かどわかす
新連載を開始しました。
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帝国最大の港街マーセーユの郊外。
平民の住む住宅街と貧民窟を曖昧に隔てる境界線付近に、一軒の酒場があった。
酒場と言っても外観はせいぜいが大きめの掘っ立て小屋で、店と言っていいのかどうかも微妙な建物だ。持ち主も店を名乗る気がないのか、この酒場には名前もない。客にはただ「酒場」とだけ呼ばれている。
この酒場で提供されるのはたった一種類の得体の知れない酒と、つまみ代わりの塩だけ。酒は安くて強い以外に何の取り得もないもので、一口目が不味く、のど越しも不味く、後味もまた不味く、悪酔いしやすく、二日酔いしやすいという、これで金を取っていいのかと言いたくなる代物だ。
当然こんな酒をわざわざ呑む者が裕福なわけもなく、酒場の客層は底辺としか言いようがない。金を稼げず、今後も稼げなさそうな者こそがこの店の常連なのだ。
そのためこの酒場には破落戸やチンピラの類すらいない。彼らは他人に寄生したり暴力で奪ったりすることで稼ぐ能力がある。そうやって稼いだ金があるならわざわざこんな酒に手を出しはしない。
この酒場にいるのはこんな酒しか手にできない負け犬やごく潰しであり、人生の落伍者ともうすぐ落伍者になる者しかいないのだ。
マーセーユの街において最も安く、最も格が低く、最も活気のない酒場。それがこの名も無い酒場だった。
そんなどん詰まりの酒場の一角で、今日も一人の落伍者候補がぶつぶつと独り言を呟いている。
「ウチはまだ大丈夫。まだ大丈夫。この一杯があれば明日もまだ大丈夫」
ちっとも大丈夫ではない形相をしながら自分に言い聞かせているのは、薄汚れて疲れ切ったハーフリングの女だった。
掠れて聞き取りづらい声。虚ろで光を反射しない碧の瞳。肩にかかる緑の髪は潮風に晒されてボサボサ。最後に手入れをしたのはいったいどれほど前なのか。
10歳程度の人間の子どものような見た目だが、手足は痩せ細り頬がこけ健康状態がまともでないのは一目でわかる。肌の艶にいたってはむしろ老人のようだ。
マーセーユで最も安い酒をちびちび舐めながら、何かを自分に言い聞かせるハーフリング。あまりにもしみったれていて、景気づけにも憩いにもなっていない。
「ウチはまだまだ未熟なんや、だから給料が安いのは我慢せなアカン。こんなウチを使てくれる船長の恩に報いるためにも、弱音なんか吐いとったらアカンのや。だから休みがないくらいなんでもないんや」
この酒場にいるのは仕事に就けずに人生が行き詰った者か、仕事があっても稼ぎが少なすぎる者だ。このハーフリングはどうやら後者らしい。
かなり過酷な職場に雇われているのは間違いないだろう。休みなく働いているのにこの酒場でしか呑めないということは、恐ろしく給料が安い証拠である。
帝国に奴隷制度はないが、奴隷のような過酷な環境で働く者が全くいないわけでもない。このハーフリングはそういう環境に身を置いているようだ。
「借金さえ無くなればもうちょっと楽になるんやし、ここが踏ん張りどころや。それに気ぃ抜いて失敗でもしたらまた借金が増えてまう」
ハーフリングの呟きを聞いた周囲の客がそっと目を伏せる。まるで冥福を祈るように。彼らの目にはハーフリングの顔に浮かんだ死相が見えたのかも知れない。
この酒場には能力が無く働いたことのない者もいるが、能力が低くて条件の悪い仕事にしか就けなかった者も多い。そういった者たちはハーフリングの未来が明るくないことを察したのだ。今の環境にいる限り、このハーフリングは苦しみ続けていずれ擦り切れると。
だが察したからといって、周囲にいる者たちが何かをするわけではない。彼らにはハーフリングを助ける能力も義理もないのだ。このままいけばこのハーフリングはそのうち酒場に来なくなり、もう少し経てば常連たちの記憶からも消える。それだけの話だ。
それだけの話になる、はずだった。
「あなたも頑張ってるんですねぇ」
ハーフリングの背後から、疲れて気の抜けたような声が流れてきた。男にしては高く、女にしては低い声だ。
振り向くと、フードを被った者が立っていた。種族も性別もわからない怪しげな風体だが、この店では別に珍しくない。色んな理由で人目を避ける者が多いからだ。
フードの人物は手にしたコップを軽く揺らしながら、やはり気の抜けたような力のない声で続けた。
「いや、自分と似たような人がいるなと思って、つい声をかけちゃいました。おどかしちゃいましたか」
この酒場では他の客と交流を積極的に持とうとする者は少ない。だが皆無というわけでもない。いかに最低の酒であっても酒精はかなり強いのだ。酔っぱらえば警戒心が薄れることもある。
「ああ、いや、気にせんといて」
ハーフリングは元々社交的な性格なのだろう。気さくに答えて流そうとした。
「良かったらもうちょっと聞かせて貰えませんか。仲間がいるような気になって嬉しくなっちゃったんですよ」
フードの人物はゆっくりと近づき、ハーフリングの向かいに腰掛ける。ハーフリングは少し警戒した様子だったが、次の一言で態度を軟化させた。
