1-01 魔女エリアの今までとこれから
この家に母と暮らしていたのは、私が5歳くらいの頃までだったと覚えている。
私のことを可愛がってくれていた母だったが、ある日忽然と姿を消した。
その時の私は当然悲しく思ったが、同時に、「魔女とはそういうものだ」と納得している自分がいた。
母がいなくなる予兆には前々から気が付いていたし、その時に私が生きていけるだけの貯蓄を彼女が残していることも、それをどうやって使えばいいのかということも、幼少のうちから叩き込まれていたから。
だから、私は「ついに来たか」という気持ちで、なんだか他人事のようにその時の状況を俯瞰していたのだった。
書斎には本が山程あったので、暇なときには言葉や魔法を覚えた。
時々窓を引っ搔いている森の生き物を手のひらに乗せては、返事のないやり取りを繰り返したりもした。
暮らすのに支障のない程度にはお金も残されていたのだれど、街の通りにいくのはなるべく避けていた。
商店のおじさんはいい人だし、子供たちも私を除け者にはしなかった。
ただ、ずっと前から、母が彼らを怖がり、なるべく関わらないようにしていたことがどうにも頭から離れなくて。
子供心に、何か近寄ってはいけない理由があるのだと察して、私はいつも一人で出歩いては、人とのかかわりを最小限に抑えて家路に帰ることを繰り返した。
必要な買い物があるとき以外は、郊外にある私の屋敷に籠って、必要なものもなるべく周辺の森で採集をして用を済ませた。
視線を避けるように、近づかないように。
そうして暮らしているうちに、ゆうに十年以上の年月が経っていた。
―――街の人たちの私への目線が変わり始めたのは、つい最近のことだった。
「…しまった。枯れてる」
今日の朝、一番手入れの難しい花を枯らしてしまっていることに気が付いた。
野生でも滅多に見ない花で、種や球根も長期的な保存が難しい種類。採りにいこうとすると、少し危険な場所にまで足を運ばないといけない。
もしかしたら、街の通りのお店で種を扱っているかもしれない―――
心の中で、気が重いな、と呟いて溜息をついた。
最近の私は、昔以上に街の方へ足を運ばなくなっていた。
要らぬトラブルが起きないよう、波風を立てないように。
細心の注意を払って歩くことにげんなりしていた。
でも、この花は魔法で製薬をするときに稀に使うことがある。
いざ必要なときに無いと困る代物で、私は仕方なく重い腰を上げて街の通りへ向かうことにした。
「ないねぇ。あんまり手に入らないもんで、卸売りの商人も困ってたよ」
今日はいつも花屋で立っている女性がいないらしく、彼女の父親らしき強面・大柄な男性が店を回していた。
「…そうですか。わかりました」
「ああ、どうしても欲しいなら南にある高原に行ってみたらどうだ?あそこなら日当たりも抜群に良い、見つかるかも知れんぞ。へへ」
男は意地悪そうに私を見て笑う。
この男の意図は分かっていたが、私は「そうですね、行ってみます」と答えて頭を下げ、その場を後にした。
男は、少し驚いていたが引き留めてはこなかった。
南にある高原は、迷いの領域と総称される結界領域。
一度入ると、空間の歪みによって万人が道に迷い、その殆どが帰ることが出来なくなるためにそう呼ばれている。
街の人たちの間で、私が魔女であるという噂が流れ始めていた。
何が根拠となったかは分からない。
ただ、昔から読んでいた童話や史実の中で、魔女は人々から嫌われる存在、恐れられる存在であることは知識として知っていた。だから、そんな噂が流れれば、周囲からの私の扱いがどうなるかは容易に想像がつく。
例の店番の男性も、私のことを気味悪がって、迷いの領域に行ったまま帰ってこれなくなればいい、と考えてああ提案したのだろう、とは見当がついていた。
事実、私は魔女だ。
ずっと昔に母に言われた、「人前では絶対に帽子をとってはいけない」という言葉。
それが、私が魔女だとばれてしまわないための手段だったと気が付いたのも、最近のことだった。
「あった」
高原に着いた後、目的の花は意外にも早く見つける事が出来た。
運良く群生していたので、多めに種を貰って帰ることにする。
あらかた、必要な分は取り終えた。
採りきってしまわないように、幾らかの種はそのまま残して私は立ち上がる。
実のところ、ここから帰るのは、私にとってはさほど難しくなかった。
