わなをはる
「いるのはわかってんだ! さっさと開けやがれ!」
海の男らしい力の籠った胴間声が扉を叩く音と共に響く。ヴェラにとっては非常に馴染みのある声。マレゴワール海運の水夫頭であるヴァンサンだ。
「誰か来るだろうとは思ってましたが、えらく騒がしい人が来ましたね」
驚いた様子もなくノエルが呟く。ヴァンサンのドラ声は海上で水夫たちに指示を出す際、潮風に負けないように鍛えられたものだ。初めて聞いた水夫はだいたい萎縮するのだが、ノエルは平気らしい。
「まあ誰が来てもお帰りいただくだけです。しばらくうるさいかも知れませんが、ここで休んでいてくださいね」
ノエルはそう言い残すと、ヴァンサンの声が聞こえる方向にある扉から出て行き鍵を閉めた。あちらが出入り口のある部屋なのだろう。
ヴェラとしてはできればヴァンサンに自分はここにいると知らせたかったが、如何せんヴァンサンの大声が頭に響いて辛い。それに体もまだ動かないし声も思うように出ない。おまけに未だに毛布の中は全裸のままだ。種族が違うとはいえ男性の前に出られる格好ではない。
どうしたものかと悩んでいる間に、扉の向こうではヴァンサンとノエルのやり取りが始まっていた。ここの壁は薄いらしく、ヴァンサンだけでなくノエルの声も問題なく聞こえる。
「どちら様ですか。お約束は無かったと思いますが」
「俺ぁマレゴワール海運のヴァンサンってモンだ! ヴェラを返してもらいに来た!」
壁越しに聞こえるのは間違いなくヴァンサンの声だ。それに足音からすると他にも何人か来ているらしい。ヴァンサンは部下の水夫たち全員をよく仕事外でも連れ回していたので、今も全員引き連れているのかも知れない。だとすると来たのはヴァンサンを含めて8人になるはずだ。
「彼女はもうマレゴワール海運を退職してます。ご存知でしょう?」
「あんな紙切れ一枚で俺たちの仲間を連れて行かれて黙ってられるかよ! いいからヴェラを出せ!」
「帝国法に則って作成した、本人の署名もある正式な退職届を紙切れと言われましても。それに委任状もお見せしたはずです。その件については私が対応します」
そういえば退職届の他に委任状にもサインしたという話になっていた。ということは今ノエルはヴェラの代理人ということになる。
ただ、代理人ではあっても代弁者ではない。ノエルはヴェラの望みを叶えてくれるわけではないのだ。このままヴァンサンが追い返されてしまえば、ヴェラはどんな仕事をさせられるかわからない。
ヴェラは内心で必死にヴァンサンを応援した。ヴァンサンの大声による頭痛に何度も顔をしかめながら。
「うるせぇ! 若造が出しゃばってんじゃねぇよ! てめぇじゃ話にならねぇ! ヴェラを出せねぇってんならここの責任者を出せ!」
どうやらヴァンサンはノエルを男性だと思ったらしい。まあ、ヴェラとしてはありがたくないが、男性である可能性は確かに残っている。全裸を見られた上に身体の隅々まで拭かれているので、ぜひとも女性であって欲しいところだが。
「ここの責任者は私です。そしてこちらに話はありません。お引き取りください」
「んだと!? フカシこいてんじゃねぇぞ! てめぇみてぇな若造が代表だってのか!」
「はい。私がこのバラデュール商会の代表であるノエル=バラデュールです」
ノエルが代表ということは、彼女がヴェラの雇い主になるということか。昨夜は善人そうに見えたが、酔った自分に署名させた件や得体の知れない薬を飲ませた件で、もはやノエルは信用できない。彼女に雇われるのはなんとか避けたいところだ。
「てめぇ何の権利があってヴェラを連れて行きやがったんだ! 事と次第によっちゃただじゃ済まさねぇぞ!」
「むしろ貴方こそ何の権利があって彼女の進退に口を出しているんですか。彼女は自分の意思でマレゴワール海運を辞めたんですよ」
「嘘つけ! てめぇが何か細工しやがったんだろうが! ヴェラが俺たちに黙って辞めるわけがねぇんだ!」
ヴェラは内心で大きく頷いた。ハーフリングらしい刹那的な生き方をしていた子どもの頃ならともかく、船長やヴァンサンの教育を受けたヴェラは、欠いてはならない義理や人情の大切さを学んでいる。仮に辞めるにしても、人任せにするようなことはしない。
