5-01 三千年前の雪落とし(1)
ある冬の寂れた農村地帯。
気弱で体も小さかった一人の少年は、幼少期から仲の良かった一人の友人に呼び出されて、暖炉の灯りが見える小さな物置小屋へと向かっていた。
その農村は、人の住処がまばらに建つのみで、見渡す景色の殆どは、味気ない雪が覆いかぶさるだけの地帯。
少年が歩く空間に聞こえるのは、彼が踏みしめる雪の音と、耳を掠めていく風の音。
人の気配がするのは、正面に見える古ぼけた小屋だけ。
ふと足を止めれば孤独感でそのまま倒れてしまいそうになるような雪景色を通り過ぎて、彼はその小屋の扉を開けた。
「…」
物置小屋に入ってすぐ。
袖の中に手を入れて、寒さに身を縮める彼は、暖炉の逆光に照らされた友人の影を見ようと目を細めた。
その友人は、小屋に入って来た彼に気が付くと、ぱっと顔を上げる。
「―――ああ。ガランサス、来たんだね」
そう嬉々として話すのは、まだ幼き頃、多くを知らなかった頃の異才、エフタだった。
彼は床に直接座り込んで、乱雑に光を返す物体を弄っている。
ガランサスは、まだ、彼が一心に調べている『何か』の正体に気が付かないでいた。
「もうじき、夜になるよ、エフタ。今日は一体何をしてるの」
「いつも通りだよ。わからないことを、確かめているんだ。この目で見た事の無いものを、知ろうとしている」
慣れてきた目でよく見れば、エフタの頬には赤黒い何かが付着している。
目の下、衣服、足元一帯の床。
それらは、見ただけで忌避感を抱くような『死』の色に染まっていた。
「…」
ガランサスは、足元の『何か』の正体に気が付くと、顔を歪めて身を引く。
「生き物を、殺したの」
「殺した訳じゃない。―――いや、そうとも言えるけど。少し、借りたんだよ。中身を見たかったから」
「借りたんじゃ、ないだろう。命は、一度奪ったら返せない。ねえ、何を殺したの」
「返せるさ。いずれ彼は巡り巡って、この世界にまた生まれ変わる」
何を殺したのか、その答えを中々得られず、ガランサスは嫌悪と興味に揺さぶられながらその死骸を眺めた。
「…狼?」
「見た目は、そう。限りなく狼に似た、魔獣だよ。ほら、前から飼い慣らしていただろう。二人で、一緒に」
そう言われて、ガランサスは憤ったように息を吸い込む。
「こ、殺した!?あの子を!?―――待ってよ、冗談止してくれよ、可愛がってただろう。何より、君が」
「そうだよ、だから借りたんだ。彼なら快く受け入れてくれるだろうから」
放心したように、口を開けたままでエフタの顔を眺める。
それに構わず、エフタは手に乗せた肉の塊をまた見せびらかした。
「これが、何だかわかる?」
「…」
ガランサスは呟く。
「…心臓?」
その塊は、狼の身体から切り離されても尚、何かと繋がっているように、気味悪く拍動を続けていた。
その中から送り出す血液は、とうに無い。
それを動かすための脳は既に停止して、更には切り離されている。
それでも尚、狼の心臓は手の平の上で生き続けていた。
「魔獣の心臓は、その形ある限り、停止することは無い。教本に、そう書いてあっただろう」
心臓を眺めるエフタの表情は、生物の中身を切り開いたその人とは思えない様相で。
嬉しそうに頬を染めて、美しい骨董品でも眺めるような、恍惚とした面持ちを浮かべていた。
そんな彼の様子にガランサスは何故だか引き込まれて、無意識に前のめりに、その心臓に視線を移す。
エフタは彼が耳を傾けているのを確認して、話を続ける。
「もうこの心臓に、外部から力を与えるものはない。つまりは、これを動かしているのは第三世界から持ち込まれた、未知のエネルギーだ。その正体を知らない僕達から見れば、これは無限にエネルギーを生み出す永久機関に等しい」
心臓は、暖炉に照らされて生々しく光る。
「これが内蔵されている限り、彼らの血液は巡り続ける。不思議だろう?食事をとらずとも、呼吸をせずとも。彼らは生命を維持できるし、それどころか肉体の限界を超えた力を行使できるんだ」
