5話 お菓子を食べてくださいませ
ティファニーの起こしてしまったクッキー黒炭事件のせいで、料理人たちは煙を追い出すために窓を開けていた。
その時低い声が辺りに広がる。
「何だこの匂いは。」
瞬間ピシリと走る緊張感。
料理人達にしては運悪くこの屋敷の主人が通りがかる瞬間に起こしてしまったハプニングであった。
美醜に厳しいこの世界ではメイド達ほど露骨に恐れる訳ではないが料理人からもダーリックの風貌は恐怖、または嫌悪の対象とされている。
しかしそんな事も関係なくティファニーは颯爽と嬉しそうに声を弾ませ駆け寄った。
「旦那様っ今クッキーを焼きましたの。是非食べてくださいませ!」
1番美味しいと言われる出来立てに来るなんて運命としか考えられない、それに食べてくれれば口元くらいは見られるかもしれない。
固まる料理人達とは正反対に走り寄り、手の内にあるお皿を持ち上げる。
持ち上げられた皿の中身を確認するように顔を向けると、わかりやすく動きが固まった。
「クッ…キー……?」
自分の知っているクッキーとはだいぶ違う……どちらかと言うと炭に近いソレは白い皿の中で黒く確かな存在感を放つ。
「さぁ、お1つどうぞ。」
動き出さないダーリックに対してティファニーは華奢な指で1つ自称クッキーを摘み仮面の口元であるだろう場所へと向ける。
「腹が空いてないのでな。」
顔を背け、向けられた黒い物体を手で静止し拒否の意思を示す。
「そうおっしゃらずに。旦那様はお食事を召してから時間が経ってるはずですもの。」
遅く起きてしまったティファニーとは違い、きっと早く起きて食事は済ませたのであろう。
食事の後のちょっとした小腹を満たすのに軽いお菓子は丁度いい。
「結構だ。」
「初めて作りましたの、お一つだけでも食べてくださいませ。」
絶対に譲らないという強い意思を込め指先を仮面に近付ける。
このままいくと仮面に擦り付け出すのも辞さない勢いだ。
「わかった、わかったから…」
観念した様に仮面をずらすともう片方の手でクッキーを受け取ろうとする。
しかしそれよりも早くティファニーはずらされた仮面の奥から覗く唇へとクッキーを押し当てる。
予想外の行動に固まるダーリックだが押された唇は咄嗟に開きクッキーを受け入れ、摘んだ指ごと押し入れられる。
これが毒殺の手段なら間違いなく大成功だろう。
「どうでしょうか?」
ガリっというクッキーにしては硬い音が1度響く。
「………………香ばしいな。」
どこまでも楽しげなティファニーに対し、苦々しく述べる。
「わたくしも一ついただきます。これがクッキーなのですね!ふふふっ」
摘んで食べさせた時につい触れてしまった柔らかい、きっと唇に当たったのだろう感触を思い出す。
ヴェールで顔が隠れているのをいい事にクッキーを口内に入れついでに関節キスとばかりにペロリと舐める。
自分の唇を触ると彼の方がふっくらしている感じがして、そんな違いも愛おしい。
ドキドキと高鳴る胸に圧倒されて、クッキーの味は良くわからなかった。
「近いうちにちゃんとしたクッキーを食べさせよう。」
その言葉を聞いた瞬間焦げたクッキーを堪能していたティファニーがぴくりと大きく反応する。
「では……わたくしまだここに居て良いのですね!」
「………そうなってしまうな。」
自分の発言で滞在を許可してしまった事に後悔するように数秒溜めて答える。
「嬉しい!」
ぴょんと飛び跳ね喜ぶと、緩く波打つ薄い金色の髪とドレスの裾が舞う。
「ティファニー嬢は何故」
「わたくしの事は是非ティフとお呼びくださいませ。」
ティファニー嬢なんて他人行儀な、婚約者なのである。
歩み寄られた後なのだ、今ならちょっとくらいお願いしても良いだろう。
「そうではなくティファニー嬢は」
「ティフとお呼びくださいっ」
「わかった、ティフと呼ぼう。」
諦め悪くいつか呼んでくれる人が現れるかもしれないと考えていた愛称で呼ぶ事を催促すると、天にも昇る気持ちになる。
この瞬間ティファニーの中でダーリックは素敵な見た目の人でありながらお願いすると渋々ながらも聞いてくれる見た目も素敵な人になった。
「ティフ…は部屋に戻っていなさい。」
「はぁい。旦那様はこれからどこへ行かれますか?良ければ途中までご一緒したいですの。」
滞在を許可されてクッキーを作っただけなのに予想外の収穫量にヴェールの下ではニッコニコだ。
「仕方ない、部屋まで送っていこう。」
しぶしぶというように悩んだ素振りを見せた後に先を歩き出すすっと伸びた背筋。
程よく引き締まった後ろ姿まで素敵でつい見惚れてしまう。
「あっ、お待ちくださいっ。」
置いてかれ思わず駆け寄ると、気付いたようにダーリックはその場で止まりそっと手を差し出した。
その手を握って良いのかと首を傾げると1つの憧れに結びついた。
男性が女性の手を取り行う行動、エスコート。
思案しているうちに手が戻されそうになり、思わずクッキーのお皿を持っていない方の手で掴む。
ティファニーとは全く違う少しひんやりとした大きな手。
促されるままに今度は歩幅を合わせて歩き出された。
無言のまま歩き始めてしまったが何か話しかけた方がいいのだろうか。
そっと斜め前を歩くダーリックの顔を伺い見るが仮面の奥の表情は読み取れない。
そのまま歩き出したという事は握って良かったのだろう、間違った行動を取ってはいないはずだと胸を撫で下ろす。
部屋までの道中はもっとこの手を感じたくて握りたい衝動と、いきなりそんな事をしたら驚かせて繋いだ手を離されるかもしれない可能性を考えるのに夢中で話しかける事が出来なかった。
屋敷の中を移動するだけの時間はあっという間に過ぎて部屋の前。
初めはひんやりと感じた手は温もりを分かち合い同じ温度へ。
繋がった手を離さなければいけないのが残念で、一度だけぎゅっと力を込めると手を離す。
「送ってくださりありがとうございました。良ければクッキーは旦那様が召し上がってくださいませ。夕食の席でご一緒出来るのを楽しみにしていますの。では失礼致します。」
真っ黒なクッキーの入ったお皿を渡そうと差し出すが受け取らなかった為に手を取り強引に押し付けた。
部屋に戻りベッドに座り込むと繋いでいた手を勢い良く自分の顔に押し当てる。
ぺちんといい音が鳴るが気にしてはいられない。
唇に触れて、手まで触ってしまった。
自分の手をそっと唇に寄せキスをする。
すんと鼻を寄せると焦げ臭いような気もするが、それすらも今のティファニーには一種の香水のようで極上の高揚感を感じさせた。
にやにやと惚けながら身体を横に倒すとふわりと髪が広がる、髪に痕がついてしまおうが元から緩くウェーブがかっているので気にしない。
きっと今の自分はとても、非常に、すっごくはしたない顔をしているのだろう。
そうは思いながらも浮かぶ笑みと染まる頬は止める事が出来ない。
それからしばらく時間は経ち、ノックの音と共に夕食の時間を告げられた。
お読みいただきありがとうございました。