鬼の少女と冒険者 道の途中
アルビを出立して3日目、大きな街道から外れた、近道の山道を往く二人の姿が有った。
道の両端に並ぶ木々は、吹く風に揺られ、ガサガサと葉を擦り合わせる。
冒険者はその青々とした活気に目を奪われながら、しかし先日の、予期せぬ出費に未だ頭を悩ませていた。
「――おっ!」
鬼の少女が、小さく、喜びの籠った声を上げる。
「どうした?」
「アレを見ろ」
彼女の視線の先、居たのは鹿だ。若干距離が有り、こちらには目もくれずに草を食んでいる。
「食べる?」
当然の様にそう尋ねる少女。冒険者は、その後の処理について考えた。近くには小川も流れていて都合がよく、天候からしても解体と処理で丸一日停滞しても危険は無い。まして、食料の確保は重要――特にこの、懐に寒風吹きすさぶ状況では、多少荷が増えても有難い物だ。
「――ああ、頼んだ」
彼のその言葉を聞いて、少女は短く、口笛を吹く。音に気付いた鹿はすぐさまこちらに目を向けるが、それが間違いだった。瞬間、鹿の身体は石像の様に硬直し、鳴き声の一つも上げられなくなる。
足早に鹿の下へ向かう冒険者。彼はゆっくりと、丁寧に獲物を横倒しにし、その視界から外れた場所で、手早く鈍器に手を掛ける。そのまま、脳天に一撃。
鬼の少女には力が有る。目の合った生き物を、それが人程度の大きさであれば、指先すら動けなくしてしまうと言う力だ。これにより、冒険者は以前よりも手早く狩りをする事が出来た。
突然の拘束に、動物は恐れを抱くだろう。しかし以前の様な、罠であったり、弓矢であったりを用いた狩猟よりは、心が痛まずに済んだ。それが悲痛に慄く姿を見なくて良いからだ。
しかし未だ、どこか釈然としないで居るのも事実だ。圧倒的な捕食者の様な振る舞い、これを恐れるのは、人間である自分も同じ事だろうに。
「さて、今日は私が捌いてあげようじゃないか」
少女は意気揚々と、獲物を担いで小川に向かう。彼女がその身を解体する傍ら、冒険者は火を起こし、薪を集め、河畔から少し離れた辺りにテントを張った。
一見、無垢でか弱き少女の姿である鬼の子の、その慣れた手つきで鹿を捌いていく様子を見ていると、冒険者としてはどこか、自分が彼女と共に続けている旅の意義を見失いそうであった。
彼としては、死に瀕する不憫な少女を助けたと言う話の筈だった。それがどうして、その正体は半ば人外であり、まして人を食料として見るような怪物の類なんて事になるのか。
そして何より、そんな彼女と未だ、共にあるのか。生き抜く術なら、この5年で教え尽くした筈だろう。
現にこうして獲物を捕らえ、捌き、食料とする技術は身に着けている。野営地の設営もそうだ、今自分が消えたとて、彼女は一人、旅を続けられるだろう。
この本質的な、2つの異なる生き物の生態から提起される疑念は、5年の歳月を経てもなお健在であった。
「私に食べられる気は無いか」と言う彼女の問い、3年程前に投げかけられたそれが、今になって頭をよぎる。結局あの時、彼女は諦めの籠った目でそう訊いてきた。それが例えば、壊れた玩具を見るような心であったなら。
ある種の享楽としての旅路なのだろうか、私は彼女を楽しませ続けているのだろうか。知らずのうちに、そうして生き延びて来たのだろうか。
彼がこう思い悩むのは、決して先ほど覚えた振る舞いと現実との相違からばかりではない。アルビと言う、環境の良い、設備の整った街での滞在が、彼に少しばかりの誘惑をしてみせたのだ。
自分にもまた、あのような、人並みの幸せの中に生きる事が許されるだろうか。
石に腰掛け、柄にもなく深く考え込む彼の姿に、気付かぬ少女と言う訳でも無い。捌いた身を火にかけて、静かに、傍らに腰掛けた。
「――終わったよ」
「……ありがとう」
彼は日頃、楽天的な性格の男でもない。しかし、声を掛けてもどこか上の空で、向ける視線すら、哀しみを感じさせる儚さであった。