興味深く話を聞いてから、ガランサスは慌てて首を横に振った。
「それはわざわざ本物を見なくても、教本でわかっていたことだ」
「知識としては、ね。でも、この世界を知るには、先人の知恵を文字で読むだけでは足りない。魔獣の心臓が止まらないことも、実際に見て経験しないといけない。そう話したのは、君だっただろう」
そう言って顔を覗き込んでくるエフタに、ガランサスは小さな声で答えた。
「…違うよ。君が、教本の真偽を確かめたいというから。僕は、そのためには何かを殺して、中身を見なければいけなくなると、そう答えたんだ。だから、辞めようって。確かめるのは諦めて、仮説で検証しようって、そう言う意味で言ったんじゃないか」
エフタは不思議そうに、また覗き込むようにガランサスの顔を見た。
「―――どうして?」
ガランサスは、彼が納得できる答えを用意出来る気がしなくて、ばつが悪そうに視線を逸らした。
彼から見て、エフタという少年は、倫理や道徳と言った概念が通用しない男であった。
たった今、目の前で狼を殺している通り、彼は命というものに特別さを見出していない。
それよりも、彼が今興味を示しているのは、その命を個として定義する器、つまりは肉体の方であった。
精神とはどこに宿るのか、命とはつまるところ何なのか、心とは何から生まれるものなのか。
異質なのは、彼が人間の脳神経や身体の仕組みをとうに理解し終えたうえで、尚も心身二元論を唱え続けていることにあった。
ガランサスには、彼の言う事の半分は理解できていない。
ただ、エフタが難しい話をする時の嬉々とした振る舞い、知を得ることに対する喜び。
この世を少しずつ掌握しつつあることに歓びを覚える彼の非人間性に、ガランサスは憧れか、あるいは崇拝に近い感情を覚えていた。
彼はいつか全てを理解して、この世を自分のものにするのだろう、と。
ただ漠然とそう信じて、その行く先を羨んで、目を輝かせる幼少期を過ごした。
だから、彼が狼を殺したところで、驚き悲しみはすれど、軽蔑することは無かった。
エフタが全てを知る過程で必要なのであれば、きっと仕方のない犠牲なのだろうと。
失われた命が彼の糧になるのならそれでいいのだと、この一件には目を閉じることに決めていた。
「今日はもう遅いから、明日、もっと詳しい話をしよう。この心臓に流れる、無限のエネルギーについて。魔力と言われる、量子力学上まったく説明のつかない未知の力についてだ」
彼のその発言も、碌に理解できないままでガランサスは頷く。
「多くの大人が、龍人が、その正体を知らないままで魔術を使っている。使いこなせているつもりになっている。それじゃあ、僕達はこれ以上前に進めないからね。もっと、その本質を知らなければいけないんだ」
エフタは、大事そうに硝子の瓶にその心臓を収めて、生きていた頃の狼へ向ける優しい眼差しのままで、徐にその蓋を締めた。
「片付けをしよう」
うぇ、と声を漏らして、ガランサスは足元の死骸を見る。
渋々と言った様子のままで、彼はエフタの指示のままに骨を集め、暖炉の火で肉を燃やし。
部屋中に立ち込める悪臭に鼻をつまんで、本当にこれでいいのかと眉を顰めた。
時間が経つにつれて、狼だったものは、更にその形を失っていく。
それをじっと見つめながら、エフタは小さく口を開いた。
「ねえ、ガランサス」
「何?」
暖炉の灯りを反射して輝く瞳で、彼は尋ねる。
「明日も来るよね?」
少し、ガランサスの中の時間が止まった気がした。
人でなかった生き物が、この瞬間だけ『孤独』を内包する一人の少年に戻ったような気がして。
ガランサスは、心までも見透かすような彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、小さく頷く。
「うん」
エフタは、数少ない友人の首肯に満足したように、目を細めて笑顔を浮かべて。