「ならあの書類はどう説明するんですか? 間違いなく本人の署名が入ってますよ」
「んなこと知るか! 俺たちゃ家族も同然なんだ! ヴェラが家族を捨てて出ていくわけがねぇだろうが!」
「あなたが本当に彼女の家族であったとしても、それで契約が無くなったりはしません。そして貴方は我が商会にとって全くの部外者です。お引き取りください」
どこまでも冷静なノエルの態度に、ヴァンサンはかなり苛立っているようだ。元々大きな声がさらに大きくなっていく。そしてヴェラの頭痛を加速させていく。ありがたいはずなのに感謝できない。
「てめぇには人の情ってモンがねぇのか!」
「情より契約です。それに彼女がいなくてもそちらの業務に支障はないでしょう? 彼女は見習いに過ぎないのですから」
ノエルの指摘はヴァンサンの痛いところを突いたのか、ヴァンサンの声がわずかに勢いを落とす。とはいえまだまだかなりの大声だが。
「だ、だからこそ一人前になれるように鍛えてやってんじゃねぇか! 途中で放り出すような真似ができっかよ!」
「それはそちらの事情です。うちには一切関係がありません」
「うっせぇ! それがうちのやり方だ! てめぇこそ部外者が口出しすんじゃねぇ!」
なんとか言い返しているものの、ヴァンサンの理屈にはもはや筋が通っていない。そしてノエルは勢いだけで押し切れる相手ではないようだ。
「今は貴方こそが部外者なのですよ。全く話になりませんね。いい加減にお引き取りいただかないと、衛視を呼びますよ」
「屁理屈ばっかりこねやがって! 呼べるもんなら呼んでみやがれ! ただし、そうすると痛い目見ることになるがなぁ!?」
痺れを切らしたのか、ヴァンサンがとんでもないことを言い始めた。ここまでのやり取りはなんとか話し合いの範囲だが、今の言葉は間違いなく脅迫だ。ヴェラを取り戻すためとはいえ、それは後々まずい。
「おや、衛視を呼んだら痛い目を見させられるのですか? マレゴワール海運のやり方はずいぶんと野蛮なんですね。実は犯罪結社なんじゃないですか?」
「んだとてめぇ! 言いやがったな! おい! お前ら! この若造に社会の厳しさってモンを教えてやれ! まずはこの部屋を滅茶苦茶にしろ!」
「い、いいんですか兄貴? 後で衛視隊にたれこまれて厄介なことになるんじゃぁねぇですか?」
ヴァンサンの子分の一人が、怖気づいた声を出す。臆病な男なのだろう、衛視に捕まるようなことをする勇気はないらしい。
「へっ! 衛視ごときにビビってんじゃねぇ! うちの大将は交易ギルドに顔が利くんだ! 後で何とでも言い抜けできらぁ! いいからてめぇらは言われたとおりにやりゃいいんだよ!」
「へ、へい! 兄貴!」
ヴァンサンの号令一下、隣室からけたたましい音が響く。どうやら部屋にあった家具を壊したりひっくり返しているようだ。
「若造が粋がるからこうなるんだ! ちったぁ海の男の怖さがわかったか!」
「貴方が海の男の代表を名乗るんですか? そんな大物には見えませんけどね」
「てめぇ、ぶっ殺す!」
隣室の騒ぎでヴァンサン行動は把握しにくいが、どうやらノエルに向かって何かしたようだ。ヴェラとしては早くノエルに降参してもらいたかった。訳のわからないまま仕事を変えるのは嫌だが、ヴァンサンがこれ以上罪を重ねるのも嫌だ。
だが、隣室の騒ぎはヴェラの想像を超えた方向へと展開していった。
「全員、動くな!」
ヴァンサンの声に負けず劣らずの大音声と共に衛視の制服を着た男たちが室内に飛び込んできた。その数はノエルから見えるだけで三人。だが、ヴァンサンたちの逃亡を阻止するために他にも来ているはずだ。
「な、なんで衛視がこんなに早く来るんだよ!? いくらなんでもおかしいじゃねぇか!」
ヴァンサンがノエルの胸倉を掴んだまま叫ぶ。その疑問に答えたのは衛視の中の一人だった。
「そりゃあ貴様らが来る前から隣の部屋で待機してたからな。ここは詰め所から遠いわけでもないし、応援を呼ぶのだってすぐだ」
「待機って、なんで衛視がそんなことしてんだよ! おかしいだろうが!」
