01 プロローグ
美しい湖が、その街の自慢だった。湖の傍には石舞台があり、そこに並ぶ石柱の一角に、男が一人、立っている。
男は、慎重かつ丁寧に、これらの柱を磨き上げた。そしてようやく判別できるようになった、柱に刻み込まれた紋様を手でなぞる。
恐らくは文字なのだが、解読を試みても、半分も読めなかった。それでも、無理矢理にでも読んでみようと、指が触れているところを音読してみる。
「――ディア、バシ、ス?」
自信無げな声が零れ落ちた、次の瞬間。
「っ!?」
どん! と突き上げるような揺れが石舞台を襲い、男はバランスを崩して倒れこんだ。
「な、何、っあれは……!?」
尻餅をついた男の目は、石柱の間に釘付けになった。
二本の柱の間から、染みが広がるように、じわりと黒が滲み出てきていた。
「これ、は……」
地揺れはまだ続いていたが、男は、滲む黒から目を逸らさずに這い寄り――その目の前で、黒は渦を巻いて収縮した。
「っ」
思わず息を呑んだ男の目の前で、収縮した黒が、爆発する。
「!?」
男の身体は爆風によって吹き飛ばされた。石舞台を飛び越え、地面に叩きつけられる。
「っぐ……!」
強かに背中を打ちつけ、一瞬、呼吸が止まった。だが、暢気に痛がっている場合ではない。背中の痛みで呼吸が浅くなりながらも身を起こし、石舞台を仰ぎ見る。
「……!」
そこには、黒い翼、長い歯と、鋭く長い爪を持つ、異形のものがいた。
鮮血のように赤い両目に見据えられた瞬間、男の心臓は、鷲掴まれたかのように痛んだ。
呼吸が止まる。目を合わせてはいけないと思うのに、目が逸らせない。逃げたいのに、身体がぴくりとも動かない。
硬直した男に向かって、黒い影は滑るように近づいた。纏う黒を濃くし、その黒を、周囲に振りまきながら。光を塗りつぶす闇が、周囲に満ちる。
爛々と光る赤い両目が、眼前に迫っていた。
「――あなた!」
背後から投げかけられた声は、愛しい妻のもの。何度も制止してくれた、聡明な妻。彼女の言うことを聞いておくべきだったと思っても、もう遅い。既に男は、振り返ることも、声を出すことすらも出来なかった。
目の前で、くぱ、と口が開き、長い歯が、これみよがしに見せ付けられる。
「っお父さん!!」
愛し、慈しんできた娘の声も、どこか遠くから聞こえてくるようで。
――がぷり。
長く鋭い歯が、首筋に深々と突き刺さったのが、男が最後に感じたものであった。
とある山の中、小規模ながらも丁寧に管理された祠の前で、黒髪黒目、均整の取れた引き締まった身体つきの青年が、箒を肩に担いで空を仰いでいた。
「あー。暇だなー」
「おやおや。暇と言うからには、掃除は終わったんだろうね? レヴァン」
誰に聞かせるでもない青年のぼやきを拾ったのは、黒髪、はしばみ色の切れ長の瞳をもつ、知的な顔立ちの青年だった。
レヴァンと呼ばれた青年は、不機嫌に眉を顰めてみせた。
「兄貴。なんだよ、監視に来たのか?」
「いいや。レヴァンがサボっていると思って来たわけではないよ」
大雑把、無頓着と評されることが多い弟であるが、それは柔軟性をもった大らかさであり、芯には生真面目さがあることを、兄であるネストルは知っていた。愚痴は言っても、やるべきことはきっちりやるのがレヴァンだ。
「私は、少し調べたいことがあってきたんだ」
「ふうん、また何か閃いたのか?」
いいながらレヴァンは、掃き掃除を終えたばかりの祠を見遣った。
