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残業

作者: ぼりょ

【残業】


 「…あぁぁぁ………疲れた…。」

 会社員、江戸川達也が残業を終えた頃には夜中の22時を周っていた。先方からの無茶な要求で、明日の会議で使うための資料を、余計に用意するのに手間取ってしまっていた。追加で用意した資料は、計画的には多分、いや、間違いなく必要にはならないのだが、先方からの頼みでは致し方ない。そう思いながら江戸川は、定時で上がれた筈が今の今まで残業をしていたのだった。

 本来なら、定時で上がれていれば同僚と飲みに行く筈だった。新橋に最近新しく出来たお店だった。テレビでも紹介された話題になった店だった。江戸川は飲み歩くのが趣味で、会社終わりは同僚と、休みの日は独りで近所遠方問わず店を梯子する程の酒好きだった。

 定時で上がれず残業をすることは、そうそう珍しいことではないのだが、今回は事情が違った。江戸川は今日の予定を以前から同僚達と決めていたので、それが破断してしまったのが、非常に不愉快で仕方がなかった。かといって、手伝わず早々に帰ってしまった同僚達を恨めなかった。彼らには彼らの仕事があり、彼らもまた、その店で飲むことを楽しみにしていたからだ。

 江戸川は一旦伸びをした後、疲れた目を擦りながら周りを見渡した。

 オフィスの明かりは消えていて、江戸川のデスクの周りには誰もいない。真っ暗なオフィスに、江戸川のパソコンの画面の明かりと、少し離れたデスクのパソコンの明かりだけが照らしていた。

