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ミエルモノ、ミエナイモノ  作者: crow_cage
1/2

前編

『運命』って言う言葉があるんだけど、私は正直それを信じている。いや、信じようが信じまいが『運命』っていうものはただそこにあるものなのだ。

私はいつものように、そんなことを考えながら、朝の登校路の坂道を登っていた。

季節は春が過ぎ、冬よりもだいぶ薄くなっていた衣服をさらに薄くしようかと考え始めたとき。空はだんだんと高くなり、大きな雲が目立ちはじめ、地面に散った桜の花びらも今はどこかに消えてしまっていた。私はこの春から高校一年生になり、新しい制服、新しい登校路、新しい学校に通っている。誰もが中学から高校のように、新しい場所、新しい世界に行くことには、少なからずの高揚感を覚えるだろう。どんな場所だろう?どんな人がいるのだろう?どんな毎日が待っているのだろう?期待の持ち方は人それぞれだし、その大きさも違うと思う。けど、私にはそれがない。何の期待も高揚もない。ただ毎日を過ごす。その過ごし方が、ある日を境に少し変わるだけの事。私の日常になんら大きな変化はないのだ。だいたいみんなだって、この世界っていうものがその日を境に大きく変化するわけじゃないんだから、生活にも大きな変化なんてないはずだ。こんなのは携帯電話の機種変更と同じで、変える前はいろんな期待と不安があるが、変わってみるとそこまでの変化はなく、また同じように使いこなしていってしまう。そんなものだ。


キキッーーーーーーーーーー!ガシャン!


私の数メートル後ろで大きな音がした。

自動車と自転車の事故だろう。何も驚くことはない。ただ事故があって、一人の女の子が死んだだけだ。私は何もなかったように坂道の頂上付近の曲がり角を左に曲がった。

「また、退屈で嫌な一日が始まるわ・・・」

私はため息と同時に、そんな言葉を吐き出していた。




学校についてしばらくすると、まわりはすぐに先ほどの交通事故の話で盛り上がり始めた。

「今朝、田口ん家の近くで、事故があったんだって~」

「車と自転車の事故みたいだよ」

「三中の子が死んだみたいだぜ」

「・・・・・・河野さんの通ってる道らしいわよ」

「河野が見てたんだってよ・・・」

ほら始まった・・・。いつもそう。何か事件や事故があったりすると、みんな私を関係付ける。確かに今日は私も近くにいたけどね・・・。私はただ、人の『死』が見えるだけなのに。




私の名前は河野鈴音。今年の春からここ八重坂高等学校の通うようになった高校一年生だ。私には人とは少し違った能力がある。人の『死』が見えるのだ。ただそれだけ。年頃の子が思い描くような、ファンタジー的なものや現実離れした超能力とかなんかじゃなくて、ただ、そういう人がいたら、なんとなくわかるだけ。その人が死ぬ瞬間がいつになるとか、どういった死に方をするとかなんてことはまったくわからない。なんとなく、ぼんやりとした感じがあるだけだ。

自分の能力に気づいたのは、私が小さいころに、自分の家の近所に住むおばあちゃんの死を感じたときだった。




たしか、六歳か七歳のときだったと思う。前の晩から雪が降り続き、その日の朝には町を薄っすらと白いベールで包んでいた。子供だった私は、とにかくうれしくて、何度も外にでては雪をいじり遊んでいた。そして日が沈みかけたとき、私は何度目かの外出をしようとしていた。そのとき母親に声をかけられたのだ。