「貴様に説明する義理はないが、特別に教えてやろう。貴様が掴みかかっているノエル殿に要請されたのだ。半日だけ隣の部屋で待機していて欲しいとな。結果は見ての通りだ」
「そんな馬鹿な! 俺たちが今日来るかどうかなんて、前もってわかるわけがねぇ!」
慌てて掴んだ手を放すヴァンサンに向けて、今度はノエルが疑問に答えた。
「マレゴワール海運の船は明日の早朝に出航予定なんでしょう? なら彼女を連れて行こうとすると今日しかないじゃないですか。少し考えればわかりますよ」
「あ……」
「彼女が本当に見習いなら、一人欠けたくらいで運航に問題なんか発生するはずがありません。その場合は慌てて取り戻す必要がないので、今日来るかどうかは不確定でした。けれどマレゴワール海運の場合はそうはいかないですよね? 彼女がいないと期日に間に合わない可能性があるんですから。今日必ず来ると思ってましたよ」
「え……」
「交易ギルドの記録をきちんと調べれば、彼女の本当の能力が読み取れました。彼女を雇って少ししてから、マレゴワール海運の業績が明らかに向上しています。風向きや悪天候の予測が的確で、最短日程での航海を何度も成功させていますね。優秀な航海士でなければこうはなりません。見習いだなんてとんでもない」
「いや、それはその……」
「貴方たちは彼女を家族として扱っていると言いながら、実際はその能力に寄生して搾取していた。あれだけの能力を持った航海士を、見習いの給料でこき使ってたんです。さぞや儲かったでしょう。そりゃあ逃がさないように必死になりますよね」
「ちが……」
「それでも可能であれば平和的に話し合いで解決したかったんですがね。こうなったからには話し合いの余地はありません。衛視の皆さんに連れて行ってもらいます」
「い、いや、俺たちはただ……」
先ほどまでの勢いはどこに行ったのか、狼狽えた様子でヴァンサンが弁解しようとする。周囲の水夫たちに至ってはどうしていいのかわからず右往左往するだけだ。
そんなマレゴワール海運の男たちに、先ほどの衛視が追い打ちをかける。
「貴様らは正式な手続きを経て退職した従業員を連れ去るために、新しい勤め先に乗り込んで乱暴狼藉を働いたわけだ。全部隣の部屋でしっかり聞かせてもらったよ。無駄にデカい声だったしな」
「あ、その、それは誤解で……」
「どうした? たかが衛視相手にビビってるのか? お前たちの雇い主は交易ギルドに顔が効いて、何とでも言い抜けできるんじゃなかったのか? 海の男の怖さとやらを是非見せてもらいたいのだがな?」
実際のところ、交易ギルドに多少顔が効いたからといって、衛視の目こぼしを得られるというわけではない。衛視隊と交易ギルドは全く別の組織だし、マレゴワール海運は別に背景に貴族が付いているわけでもない。ヴァンサンが言うほどの便宜を図ってくることなどあり得ないのだ。
「え、いやそんな、そんな意味で言ったわけじゃ……」
衛視の嫌味に反論もできず、どんどん萎縮していくヴァンサン。威勢のいい海の男といっても、所詮は経験を積んだ水夫に過ぎない。操船においては玄人でも、対人戦闘は力任せの素人なのだ。この状況をどうにかできる能力などヴァンサンにはない。
「一つ教えておいてやる。衛視というのは舐められると仕事が増えてしまう職業でな。特に貴様のような見るからに頭の悪い男に、口先で簡単に言いくるめられるなどと勘違いされると仕事が増えすぎて困るのだよ」
ヴァンサンの背中に冷たい汗が流れる。これは非常にまずい。暴行の現場を現行犯で押さえられた上に、衛視の心証をかなり損ねている。どう考えても穏便に済むはずがない。
「というわけで、貴様らがこの場で言い逃れる方法は存在しない。一応話は詰め所で聞かせてもらうが、我々が貴様らの見苦しい言い逃れを親切丁寧に聞いてやるとは思ってないよな? 貴様らには衛視の怖さというものをきちっと学んでもらおうじゃないか」
もはや下手な言い訳すらできない状況だ。こうなったらヴァンサンのお粗末な頭でできることなど何もない。
結局ヴァンサンと七人の水夫たちは、抵抗する気力もなく呆然としたまま衛視たちに連行されていった。
同じく呆然としたままのヴェラを置いて。
続きが気になる方、面白いと思われた方はぜひ登録と評価をお願いいたします。