のっぺらぼう(もうひとつの昔話 33)
吉兵衛という独り者の男がおりました。
この夜。
吉兵衛は堀川端にある一軒の蕎麦屋に向かっていました。その蕎麦屋の女将に惚れこみ、口説き落とすために通っていたのです。
ですが、なかなかうんと言ってくれません。
――今夜こそは……。
この女将。
美人ではないが気立てがよく、吉兵衛はぜひ自分の女房にと考えていました。
堀川に沿って淋しい夜道を急いでいますと、若い女が柳の木の下にしゃがみこんでいました。
歳の頃は十七、八。裕福な家の娘なのか、文金島田の振袖姿です。
――おやっ?
女は泣いていました。
堀へ向かって手を合わせているところからして、これはどうみても身投げです。
「これ、早まるでない。どういうわけか話してごらんなさい」
吉兵衛は背後から帯をつかみました。
「おじさん、こんな顔でも話を聞いてくれる?」
女が振り向きます。
「ぎゃっ!」
吉兵衛は帯をはなすと、その場でひっくり返ってしまいました。
女には目も口も鼻もありません。顔がのっぺらぼうだったのです。
「ねえ、これも見て」
女は尻もちをついている吉兵衛の前に立ち、着物の裾をつかんで前を大きく開いて見せました。
「わっ!」
喜兵衛は提灯を放り投げ、一目散にその場から逃げ出したのでした。
無我夢中で走っているうち、女将の蕎麦屋の灯りが見えたので、吉兵衛は急いでかけこみました。
女将が笑顔で出迎えてくれます。
「あら、吉兵衛さん。そんなにあわてて、いったいどうされたんですか?」
「で、で、出たんだよ」
「おや、なにが出たんでしょう?」
「の、のっぺらぼうだよ」
「のっぺらぼう?」
「ああ、文金島田、振袖姿のな。で、そいつの顔には目も口も鼻もなかったんだ」
「まあ!」
「それも野郎だった」
「あらっ、振袖姿なら女では?」
「いや、あいつは男だった」
「でもね、のっぺらぼうだったら、その人が男か女かわからないんじゃ?」
「野郎、着物の裾をつかんで開いて見せたんだ。それもオレの目の前で」
「見せたって?」
「あ、あれだよ。だから、あれ、あれだよ」
惚れた女将を前にして、吉兵衛の口調がしどろもどろになります。
「それって、もしかしてこんなものでした?」
女将がいきなり着物の裾をつかみ、それから前を大きく開いて見せました。
「吉兵衛さん、こんなわたしでも女房にしてくれます?」
「ぎゃっ!」
目の前にぶら下がったものを見た吉兵衛、その場でひっくり返って気を失ってしまいました。