「鈴ー。外に行くんだったら、お母さん今から買い物に行くから、一緒に行く?」

その一言に一瞬悩んだが、子供だった私は買い物について行くと、たまにお菓子などを買ってもらえるということを覚えていたので、すぐについていくと声を上げていた。

「こんなに寒いのに、何度も外に出て行ってー。明日風邪ひいても知らないわよ?」

そんな母親の声に適当に返事をしながら、私は買ってもらうお菓子のことばかりを考えていた。

「あらこんにちは~」

スーパーまであと少しというときに、横から聞きなれた声が聞こえてきた。そう、近所にすむ鈴木というおばあちゃんだ。ついさっきまで考えていたお菓子の事など、その一言でどこかに飛んでいってしまった。今考えてもあのときの私はものすごく間抜けな顔でそのおばあちゃんを眺めていたと思う。まるで初めて会った人のように・・・。第六感というかなんというか、黒くモヤモヤしたものを感じていたのだ。普通の人が感じる胸騒ぎみたいなものだと思う。そのとき私は思った。この人は死ぬのだと・・・。

子供というものは純粋で素直、そして時に残酷なもので、私はその時に感じたものを素直に、そして感じたままに口に出していた。

「おばあちゃん・・・、死んじゃうね」

後から聞くと、私は笑いながらその言葉をしゃべっていたらしい。別にそのおばあちゃんが憎かったわけではなくて、頭の中で絡まっていた糸がほどけたことがうれしかったのだろう。そのときの私は『死』という言葉が意味することや、その存在すらもしっかりと理解していなかったのかもしれない。そのとき、母親にしかられながら横目で見たそのおばあちゃんの表情を私は今でも覚えている。




翌日、私はやはりとも言うべきか、風邪で熱を出し寝込んでいた。おぼろげな意識の中で私が見たものは、ベッドの横に立つあのおばあちゃんだった。その表情には明らかに怨みや憎しみといった負の感情がにじみ出ていて、風邪で弱っていた私は怖くなり、わけがわからぬままただ謝り続けた。何度も何度も・・・。

真夜中の深夜二時に私は目を覚ました。体中びっしょりと汗をかいており、べたべたとくっついてくるパジャマがうっとうしかった。熱は微熱まで下がっており、まだ力が入らずふらふらとしたが、意識ははっきりとしていた。パジャマを着替えようと思ったが、その前にまずトイレに行こうと思い、ふらふらとした足取りで部屋を出た。私の部屋は二階にあり、階段をおりて、すぐ右側にトイレはある。ドアノブに手をかけたときにかすかな話し声が聞こえ、ふと顔をそちらに向けると、居間の電気がついていることに気がついた。両親がまだ起きているのだと思い、私はその光の方へと歩いていった。それが私を地獄へ突き落とす光だとも知らずに・・・。

「あの子、笑ってたのよ・・・。笑いながら死ぬって・・・」

「それが現実になったというわけか・・・」

父の重く落ち着いた声と、母のかすかに震えた声が聞こえてきた。

「しかし、たまたまそういうことが重なっただけかも・・・」

「重なるですって?あの子は死ぬっていったのよ?人にあっていきなりそんなことを冗談でも言う?もし言ったとしても、本当に翌日に死ぬってどういう偶然よ?」

父の言葉をさえぎって母のヒステリックな声が響いた。怖くなった私はトイレに行くことも忘れ、部屋に戻り布団に包まった。あれは私の話をしていた。私には聞かれてはいけない私の話を・・・。光に誘われたことを後悔しながら私はいつの間にか眠っていた。




当然のごとく、日は昇り朝が来て、暖かい光を部屋に落としていた。外から寒々とした風が窓をたたいている。ガタガタという窓の音とは違うざわめきが絶え間なく聞こえてくる。

私が起きたとき、部屋の時計は十時を少し回っていた。熱は下がっていて、体のだるさもほとんどなくなっていた。夜中に見たあの光景が頭をよぎったが、激しい尿意に突き動かされ、下の階へと降りていった。