二人、黙々と肉を加工し続ける。気付けば空は赤みがかっていた。
「よし、これで十分だろう」
「ん。じゃもう一回身体洗ってくるね」
そう言って、少女は下流の方に向かった。
彼女には、冒険者が思い悩む理由に皆目、見当も付かなかった。普段であれば、予期せぬ収穫に喜び合う所であると言うのに、なぜだか随分暗い顔をしているのだから、当然だ。
「――あれが若さってモンかね」
些細な切欠から、思いもよらぬ悲観に暮れるようになる。全く以て、若者の繊細な心と言って差し支えないだろう。まあ、自然だ。20年とそこらしか生きていない様な生き物である上に、身に降りかかった悲劇に対して、自死で以て決別せんとする様な弱々しさ。
その髪に残る水気を払いつつ、少女は川から上がった。
戻った所で、何を言う必要も無いだろう。思えば、彼の気まぐれから始まった旅なのだ。気まぐれで破綻しても、何らおかしくはない。やはり死んで全てを終わらせたいなどと言う身勝手も、この際、聞いてやろうかとも思った。
清潔な衣服に袖を通し、彼女はその場を後にする。
「――おかえり」
「おうよ」
少女が洗った服を干していると、彼は徐に口を開いた。
「なあ」
「ん?」
「この旅って結局、どこに向かってるんだろうな」
「……知るか!もとより君の旅だろ!」
頓珍漢な問いに驚く少女。なんだコイツ、そんな話でウンウン悩んでたと言うのか?
「まあ確かにそうだが。……ただ、今でもこうして続いてるのは、お前の影響もある訳だろ」
私の影響。少女は、どうせあの時の事だろうと考えた。確かに、そう言われてしまえば敵わない。あの時、意地の悪い聞き方で彼を引き留めたのは事実なのだから。
「それがどうした、まさか足が疲れたからもう辞めたい。なんて言い出すんじゃないだろうな?」
自身の非を引っ張り出されて、少しばかり語気を強める。
「いや、そうでは無く……ただ、あのジェローって、ほら、酒場であった男。アイツの言う通り、あてもなく旅を続けるのも、いつまでも続くモンじゃないよなと思っただけだ」
「同じような事じゃないか、何だってんだい今更。」
心底呆れながらも、しかし思い当たる事がある。
「……まさか君、ああいう街に骨を埋めたいとでも思ったのか?」
まさか、本当にまさかではあるが、そう訊いてみる。
図星を突かれた様に黙りこくる彼を見て、少女は絶句した。馬鹿だろ、コイツ。いや、その想いには納得が行くし、あの死にたがりの男が、こうして並みの人生を求めている事には歓びすら覚える。
何が馬鹿らしいって、それをこうも深刻に思い悩んでいる所に呆れるのだ。
「君なあ……」
何か一言、尻を蹴り上げる様な事を言ってやろう。ようやく独り立ちをするようなモノだ、潔く、別れを告げてやる以上の手向けも無い。
しかしどうしてか、何を言おうにも歯切れが悪くなる。この期に及んで、また暗に引き留める様な言葉を掛けることも無いだろうに。
少女の顔から、苦笑いの呆れ顔は消えていった。次第に、きまりが悪そうに口をつぐむ。
彼の旅の目的を聞いてから4年と少し、初めはただの阿呆だと思った。
彼には家族が居た。辺境の小さな町に、妻と、息子が一人。魔物の討伐に従事する戦士であった彼は、招集に応じて、長く家を空ける事も多かった。
件のイヴレーアでも、それは同じ事。いつもの様に、妻子は彼の無事を祈り、それに応えて生還するのが、彼の務めの筈だった。
魔物の襲撃とも、徒党を組んだ賊の仕業とも言われている。いずれにせよ、町は惨たらしく焼き払われたのだ。領主不在の折を見計らったような襲撃、城内に逃れた者も皆、殺されていたと言う。
その報せを聞いたのは、撤退が決まってから6日程経った頃だそうだ。領主も必死に、周辺の地に逃げ延びた者を探したのだが、襲撃の当日に居合わせたものは皆、そこで死に絶えたと言うのが顛末らしい。