代々レヴァンたちの家で管理しているこの祠周辺には、魔法陣が彫り込まれている。だが、その魔法陣がどんな効果を持つのかは、わかっていなかった。レヴァンは、とっくに解読を諦めて手入れだけしているが、ネストルのほうは研究調査に熱心で、閃くことがあるたびに、家の書庫をひっくり返しては仮説を検証している。
「そうなんだよ。彫り込まれている文字の一つが、どうも古代文字に似ているように見えてね……ん?」
「ん? 何だ?」
急に言葉を止めて、背後――南のほうを振り返った兄の視線を追ってみたが、レヴァンは何も異変を感じなかった。
「どうした、兄貴?」
「何と言うか……重苦しいものを感じるんだよ。レヴァンは何も感じないのか?」
「重苦しい? いや――」
重苦しい感じはしないが、よくよく目を凝らしてみれば、南の空に黒い筋が見えた。
「あー、なんか、黒いのが見えるな。黒煙っぽいやつ」
「黒煙? ……相変わらず、レヴァンの目の良さは反則的だね」
「兄貴と違って、読書時間が短いからだろうな――っ兄貴、伏せろ!」
伏せろ、といいながらレヴァンは、左手で兄の頭を押し下げ、右手に持っていた箒は、掬い上げるように半回転させた。狙い過たず、飛び掛ってきた鳥を叩き飛ばす。
「おやおや、何故だろうね? 人を襲う種類ではないはずなんだが」
「――兄貴、そいつだけじゃない。囲まれてる」
レヴァンは、鳥を観察するネストルに注意を促した。鳥だけでなく、野兎、野鼠といった、積極的に人間を襲わない動物たちが、敵意むき出しに集まってきていた。
「普段温厚な動物たちが何故……これは、里周辺の見回りが必要だね」
「了解。じゃ、ここはさっさと片付けようぜ」
ネストルの言葉に軽く頷いて、箒を構えたレヴァンは駆け出した。
敵意むき出しとはいえ、普段は大人しい動物たちは、二人の敵ではなかった。標的として小さい野鼠はネストルが風魔法で切り裂き、野兎や鳥は、レヴァンが箒の一振りで昏倒させる。敵の数が多くとも、何の不安もない。半数を地に転がしたあたりで、動物たちは撤退を始めた。
追撃するかどうか問おうと兄に視線を向けたところ、ネストルは、気絶して転がっている動物を摘み上げていた。
追撃はなしと判断したレヴァンは、せっかくなので、今日のおかず用に兎を縛り上げる。
「ん?」
「どうした、兄貴」
「重苦しさが消えた」
「どれ……あー、黒煙も消えてるぜ。なんか関係あったのかな」
「さてさて……だが、気になるね。レヴァン、しばらく里を任せるよ」
「は?」
「南を調べに行く。ついでに、あちこちの遺跡調査もしてこようと思う。特にナーオス関係をね」
「ナーオス……」
ナーオスという単語に聞き覚えはあったものの、何かまでは思い出せず、レヴァンはすっきりしなかった。が、今大事なのはそこではない。
「いや、ずるいぞ兄貴。俺だって里の外に行きたい」
生まれてこの方、レヴァンは里を長く離れたことがない。いつかはと願っていたが、門番という立場がそれを許さないため――レヴァンたちが管理しているのは祠であるのに、「門番」という呼称が定着している――ほぼ諦めていたのだ。なのに兄は、長期の旅に出ようとしている。
「門番が揃って留守にするわけにはいかないのだから、諦めてくれ。適材適所というやつだよ」
「……わかったよ」
レヴァンは溜息つきつつも頷いた。
確かに調査ならネストルのほうが適任だし、今のような動物たちの撃退ならレヴァンのほうが適任だ。
「けどその代わり、兄貴が帰ってきたら、次は俺が外に出るからな」
「ああ、そうしよう」
「よし。じゃあ、まあ、とりあえず里に戻ろうぜ」
今は言質を取ったことで満足することにして、レヴァンは箒と兎をひっさげ、里へと歩き出した。