というのも、私は魔法で自分自身を浮かせて飛ぶことができたから。
それは、魔女として生まれ持った力。
その力のお陰で、私は上空から結界領域を抜けて、簡単に家路につくことができるということを以前から知っていた。
別に、自暴自棄になってこの領域に踏み入ったわけではないのだ。
ちなみに、自分以外の物も浮かせることはできるが、自分の体重と比較して重くなりすぎると力の限界を超えてしまう。
勿論、花の種くらいなら誤差の範囲内で、余裕で持ったまま飛んでいけた。
「う」
ただ、ここで一つ誤算が出る。
今までは気配のなかった雨雲が立ち込めて、雨が降って来ていた。
服が濡れて重くなると、飛ぶのが次第に辛くなってくる。
加えて風が強くなれば、自分一人の身体など簡単に流されてしまう。
「…早く帰らないと」
魔法を使おうと身体に力を巡らせる。
ただ、私というのは焦るとどうにも失敗が多くなる生き物だった。
「あっ!?」
不意に手の力を抜いてしまったせいで、足元に種をばら撒いてしまった。
「ああ、もう!急がないといけないのに」
地面は濡れていて、小さな粒を拾うのには時間がかかる。
私は直ぐにしゃがみ込んで、指に着く土を払いながら、夢中になって種を拾い集めていた。
草の中に紛れてしまった種は、目を凝らさないと上手く拾えない。
そうして地面ばかりを見つめていたせいで、その狭い視界が先程までよりも暗くなっていることに、すぐに気が付くことができなかった。
「…え?」
顔を上げると、目の前には底のない暗闇が広がっていた。
「ひっ…!!」
声が出なくなっていた。
形のない、ただ恐ろしいほどに存在感を放つその物体。
魔女の天敵。
影の獣が、目の前に音も無く現れていた。
まだ母と一緒に暮らしていたときにも、一度だけそれに遭遇したことがあった。
あの時の恐怖感は、今も脳裏に焼き付いている。
私が家から抜け出して遊び回っているときに、自分の身体よりも何倍も大きな影の獣が姿を現して、私をつまみ上げて食べようとしていた。
それに気が付いた母は血相を変えて抵抗して、私を奪い返して。
聞いたことの無い叫び声で術を詠唱して、火やら氷やら、光やら個体やら、思いつく限りのものを叩きつけて、それを追い払おうとしていた。
しかし、奴らはまるで意に介さず、母の傍らにいた私に何度も掴みかかった。
明確に『捕食される』と危機感を覚えて怯え始めたのは、そのくらいのタイミングだったと思う。
怖さのあまりに目を瞑った時に、瞼の向こうで聞こえた母の奇声が影の獣を驚かせたのか、それは漸くたじろぎ、母に逃げる隙を与えた。
そこで彼女は必死に私を抱えて、間一髪逃げ遂せた―――というのが、私の憶えている当時の記憶。
その夜には、母から影の獣の恐ろしさを教え込まれた。
あれは近づいてはいけないものだ、魔女を脅かす存在だと。
その時に、私は思った。
次に会ったら、きっと命は無いだろうな、と。
全力で走った。
本当は魔法で飛んで逃げたかったのだけれど、気が動転していて、魔法陣がうまく展開できなかった。
不発に終わった魔法のくせに、私のちっぽけな魔力はどんどん底をついていく。
後ろを振り返っている余裕なんてない。
ただひたすらに走るしかなかった。
走って、走って。
息が切れて、足が止まって振り向いた時、もう後ろに影の姿は無くなっていた。
疲れ果てて、服は雨で重く濡れて、もう空を飛ぶ気力などどこにも残っていない。
このままでは、いつまでも高原から出られなくなってしまう。
「どこかで、休まないと」
いつ、影の獣がまた襲い掛かって来るかわからない。
そんな恐怖の中で、少しでも気を落ち着けられる場所を探して、私はひたすら歩き続けた。
ただでさえ臆病な私を笑うかのように、一つ大きな雷が鳴った。
「ひぃっ!?」
耐えきれなくなって、頭を抱えてしゃがみ込む。
無意識に、涙が出ていた。
なんで、こんな目に遭わないといけないんだろう。
何か、悪いことをしただろうか。
―――それとも、私が生きていることが悪いのだろうか。
その感情はどこにもぶつけられないまま、ただただ自分の不運を呪った。
死ぬのが、怖い。
死んでしまえば、私が今まで生きてきたこの時間が、全部無駄になってしまうと思ったから。
誰もいない毎日。誰の為に生きるでもなく、誰かが私の帰りを待っている訳でもない。