男が冒険者とは名ばかりの根無し草となったのはその頃だ。統率を失った軍から抜け出し、日銭を稼ぎながら故郷を目指す。順当に行けばひと月かそこらで終わる旅路を引き延ばしに引き延ばしたのは、彼のささやかな抵抗だったのだろう。
無論、家に戻ったとして、実は生き延びていたなどと言う事も、死者が蘇るなどと言う訳でも無い。その現実から逃げようと、彼は随分と回り道をしたのだ。
無論、これは悲劇な訳だし、同情するべき物語ではある。ただ、そこにけりを付けようと自死を選ぶのは、全くの見当違いだと彼女は思った。
その上、得体の知れぬ少女を、見返りも無く助けるお人好しである。その情緒が些か、彼の外見や、経歴を鑑みると、不自然な程に純粋に思えた。
そのように純朴で、ましてその抱いた決意ですら、旅の道連れの悪戯な一言で覆す様なひ弱な男に、彼女は心底呆れ、しかし放っては置けないと思った。
それ以来だろう。自分無しには生きてもいけない様な、情けない一人の男に、どこか惹かれていった。
恋慕と言うよりは、庇護欲に近いだろう。しかしいずれにせよ、抱いた物を失うのはやはり辛いもので、そうした歪な感情が、ここに来て表立って彼女に襲い掛かる。
傷つけたくはない。力で以て屈服させるのなら、この男で無くとも良い話だ。求められ、それに応えてやる関係が、なかなかどうして心地よかった。
鬼の少女とて、順当にその精神を育んできた訳では無い。人と魔人のどちらともつかない存在だ、半端な人情で以て、その理不尽な力を振るう事になるのだから不思議はない。
その不健全な心が、偏った思考が、この状況を切り抜けようとする中で錯綜する。
長引く静寂の内に、二人は各々の考えを巡らせていた。その向かう先は奇しくも似通っていて、しかしどちらも、口にする事を憚った。面子を気にして、と言うよりは、相手を気遣ったと言う所だろう。
「ま、好きにするが良いさ」
精一杯の強がりで、そう口にする少女。当人は、吐き捨てるように言ってやるつもりだったのだが。しかしてどうも、声が震えてならなかった。
ようやく、男は気が付いた。彼女が共に在る理由が、決してその人ならざる面に拠る訳では無い事に。
目の前の少女の抱える想いが、その歪さまでをも知った訳では無いが、少なくとも、一人の人間としての感情であると気付いたのだ。
「どこか、この先立ち寄る場所で、一度落ち着いてみるのも良いんじゃないか」
彼なりの賭けだ。彼女の求める物が何なのか、それは少なくとも、この旅そのものでは無いのではないか。
「――それも、悪くないかもね」
互いに、胸のつかえが下りた様に、表情を和らげる。この旅を惰性で続けるようになって久しいが、その終わりをはっきりと意識したのは、これが初めてだった。
3年前より、ずっとどこかに抱えたままで、どうにも口にする機会が無かった。その間に積み上がった想いが今、全て明るみに出たと言う訳では無い。しかし、そうした結末の為の確実な一歩ではあるのだ。
その晩、火を絶やさぬ様に番をする冒険者の姿があった。勿論、火の番ではあるのだが、何より寝相の悪い少女が誤って足でも突っ込まないかと用心しているのだ。
彼とて内心、彼女の存在の大きさに気付いていた。それが半ば、人ならざる存在であろうとも、共に過ごした5年が築いた関係と言うのもまた在る。
彼女の幼稚な面は、息子のわがままを聞く様な物で、しかしその気の置けない関係は、亡き妻とのそれを彷彿とさせる。そして何より、惨めな自分の存在を許容してくれる一面が、懐かしい安心感を呼び起こすのだった。
彼らがこの関係に答えを見つけるのは、きっとまだ先の事だろう。
白む空、遠くの山から、陽が顔を覗かせつつあった。
知り合ってから時間が経つほど、言い辛くなる事ってありますよね。
かと言って、それで関係が崩れる事を怖がっては、なんか惜しい気もします。うーん……