トイレに入る前に、黒い服を着た母と目があった。

「あら、起きたの?」

いつもと変わらない挨拶。

「うん。おはよう」

母は忙しそうにお茶を入れたり、お菓子の用意をしたりしていた。

忙しそうにしている以外はいつもの母だと安心したわたしは、これ以上はなしかけても、邪魔になるかもしれないと考え、当初の目的どうりトイレに入ることにした。

トイレから出ると、次は父とあった。

父も黒い服を着ており、私を見るとゆっくりと歩み寄ってきた。私と同じ目線の高さまでしゃがみこむと、ゆっくりとしゃべりだした。

「鈴。鈴木のおばあちゃんがな、昨日に夜に死んじゃったんだ。だから今からおばあちゃんの家でお葬式をするんだよ。十一時半までには出ようと思ってるから、二階で着替えておいで。お母さんが鈴の服を用意してくれてるはずだから」

父の声は静かで重かった。わかりやすくゆっくりとしゃべってくれてるんだと思うのだが、そのゆっくりとした言葉の一つ一つが、私にプレッシャーを与えていった。

二階に上ると、母がたんすから私の礼服を出していた。母は私に気づくと、そばに来るようにと、手をまねいた。呼ばれるままに私は母の元へと歩み寄っていった。

「いい?」

母は私のパジャマのボタンを外しながら話しかけてきた。

「お葬式では静かにしておくのよ?ヘンな事とかしゃべったら駄目よ?」

手際よく私のパジャマを脱がせると、今度は礼服を着せにかかった。私は母のされるがままになりながら、一つうなずき、「わかった」と返事をした。

「いろんな人たちが来るけど、迷惑かけないようにね?誰かに話しかけられたりしても、挨拶とかだけね?わかった?」

「うん」

私はうなずいて見せた。

着せ終わった礼服のほこりを軽く払うと、私の両肩をつかみ、真剣な面持ちで私の顔を覗き込んできた。

「絶対に変な事言わないでよ?」

母が何を言いたかったのかが、子供ながらにそのときわかった。私の心は重い石のようなものが転がり落ちてきた感じがした。父も母も、私にプレッシャーを与えてくる。当時の私は、なぜ二人がそこまで念を押してくるのかがわからなかった。母の真剣な瞳をしばらくのぞきこんだあと、私はうなずいた。

「・・・わかった」




その日は、昼から雨が降った。

暗く寒い家の中で、お葬式は行われていた。

子供だった私はじっとしていることが苦痛で、途中から席を離れ、違う部屋でテレビを見たりしていた。お葬式自体面白くない行事で退屈してるって言うのに、さらに私を不愉快にさせることがあった。それは、どこからともなく聞こえてくるヒソヒソ話である。わたしがどこにいるときでも、その話し声は後をつけてくるように後ろから聞こえてきた。そして話をしている人たちに顔を向けると、彼らはあわてたように顔を背けるのだ。

「・・・なんなのよ・・・」

彼らは私のことを話しているの・・・。幼い私でもすぐにわかった。

軽く不機嫌になってきた私は、人がいるところから出来るだけ離れようと、色々と場所を移動した。しかしそんな大豪邸ではない家で、しかも外は雨が降っているとなれば、家の中は必ずどこかに人がいるものだ。

「はぁ~・・・」

あきらめた私は、出来る限り人目につかない部屋の窓辺にいることにした。雨の後が余計な音や声を消してくれると思ったからだ。見つけた場所は中度いい具合に縁側になっており座ることが出来た。

