであろうエフタが、今でも自分と歩幅を合わせて歩もうとしているのだという事実に、ガランサスはほんの少しだけ喜ぶような表情を見せた。
「きっと、この里を作るために彼が考えたことを、書物か何かで残しているんだろう。読ませてくれないか」
「勿論。私には、ちんぷんかんぷんだったけれど」
彼らは、その箱に、共通の友人の姿を思い浮かべながら、灯りの一つもないその倉庫の扉を閉じた。
彼は、二度目の生涯全てを、エフタの研究の後を追いかけることに費やした。
死期を悟った彼は、再び例の隠れ家にある箱の傍らへと帰り着き、その生涯を終える。
次に生まれるのはまた五百年後か、あるいは数年後か。
その時にはまたエフタに会えるだろうか―――そんなことを考えながら、彼はまた眠るようにその瞳を閉じた。
◇ ◆ ◇
長い、長い夢を見た。
見覚えのある女神が、見覚えのある少年と過ごす姿。
あれはきっと、エフタとアゼリアだ。
笑い合っている。
彼は、あんなふうに笑う事も出来るのか。
あんなふうに、普通の人みたいな話が出来るのか。
その姿は、本当に、ただの純粋な少年少女の恋模様だった。
しばらく、そんな夢を見た後。
その女神が、何者かによって、エフタの隣から引き剥がされる姿を見た。
二人を引き剥がしたのは、龍の神だった。
エフタの邪魔をするな。龍の神は、そう言った。
彼女は、この世界から消えた。
「エフタ」
アゼリアを失って、一人になった彼に、声を掛けたくて。
でも、夢でしかない僕の、その声は届かなかった。
それからも、彼はずっと一人で、神様を目指していた。
その女神の名前を、声を忘れそうになっても。
彼はずっと、一人でその世界をもっと新たなものにしようと取り組み続けた。
その先で、彼は、一人の魔女の子供と出会って。
まるで本当の親子のような、もうひとつの幸せを見つけて。
その、果てで。
―――彼の姿は、魔女の子供と共に、泡のように弾けて消えてしまった。
なにか、恐ろしいものに包まれて消えるように。
魂そのものが、どこか遠くにいなくなってしまうように。
僕は、彼を失いたくなくて、手を伸ばしていた。
それでも、届かなくて。
藻掻いて、藻掻いて、藻掻いて。
次にこの世界に生まれ直した時には、全てが終わっていた。
三度目の生涯。
かつて魔女の里があった場所へ彼が足を運んだ時、そこには果てしない平原だけが寂しく広がっていた。
魔女の里は、それを覆い隠す森林とともに、完全にその姿を消し去り、『迷いの平原』と呼ばれる歪な結界領域だけが残されていた。
「―――この村の名前?なんだ忘れたのか。アゼリアだよ、アゼリア。昔は違う名前だったらしいけどね、何だったかな」
彼の生まれの集落は、その名前を変えて続いていた。
聞き覚えのある名前。
何故だか、その集落の名を変えたのが誰なのかは、大方見当がついていた。
「何かを、忘れたくなかったんだろう、エフタ。どこにいるんだ」
泣きそうになる感情を、叫びたくなる肺を抑えつけながら、彼は歩き回る。
あれは夢だ、悪い夢だ。
そう思いながら、彼はまたいつもの隠れ家を探した。
以前よりも木々が生い茂る道を抜けた先。
そこには、もう自分が見慣れた隠れ家は無くなっていた。
代わりにあったのは、小さな木造の洋館で。
扉を叩くと、おずおずと現れたのは、見覚えの無い一人の少女であった。
「…あ、あのう。どちらさま、ですか。おかあさんは、いません」
「ここは、君の家なのか」
「はい」
彼は、不躾に、その少女に帽子を取るように命じた。
少女は嫌がったが、彼に敵意が無いことを理解すると、怯えながらにその帽子を取って、長い髪に紛れる獣の耳を見せた。
隠れ家は、里から離れた魔女の住み処に変わっていた。
「魔女の里はどうしたんだ。エフタはどこに?」
「エフタ?エフタって、おはなしの中の、かみさまのこと?」
「神様?」
「そうだよ。おじさん、このおはなし、読んだことないの?」
少女から手渡された、一冊の本。
そこには、あくまで童話として、一つの物語が描かれていた。
***
―――魔女を生み出した聖人エフタは、ちいさな世界で神様になりました。
彼の作った世界は、ひととき、幸せな世界を作りましたが、それが長く続くことはありませんでした。
一人の魔女が、龍の神様を怒らせてしまいました。
龍の神様は、彼女をこの世界から追い出そうと、魔女の里に足を踏み入れます。
魔女は驚きました。
龍の神様が、自分たちの世界を滅ぼそうとしていると思い込んだのです。
彼女は、魔法の力で抗いました。
世界を守ろうとした彼女の力は、その時、本当の神様の力になってしまったのです。
その力は、龍の神様も、獣の神様も抑えられません。
その力は、聖人エフタにも抑えられませんでした。
魔女の世界は、彼女自身の魔法によって、壊れてなくなってしまいました。
聖人エフタも、どこか遠くへといなくなってしまいました。
ただ、彼らが残した影の魔法は、今でも、ワルプルギスの夜として、この世界に呪いを落としているのです。
***
「―――この本、手書きだろう。一体、誰が書いたんだ」
「わかんない。おばあちゃんの、おばあちゃんの、もっとおばあちゃん」
「…魔女が書いた本か」
信憑性は定かではない本。
ただ、その本を読んで、前に見た夢を思い出して。
ガランサスは薄々、自分たちの夢が終わったことを理解し始めていた。
日は落ちかけて、曇り空の夕暮れ。
夕焼けも見えない、気分の悪い暗い空。
行き場を失った彼は、村の馬小屋に無造作に積まれた藁に仰向けになる。
黙って、ただ、曇天の空を眺め続ける。
何時間も、何時間もそうして。
彼は、呆けたようにただ空を見上げた。
「もう、会えないのか。全て終わってしまったのか」
そう空に呟いても、返事をする者はいない。
エフタはもういない。
魔女の里も、もうない。
神様になろうとしたあの約束も、最早果たされない。
この幾千年もの、長い長い時間が。
ただただ生きただけの、空虚な時間になろうとしていた。
先程訪れた魔女の家には、この数百年の間も自分が眠っていたであろう冥界の箱が、大切に残されていた。
何故それが大切なのかはわからない、と話す小さな魔女からそれを借り受けた彼は、ただの空箱を眺めるように、それを空に掲げた。
「…」
彼は、静かに立ち上がる。
何かに取り憑かれたように、曇った瞳でその箱を見る。
何かを、考え込んだ先で、決意したように、彼は小さく呟く。
「駄目だよ」
誰も居ない空間に、彼の呟きは消えていく。
「やり遂げないといけないんだ。僕達は、約束したんだから」
曇り空の広がる夕暮れ。
風を切る音が、嵐の兆しを伝えるように耳を貫く。
かつて彼らが歩いた雪の空は遠く、ただ影を落とすだけの厚い雲が、彼の顔を黒く染めて。
「僕は、神様になるよ。エフタ」
そう呟いた彼は、箱を手にしたまま、どこか、遠い何処かへとその姿を消した。
誰も、彼のことを知らないまま。
彼は、一人で神様になることを選んだ。