 「…お疲れさん。」

 オフィスの奥から、江戸川に話しかける声が聞こえた。江戸川の上司、係長の山口だ。

 山口は微糖の冷たい缶コーヒーを江戸川に渡す。

 「お前はいつもブラックみたいだけど、疲れてる時は甘い方が良いと思ってな。」

 「あ、ありがとうございます。」

 江戸川はそれを礼を言って受け取る。プルトップを開け、一気に缶コーヒーをあおった。ゴクゴクッと、喉を鳴らして一気に飲んだ。缶はあっという間に空になってしまった。

 「ははは、良い飲みっぷりだな。」

 「いやぁ、沁みました。ありがとうございます。」

 山口が笑って、江戸川が照れて礼を言う。山口はそれを手を振って静止した。

 「いや、礼を言うのはこっちだ。本当に、付き合わせて悪かったな。」

 そう言って山口は申し訳なさそうな表情をした。

 山口は明日の会議で進行を務める、この企画の主任だ。江戸川はそのチームの一員だった。

 山口が自分のデスクに戻って、パソコンの電源を落とした。荷物を持って、帰り支度をする。江戸川はそれを見て、自分も帰り支度を始めた。

 上着と鞄を持った山口が、江戸川に言う。

 「よかったら、これから飯でもどうだ。奢るぞ。」



 江戸川は山口に連れられて、駅の側の立ち食い蕎麦屋に来ていた。こんな時間なので、他の客は少なかった。江戸川達は、数席ある、座れるテーブル席に向かい合って座った。

 「はいお待たせ、瓶ビールね。」

 壮年の店員が瓶ビールとグラス二つを二人の席に運んできた。この店は食券制で、二人は既に注文と支払いは済ませていた。あとは品物が運ばれてくるだけだった。

 江戸川が素早く瓶を持ち、山口のグラスになみなみに注いだ。山口が礼を言うと、瓶を江戸川の手から取り、江戸川のグラスに注いだ。江戸川が恐縮して、山口に礼を言った。

 山口がビールの入ったグラスを持つ。

 「じゃ、乾杯。」

 「あ、乾杯、です。」

 二人が互いのグラスを打ちつけた。軽い音が、店内に響いた。

 二人は、グラスを一気にあおった。あっという間に空にすると、思わず溜息が出てしまう。

 山口は、江戸川の空になったグラスに、再びビールを注いだ。注ぎながら言う。

 「…そういえば、江戸川とこうやって二人で飲むのは、初めてかな。」

 江戸川が、少し考えて言う。

 「…そうかもしれません。歓迎会以来、ですかね。」

 そう言って、江戸川は礼を言ってグラスに口を付けた。一口飲んで、山口のグラスが空なのに気づいて、慌てて注いだ。山口が微笑んで、礼を言う。一口飲む。

 「まぁ、このチームになってからだからな。お前と一緒に仕事をするのは。」 

 「…はい。」

 山口が言って、江戸川が肯定する。

 江戸川は、少し考えていた。実は、山口とは、こうして面と向かって話したことがあまり無かった。

 去年まで部署が別だったし、江戸川が異動になったのは、ごく最近だったからだ。

 少しだけ、無言の時間が二人の間に流れた。

 江戸川が、少しだけ気まずくなって、何か話題を振ろうと、考えていた途中、蕎麦が運ばれてきた。

 「お待ちどう様です。」

 店員が二人の目の前に蕎麦を置く。

 江戸川には、野菜かき揚げの温蕎麦を、山口には、大きな油揚げが乗ったきつね温蕎麦を、それぞれ置いた。

 「うん、美味そうだ。」

 山口は湯気立つ蕎麦を見てそう言うと、自分の側にある箸置きから割り箸を二膳、手に取った。一つは江戸川に渡した。江戸川が礼を言って受け取る。

 「いただきます。」

 「いただきます。」

 二人は蕎麦を食べ始めた。息を吹きかけ少し冷ました後、山口が蕎麦を啜る。一口啜ったのを見た後、江戸川も自分の蕎麦を一口啜った。咀嚼し、飲み込む。丼を両手で持ち、汁を啜る。二人は息を吐いた。

 「…江戸川、お前今日他の連中と飲みに行く予定だったろう。」

 「!…えっと…、知っていたんですか。」

 蕎麦を食べながら、山口が言って、その言葉に江戸川が少し驚いた。

 「あぁ、お前らが喫煙所で話していたのを訊いていたからな。」

 そう言って山口はもう一口食べる。江戸川もつられて蕎麦を啜る。

 「さっき仕事してる時のお前の表情、すごく不機嫌そうだったぞ。」

 山口がそう言うと、江戸川が思わず咳き込んだ。慌てて水を飲む。

 「…いえ、それは、あの…すみません、仕事なんですから、仕方ないのはわかったいます。すみません…。」

 江戸川が慌てて謝罪をした。江戸川は、まさか自分がそんな表情になっていたとはつゆ知らなかった。無意識とは恐ろしいな、とも思った。

 山口は突然顔を赤くして慌てた江戸川の様子を見て、笑って言う。

 「いやいや、不機嫌になるのは当たり前だ。…いくら先方の頼みとはいえ、楽しみにしてたんだから。辛いよな。先方の要求を上手く断れなかった私が悪かったんだ。すまなかったな。」

 逆に山口に謝られて、江戸川が少し、面を食らってしまった。

 「いえでも、予定とは言っても、所詮は飲みに行くだけですから。」

 江戸川が慌てて言う。山口は、その言葉に、首を横に振った。

 「いやいや、仕事の後の余暇は大事だよ。残業は、私もなるべくさせたくないしな。」

 山口が申し訳なさそうに言って、自分のグラスを一気に飲み干した。自分で自分のグラスに注ごうとして、瓶に殆どビールが残っていないことに気づいた。店員を呼びつけ、代金をちょうど渡して、もう一本注文した。

 すぐに運ばれてきたビールを受け取ると、そのまま自分のグラスに注ぐ。そして、少し残っている江戸川のグラスにも手早く注いた。

 「あ、すみません。」

 「飲んでくれ。まあ明日も仕事あるし、程々に、だけどな。…今日は本当助かったよ、ありがとう。」

 山口はニッと笑った。

 江戸川は、山口の言葉を訊いて、前の部署の上司の言葉を思い出していた。


 (お前、予定って、飲みに行くだけか?全く、まだ仕事は残っているのに、いいご身分だな。)


 江戸川は、フッと笑った。そして、自分の蕎麦の残りを一気に食べすすめた。蕎麦を音を立てて勢いよく啜る。汁を全て飲み干す。

 山口は半分食べた蕎麦に、備え付けの七味をかけて、食べた。

 二人がほぼ同時に食べ終えた。

 「…ごちそうさまでした。美味かった…僕、ここ来たことなかったので。」

 江戸川は満足した表情で、山口に頭を下げて、お礼を言った。

 「そうだろ、お気に入りでな、よく来るんだ。」

 山口が笑顔で言う。


 

 二人は、店を出た後駅に向かった。改札を通って、他の客に紛れて乗り場まで歩く。

 山口が足を止めて、江戸川も足を止めた。山口が「2番線」と書かれた方を指して言う。

 「じゃあ、俺はこっちだから。」

 「はい、僕は4番なので。これで失礼します。今日はご馳走様でした。ありがとうございました。」

 江戸川が会釈をする。山口が手を振ると、振り返って乗り場の方へ向かった。すぐに足を止めて、江戸川の方を再び向いた。

 「そうだ、今度よかったら、江戸川のオススメの店、教えてくれ。焼き鳥が美味いとこがいいな。それじゃ。」

 そう言って、再び改札の方に歩いて行った。人混みに紛れて、あっという間に見えなくなってしまった。

 江戸川は山口が見えなくなるまでその背中を見送った。見えなくなると、自分も、自分の乗り場の方に向った。

 明日の会議は10時からだ。江戸川は、電車の中で揺られながら、今まで自分が行った店をスマホで調べ始めた。 

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