ただ、音もなく私の存在が世界から消えて、忘れられて。
始めから私なんてこの世に居なかったのだと、そう決められてしまうことがひたすらに怖かった。
誰か。誰か、居ませんか―――
―――黒い門へ引き込まれようとする彼女を見つけたのは、そんな時だった。
縋る気持ちで走った。
今、あの子を助けられなかったら、私も同じように死んでしまう気がして。
救うためにではなく、救ってほしくて走っていた。
はじまりは、いつだって突然やってくる。
◇ ◆ ◇
こんなに笑ったのはいつぶりだろうと、エリアは笑った。
さっき初めて会った筈の黒髪の少女は、エリアのことを魔女ではなく「魔法使い」と言った。
彼女が魔女であると叫び、逃げ出すことなど全く無い。
ただ一緒に、ただ隣で寝転げて、楽しそうに笑っていた。
「ねえ、びしょびしょのどろどろだし、ひとまず私の家に来なよ。服、貸すよ」
「いいの?」
「うん。むしろ、来て欲しいの」
「…わかった。ありがとう」
二人は、互いの身体を支えながら森の奥へ歩いていく。
辿り着いたころには、日は大分傾いて辺りは暗くなっていた。
「…ここ、本当に童話の世界?」
歩いた先には、まさに隠れ家というような、木造の小さな洋館。
暗さのせいか、若干の不気味さを感じさせた。
扉を開けると、家の所々が連鎖的に軋む音が聞こえる。
足を進めると、床からも同じような音がする。
エリアが指を振ると、壁際に吊るされた幾つかの灯篭に火が灯って、物寂しい木の壁やインテリアがその姿を見せた。
静かな空間。
「ここがエリアの家?」
「そうだよ」
エリアは何の気なく答える。
そのあまりに寂しい空間に今まで一人で暮らしていることなど、彼女にとっては最早当然であり普通のこととなっていた。
「ちょっと、座って待ってて。お風呂場、準備してくるから」
「…うん」
少女は、高原でエリアが何かを言おうとしていたことを思い出していた。
さも当然の様に「背中流すよぉ」と風呂場に突入してきたエリアを大慌てで追い出し、なんとか無事に着替えてきた少女。
その腰まで流れる黒髪は、先ほどまでよりずっと輝いて見える。
「…綺麗な髪」
交代で身体の泥を落としてきたエリアは、ほぼ無意識にその髪に触れながら、自分のもこもこした髪と比較してしょんぼりとしていた。
「服、貸してくれてありがとう。…なんていうか、豪華だね」
「そう?普通だと思うけど」
中世のヨーロッパを思わせるドレス。今少女が着ているのは、寝間着にするための薄手のもの。
少女の文化と比べると、当然ながら普通とは言い難い姿。
「似合ってるよ」
エリアはそう言って、無邪気に笑った。
二人ともさっぱりした所でリビングルームのソファに座り、温かいスープを飲んで一段落したところで、ようやく互いのことへ話題が移る。
「…それで、名前、思い出せそう?」
「…まだ、ちょっと」
「そっか。…で、でもすぐ思い出せるよ!大丈夫、大丈夫!それに私、お医者さんみたいなもんだし!」
エリアは立ち上がって励ますように腕を振った。
「そうなの?」
「そう…だよ!」
元気よく言い切ったエリアだったが、腕に自信があるわけではないようで、その後少し気まずそうに目を逸らした。
若干の沈黙の後、エリアはおずおずと黒髪の少女の顔を覗き込む。
「…ねえ、あなた、ただの人間じゃないよね?」
「え?」
「だって、ただの人間は、あんなに空高く跳びあがれない。何ていうか、他の人よりも身体能力が優れているような、そういう種族なんじゃない?」
もう既に忘れかけていたが、思い返せば確かにそうだ、と少女は自分の顎を触る。
「…それも、わからない。でも、私は普通の…いや、普通にもなれない、ちっぽけな人間だった気がするよ」
「…」
しまった、と少女は顔を上げる。こんなに卑屈になっては、せっかく励ましてくれたエリアに申し訳が立たない。
「もしかしたら、エリアに会えて嬉しかったのかも?」
「うん?だから、飛び跳ねたってこと?嬉しくて?」
エリアは、なにそれ、と笑った。
「でも、確かに楽しそうだったね、飛んでる時。凄い、凄いって」
エリアはまた覗き込むように少女の顔を見て、悪戯をするように頬をつつく。
「エリアこそ。大笑いしてた」
「しょうがないでしょ、そういう気分だったの」
彼女は気恥ずかしそうに少し身を引いた。
「…エリアは、ここに一人で住んでるの?」