大粒の雨が降り続き、道路を流れていく。一定のような不規則なような音が耳に入ってくる。地面から跳ね返った水が足もとをぬらしていく・・・。

やっと、気分がすっきりしてきた。気温はとても寒いのだが、雨の音と景色は私を楽しませてくれていた。

「お姉ちゃんがお婆ちゃんを殺したの?」

驚いた。

すぐ横から聞こえた声に私が振り向くと、そこには私よりも少し年下に感じられる男の子が立っていた。

「みんな、言ってるよ?お姉ちゃんが殺したって・・・」

男の子は真っ直ぐな瞳で私を見ていた。私自身何も悪くないのに、その瞳の前では少しうろたえてしまったのを今でも覚えている。

「違うよ。私は何もしてない。」

「じゃあ何でみんなお姉ちゃんの話ばかりしてるの?」

男の子はすぐに言い返してきた。確かに私は何もしていない。しかし同時に、男の子が言うことも正しいのだ。

「どうしてお婆ちゃんを殺したの?お姉ちゃんはいったい何をしたの?」

男の子の問いかけは、私が目をそらした後も続いた。

大人たちのヒソヒソ話は、私にはたいした影響は無かった。いくら私の話をしているからって、私とは全く関係の無いところでの話しだし、何の関係も無く何も知らない人たちが何を話そうが知ったことではない。

しかし、この男の子は違った。私自身に疑問を投げかけてきている。いくらその根本となる疑問が見当はずれなものであるとしても、私自身その事柄にかかわっているのだから完全に無視することはできない。

わたしはどう答えるべきかわからずに、男の子のほうへ向き直った。

男の子は先ほどと何も変わらずにこちらを見ていた。その目は答えを望んではいなかった。肯定も否定もせずに、ただ答えを待っていた。問いただすでもなくせかすでもなく、ただ、純粋な『疑問』の答えを知ろうとしているだけだった。

「わたしは・・・、何もしてないわ。ただ、わかったから言っただけ・・・」

私の声がひどく震えていたことと、その声を男の子が微動だにせずに聞いていたことを覚えてる。

「何がわかったの?」

男の子の質問は続いた。

今思うと、このときの私の声の震えは恐れから来るものだった。男の子が怖いわけじゃなく、男の子からの質問が恐ろしかったのだ。・・・いえ、違う。私は私自身が怖くなったのだ。私のこの能力。当時はまだ何も自覚してなかったしわからなかったけど、そのときをさかいに、私は自分が怖くなったのだ。

「・・・・・・・・死んじゃうこと・・・・・・・・」

声はとても小さく、男の子の耳には届かなかった。

私は安堵した。声に出した瞬間しまったと感じたのだが、その声は誰にも聞かれることはなかった。

「何がわかったの?」

男の子はまだ問いかけてくる。恐怖心と心の焦りがまだ消えることなく私を攻め立ててくる。

「・・・っ・・・」

ただそこにいるのが怖かった。何か重いものが自分の体全体にのしかかってくる感覚、焦燥感、罪悪感、あとよくわからない何か・・・。すぐさま私は立ち上がり、その場から去ろうと思い、最後に男の子の顔を見た。やはり純粋な瞳。今の私のこんな弱い心なんて、簡単に吸い込んでしまいそうな、そんな瞳だった。

「まさひろっっ!!」

すこしヒステリックじみた声が響いた。

男の子の母親だろう女性が声を張り上げながら駆け寄ってきた。男の子はその声に驚き、ビクリと体を震わせた。そして私はその瞬間を見てしまった。男の子の『何か』が抜け落ちるのを・・・。

私の目には男の子は、一瞬、細かなすりガラス越しに見ているようになり、母親が、その子の手を引っ張った瞬間、今までその子がいた場所に『何か』が置き去りにされていたのだ。

母親は男の子を抱き上げると、小走りで私から離れて行った。

母親は途中でいったん止まったかと思うと、軽くこちらを向いて、「・・・大きな声を出して・・・、ごめんなさいね・・・」と、すこし震える声で言い残すと、そそくさと隣の部屋へと消えて言った。後に残された私は、さらに他の人たちの視線を集めることになってしまった。しかし、そのときの私にはそんなことはどうでもよかった。どれだけ注目を集めようが、どれだけ陰口や変なうわさを囁かれようが、私の興味は目の前のものに注がれていた。

それは限りなく白に近い灰色で透明にちかい、例えるならスープから立ち上る湯気のような物体だった。そんなものを見るのは初めてだったけど、何であるかはすぐにわかった。

これは、さっきの男の子だ。・・・さっきの男の子であるべきものだ。

湯気のような物体は、はじめは男の子の形をしていたが、ゆっくりと力尽きるように空気中へと散っていった。

「あっ・・・」

完全に消えてしまったあと、なぜか私の心には穴が開いたような虚しさのような悲しさのような感情が残った。

私は何もしなくていいのか?見ていたじゃないか、少年が『死ぬ』のを・・・。私にしかできないことがあるんじゃないのか?