ガランサスもまた、彼の浮かべるどこか気味の悪い笑顔に、魅入られるように小さく笑った。
その小さな農村の大人たちが、彼らのことを不気味な子供だと指差そうとも。
彼らは、紛れもない、ただの友人であった。
◇ ◆ ◇
先程まで狼の解体に使っていた隠れ家から出てきた後、ガランサスが別れの挨拶をするよりも先に、エフタが「聖堂へ行かないか」と切り出した。
寒いから早く帰ろうよ、と答えるガランサスに、彼は首を横に振る。
「龍神様の祭壇に用があるんだ。毎日、一度は礼拝に行ってる。君も、あの狼のことが大切だったなら、一緒に祈りを捧げておいた方がいい」
「…」
これで行かないのも寝覚めが悪い、とガランサスは渋々彼に着いて行くことにした。
聖堂。
信じる者に聖なる力を与える、龍神という存在に祈りを捧げるために建てられた場所。
日が落ちて薄暗くなった屋内、質素な石造りの壁に囲まれた、然程広くない空間の所々には、蠟燭のか細い光が灯っている。
古びた木の椅子が乱雑に並ぶだけの、一見すれば廃墟にすら見える部屋の奥には、細部まで精巧に彫り込まれた龍神の石像が建てられていた。
その像だけが、寂れた空間の中で異質な高貴さを保ち続けている。
冷たい隙間風が入り込む中、数名の信者が今も熱心に祈りを捧げている。
その光景に、幼少の頃から気色悪さを覚えていたガランサスだったが、エフタにそれを話した際には「そうなんだ」という否定も肯定もない淡白な返答しか得られず。
結局のところ、彼は今日に至るまで、何とも言えない肩身の狭さを感じたままで日々を送っていた。
エフタは、無言でその像の前まで歩み寄る。
ガランサスが後ろからその様子を見ていると、エフタは右手だけをその像へ差し出し、そのまま指先で軽くそれに触れて、目を閉じた。
「…」
他の大人たちが両手を合わせる中で、彼だけが異なる行動を取っていることに違和感を覚えたガランサスは、祈りを終えて戻って来たエフタに小声で聞いた。
「礼拝って、手を合わせるんじゃないのか」
「みんなは、そうするけど。明確に決められたわけじゃない、やりやすい方法で神様と繋がればいい」
「神様と繋がる、ね」
少し呆れたような表情をする彼に、エフタは「君もやってみたら?」と促した。
断る理由もないので、ガランサスは同じように石像に触れて目を閉じてみる。
あの狼のことを、ほんの少し思い浮かべる。
何事もなく、そのまま目を開ける。
なんとなく、確かにその石像に厳かな何かを感じたような気がして、彼はふと視線を上げた。
当然、石像が動き出す事もない。
「…ちょっと、怖いな」
彼のその言葉に、エフタは「正しい感覚だ」と笑顔を見せた。
聖堂を後にした後、ガランサスは、龍神と言う存在をよく知らなかったことを正直に話した。
「なんだか、凄い存在だってことしか、わかってないんだ。うちの親父、あんまり詳しいこと教えてくれないし」
「みんなそうだ。あの石像の存在意義を正しく語れる人なんて、もうこの里には居ないよ。誰もが、その程度の認識でしか神というものを理解できていない。さっき聖堂にいた人たちも、同じ。所詮は見せかけの信徒さ」
踏みしめた雪の足跡を眺めて、後ろ歩きをしながらエフタはそう答えた。
「知識を伝える教本はあれど、思想を伝える教典はどこにも無い。親から子へ語り継がれる逸話もない。ただ、龍神と言う神の名だけが語り継がれて、全てが彼の生み出したものだという大雑把な決めつけで崇拝されているのが、あの石像の現状」
「…」
「それが駄目だという訳ではないけど。神様だって、イマイチ嬉しくないだろう?何も理解していない人間から崇められたって。―――だから、僕は知りたいんだ。全てを調べ上げたい」
「全てって…歴史とか?」
「歴史だけじゃない。全てだ」
ガランサスは、相変わらず思考の読めないエフタの表情を見つめながら、また小首を傾げて「わかんないや」と呟いた。