「うん」
「そっか」
僅かな沈黙。
「…あの、さ」
何かを迷いながら、エリアは少しずつ口を開く。
黒髪の少女は、黙って次の言葉を待った。
「記憶が戻るまで、ここにいたらどうかな。ああ、その。近くに街があるから、そこの宿に泊まらせてもらうっていう手もあるんだけど」
そう話すエリアの目には、ただの善意というよりも、何かの期待を込めたような色が宿っている。
黒髪の少女は、迷う事もなく、エリアが望む選択肢を選び取った。
「…もしいいなら、ここに居させて欲しいな。手伝えることは何でもする」
エリアはわかりやすく目を見開いて、頬を赤くして喜びの顔を見せる。
しかし、ふと何かを思い出したように目を伏せて、また迷うように指を遊ばせた。
「ああ、そうだ。ちなみに、さ。記憶がないってことは、さ。その。…もしかして、魔女って、聞いたことない?」
少女は、魔女、という言葉は知っていた。
ただ、問いかけのやり方から考えて、素直に「知ってる」とだけ返事をしてはいけない気がした彼女は、少し探るように言葉を返す。
「魔法を使える人、みたい…な?あんまり、よく知らないけど」
エリアは、何か考え込むように視線を下げた。
踏み込むべきか、どうか。
一瞬だけ考えた後、少女は聞いてみることにした。
「エリアは、魔女なの?」
肩をびくっと震わせるエリア。
彼女の頭の中で、いくつもの不安が駆け巡った。
そうだと言ったら、途端に嫌われないだろうか。
仮に今は受け入れてくれたとしても、記憶が戻ったらやっぱり嫌だ、と突き放されるかもしれない。
魔女と関わった事実が、これから先の相手の人生に悪い影響を与えるかもしれない。
そう考えると、急に、怖くなった。
彼女が魔女だと街で噂になってから、色んな事があったから。
いつも通り接してくれた街の人々も、エリアを見ると距離を取るように何歩か後ろに下がるようになった。
子供を連れた女性は、我が子を守るように自分の方へ引き寄せて、彼女に近付けないようにしていた。
店番の男は、笑顔でも後ろ手に武器を隠して、『万が一』に備えていた。
ある時には、事故を装ってバケツの水を掛けられたこともあった。
全部、わかっていながら気が付かない振りをしていた。
それは、嫌悪や悪意ではないと知っていたから。
自分に向けられていたのは、恐怖の目だった。
今、目の前の少女にその視線を向けられたら、きっと耐えられない。
なんで、一緒に居ようなどと提案をしてしまったのだろう。
そう後悔して、彼女の視界は狭くなり、次第に呼吸は乱れ始めた。
急にエリアの様子が変わったことで、黒髪の少女は動揺する。
「エリア」
「ごめん、ごめんね、何でもないの!今の話、やっぱりなし!」
明らかに平常ではない彼女は、青ざめた顔で、目に涙を浮かべていた。
「夜が明けたら、街に行くと良いよ。道は案内するから。あ、お金とか、持ってないよね。無いと困るだろうから、玄関に少し置いておくね。服は別に返さなくてもいいからね。あと、えっと―――」
「エリア!」
少女は、立ち上がってエリアの肩を両手で掴むと、無理やり自分の方を見るよう引き寄せる。
強く呼びかけられたエリアは、冷静さを欠いた表情で、ただ黒髪の少女の目を見つめて固まっていた。
目を合わせて向かい合ったまま、少女は諭すように告げる。
「言っていいよ」
エリアの息切れが、少しずつ治まっていく。
その眼差しに一縷の望みを掛けて、彼女は声を振り絞る。
「―――私、ね。魔女なの」
「うん」
「魔女っていうのは、世界の嫌われ者で。きっと、私と関わった人も、同じように世界から嫌われてしまう」
「別に、構わない。私、世界とか、興味ないし」
「影の獣も、魔女を求めて近寄ってくるの。また、怖い目に遭うかもしれない」
「だったら、猶更一緒に居ないと」
「な、なんで」
「だって、エリアは私の命の恩人だから」
ずっと、心の奥底で、期待していた。
影に追われて、絶望の中で見つけたその人に。
今まで会った人たちとは何か違う気がした、その少女に。
「絶対に、嫌いにならない?記憶が戻っても?」
「絶対。誓って、君を裏切らない」
エリアは腕をまわし、少女にしがみつく。
この人には、隠さなくていい。
この人からは、隠れなくていい。
幼年期に捨ててしまった感情は、消えてしまったと思った感情は。