「一杯奢りますんで。一杯だけですけど」
「ええのん? ほな遠慮なく」
元々ハーフリングは深く考えない者が多い。このハーフリングもその例に漏れないのだろう。目がキラリと光り、満面の笑みを浮かべると、チビチビやっていた自分の酒を一息に呷って追加を注文した。
「ウチはヴェロニク。ヴェラって呼んでな」
ハーフリングのヴェラが軽い調子で名乗る。見た目は10歳程度の人間のようだが、ハーフリングの場合は成人していてもずっとこの外見だ。ヴェラの外見なら年齢は10歳から150歳程度まであり得る。一応成人しているようなので、15歳未満ということはないだろうが。
疲れがにじみ出ているものの、元々ハーフリングらしく明るく社交的な性格なのだろう。見ず知らずの他人相手なのにすぐに打ち解けて話している。まあ酒を奢ってもらったというのが大きいのかもしれないが。
「これはどうも。ノエルといいます」
ヴェラの名乗りに応えて、フードの人物ノエルが名乗りながらフードを外す。出てきたのは薄汚れた人間だった。艶のないパサついた黒髪を背中まで伸ばしており、目元が隠れていて瞳の色はわからない。
顔立ちも髪に隠れて特徴が掴みにくく、女性にも男性にも見える。ノエルという名も男女どちらでもあり得るため、フードを取ったのにあいかわらず性別不明だ。ただ全体的にくたびれたような印象があり、年齢は若くとも30歳前後に見える。
表情は「ヘラヘラ」と「のらりくらり」が絶妙な配合で混ざっている。まとう雰囲気は人畜無害そうだが、どこか胡散臭い。それがノエルという人物だった。
二人はお互いのコップを軽くぶつけると、やはりチビチビと吞み始める。どうにも景気がよくないが、この酒場ではこれが普通だ。
「けどウチの話が聞きたいとか、ノエルも物好きやな」
「そうですね。今日はそんな気分なんですよ」
ヴェラの軽口に対し、曖昧に答えるノエル。やっていることが不自然なせいで何か企んでいるように見えなくもない。しかしヴェラは気にした様子がない。意外と世間知らずなのか、それとも危機感がないのか。
「ほな何から話そうかいな」
「じゃあ今日は何をしたのか教えてください」
そこからおよそ1時間、ヴェラは己の境遇について調子よく語り続けた。とある海運を主とした商会に雇われて、普段どのような仕事をしているのか。どういった困難や苦労をしているのかといった話が中心だ。
ヴェラの労働内容はかなり過酷だった。ハーフリングは風の加護があり、風向きや天候を予想できる者が多い。ヴェラはその能力を活用して航海士の見習いをしているのだが、人手不足のために業務量がだいぶ増えてしまっていた。なお一時的なものということで給料は見習いのままだ。
その上期日に間に合わなかった仕事の責任を取ることになり、発生した違約金を借金として被ったことが何度かある。
そのようなわけでヴェラは商会に借金があり、毎月の少ない給料から返済を続けていた。これを完済するまでは辞めるわけにはいかない。
また船長や上役から厳しく指導を受けており、ハーフリングとは思えないくらい勤勉だった。必要とあれば休日を返上して働くほどに。
「そやからウチは一人前になっても船長に恩返しをせなアカンのや。まらまら先の長い話やけろな」
「それは立派ですねぇ。なかなかいませんよそんなに頑張ってる人」
「へへ、ウチなんら大したろとあらへん」
既にヴェラの語る内容はあちこちに跳びながら何度も繰り返しており、呂律も怪しくなり始めている。手にしている酒は4杯目だ。この店の酒ならかなり酔いが回った頃だろう。
そんなヴェラに対して、ノエルは根気よく聞き役に徹し、時には適切な相槌も打っていた。共に酒を呑む相手としては非常に気持ちのいい人物だ。
ただしノエルの手にあるコップの中身があまり減っておらず、酔った様子もないことが不穏な未来を暗示している。
周囲の客の中にはその不自然さに気付いた者もいたが、だからといってヴェラに忠告したりはしない。例えこのままヴェラが酔い潰されて、数日後には借金を背負わされて色町で客を取らされるようなことになっていたとしても、全て他人事だ。それに今の境遇よりそのほうがマシな可能性もある。
なにより当事者であるヴェラはすっかりご機嫌な様子だ。忠告しても耳に入るかどうかすら怪しい。いや、たぶん手遅れだろう。
「いやぁ、すっかりろちそうになってもた。あしらも早いしそろそろおいとまするわ」
ヴェラがおぼつかない足取りで席を立つと、ノエルもそれに合わせて立ち上がった。
「なら途中まで一緒に行きましょう。帰る方向も同じなんで」
そう言うとノエルは店主に数枚の銅貨を支払い、ヴェラを支えるようにして店を出る。やはり酔った様子は全くなく、ヴェラを誘導しながら雑踏の中へ消えていく。
二人の背中を見送りながら、店主と周囲の客は思った。ヴェラはきっともうこの店には来ないだろうと。行き先がどこかはわからないが、あのノエルと名乗った人物に連れて行かれてしまうのだろうと。
彼らの予想どおり、ヴェラが酒場に姿を見せたのは、その日が最後だった。
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