誰かに存在を認めて欲しいというその願いは、ずっと彼女の胸の内で解放される時を待っていたのだった。
堰を切ったように涙が溢れ出す。
彼女が膝から崩れ落ちても、少女は一緒になって姿勢を変えて、離すことなく支え続けた。
◇ ◆ ◇
「―――帽子、取るよ」
「うん」
エリアは、入浴後も再び被っていた大きな帽子を恐る恐る持ち上げる。
「これが、魔女の象徴」
今まで人前で取ったことがないというその帽子の下に、いったい何があるのか。
少女は、唾をのんだ。
一瞬、わからなかった。
彼女の綺麗なブロンドの髪に紛れるように、それはある。
―――羊のような、垂れ下がった耳。
俗にいう、ケモ耳というものだった。
「…か」
「か?」
一瞬、エリアは不安の面持ちを見せる。
「可愛いぃーッ!!」
「ほわぁぁぁぁ!?」
少女は、襲い掛かるようにエリアに飛びついた。
少女は、これでもかという程にエリアの羊耳を触り、頭を撫で回す。
エリアが嫌がるのも気に留めず、仕舞には、彼女が床に転がって逃げるまで、少女は好き放題に撫で回し続けた。
「魔女の子はみんなこういう耳がついてるってこと?いいね、凄くいいと思う」
「よくないよぉ!これのせいで、魔女なんだって簡単にばれちゃうんだから!」
「うぅん、こんな萌えの塊を排斥しちゃうなんて世の中間違ってるよ」
「うん…?」
「とにかく。私は、その耳大好きだよ」
「あ、わ…それは、どうも」
真っ直ぐに好きと言われたのが恥ずかしかったのか、エリアはまた帽子を深く被って、その庇で表情まで隠した。
エリアは、床に寝転げたままで、また真面目な表情に戻る。
「多分、街の人にこれを見られたら、アウト。みんなが私を街から追い出そうとして、この家にも居られなくなると思う」
「エリアを追い回すような街の連中なんて、私がやっつけちゃうよ」
「だ、駄目だよ!別に悪い人たちじゃないんだから」
「違うの?」
「違うよ。すごくいい人たちなんだよ。優しくて、仕事熱心で。私も、子供の時は色々と助けてもらったことがあるんだ」
「…そっか」
エリアは、昔を思い出すように遠くを眺める。
「私、アゼリアの街が好きなんだ」
「アゼリア?」
「そういう名前の街なの」
黒髪の少女は、アゼリアという名の花を知っているような気がして、エリアと同じように穏やかに笑った。
「いい名前の街だね」
「うん」
エリアは、更に嬉しそうに笑って見せた。
「…そうだ。あなたの呼び方、決めよう。ずっと名無しじゃ呼びづらいよ」
「名前かぁ…。まあ、何でもいいかな。エリア、決めてよ」
「えぇ。自分で決めないと後悔するよ」
「そうかな。…じゃあ、そこの花は何て名前なの?」
「これ?これはリュックって花。製薬に使うの」
「製薬…。そういえば、さっき自分のこと医者って言ってたね」
「うん。治癒の魔術の応用で、よく薬を作るの。あんまり使わないけど、練習がしたいから。この花は傷薬でよく使うよ」
「ん、決めた。私の名前、リュックで」
「えぇ!?」
そんな適当な、と困った顔をするエリア。
「いいの?そんな決め方で」
「花の名前なら覚えやすいしいいんじゃない?私、あんまりネーミングセンス無いから。時間かけてもしょうがないし」
「そ、そうかなぁ。まあ、あなたがいいなら」
「じゃ、決定ね。よろしく、エリア」
「うん、よろしく。…リュック」
こうして、二人の共同生活は始まった。
大きな世界の端で、二人だけで作った小さな世界で。
◇ ◆ ◇
その日、夢を見た。
何度も見た、ずっと昔の夢。
母が、絵本を読んでくれる夢だった。
ひとりぼっちで泣いている女の子を、強くて勇敢な龍の騎士が助けに来る、そんなお話を毎晩のように読んでくれた。
私たちのことも迎えに来てくれるかなぁ、と昔の私は母に尋ねる。
母は、きっと来てくれるよ、と私の頭を撫でた。
だから、大丈夫だよ、と口が動く。
あの時、あの人は何て言ってたっけ。
ああ、確か。こうも、言っていたような気がした。
―――私が居なくなっても、一人になっても。一生懸命、生きていきなさいね。
きっといつか、あなたの全てを受け止めてくれる人が、現れるから。
「叶ったよ、お母さん」
夢の中で、私はそう語り掛ける。
母は、安心したように笑って。
おやすみ、と呟いて、深く息を吐いて。
ゆっくりと絵本を閉じて、もう覚めることのない、永い眠りの海に姿を消していくのだった。