幼かった私は、自分自身に脅迫されたようにふらふらと、先ほどの親子の後を追っていった。


ゆっくりと廊下を移動し、親子が入っていった部屋の襖を開けた。

そこには子供の手を握ったまま、知り合いの人々と談笑する母親がいた。男の子は普通に立っていて、怒られて泣いたのか目を少し腫らせたままつまらなそうにしていた。私は安心し胸をなでおろしたが、ほぼ同時にこれからすることへの緊張が襲ってきた。

「あっ、おねえちゃん・・・」

男の子が私に気付き声を上げた。母親は一瞬何のことかわからずに男の子を見下ろしたが、すぐに私のほうへと顔を向けた。その顔は嫌悪感と恐怖感で、あきらかにゆがんでいた。しかしその男の子の声と母親のこわばった表情、何より二人の視線が、私をその場に縛りつけ、逃げることを許さなかった。

「・・・あの・・・」

私は声を絞りだした。

「その子、病院に連れて行かないと死んじゃいますよ?」

驚いた。

自分自身が一番驚いた。

弱々しく震えた声は最初の『その子』の部分だけだった。あとはまるで、裁判官が死刑宣告をするように力強く、間違いなどないといった感じのはっきりとした声だった。

沈黙があたりを包み込んでいく。みんな私の方を向きながら、何を言っているのかわからないといった表情をしていた。それは当事者の男の子も一緒だった。唯一表情が変化していたのはその子の母親だけだった。顔がみるみる青ざめていって、土色に近くなったところで叫び声をあげた。

「何言ってるのあなた!うちの子が死ぬわけないでしょ!!」

さっきまで土色をしていた顔が見る見る赤く高揚していく。

彼女は歩み寄り、私の両肩を掴んで揺さぶりだした。

「何で死ぬのよ?死ぬわけないでしょ?こんなに元気じゃない?それとも何?あなたはこの子が何か病気にでもかかっているって言うの?だから病院?そんなはずないでしょ!まさひろはつい先月風邪で病院に行ったばかりよ!検査しても何も出なかったわ!風邪だって二日で治したんだから!死ぬはずないでしょ!」

「病気とかじゃなくて、さっきあなたが手を引っ張ったときに・・・」

揺すられながらも懸命に説明しようと声を出した。しかし、その言葉も途中でさえぎられた。

「あなたは何なの?どうして人を死なせようとするの?・・・!・・・あなたね?あなたが殺すのね!?」

彼女の目は充血して、顔も真っ赤になっていた。ひょっとすると、もう錯乱していたのかも知れない。言動がおかしくなってきていた。

「どんな権利があってあの子の命を奪うの?うそでしょ?ねぇ、うそって言って?言いなさいよ!!やめてよ!殺さないで!お願い・・・。やめないと殺すわよ!!」

突然の出来事だった。

彼女の手が私の首にまわってきたかと思うと、ものすごい力で締め付けてきたのだ。

「がっ!!!!・・!!」

その両手は力を緩めることなく私の首に容赦なくめり込んできた。私は無我夢中で暴れまわった。彼女の至るところをたたき、殴り、ひっかき、蹴りつけ、突き放そうとした。しかし所詮子供の力では大人には勝てない・・・。ましてや錯乱して限界以上に力を出しているような大人には・・・。

私の体が宙に浮いていく。彼女が持ち上げているのだ。

足の踏ん張りがなくなってしまい、自分の体重が締め付けられている首一点にのしかかってきた。私自身もう意識朦朧としていてあまり記憶が無いのだが、唯一覚えていたことは恐ろしくゆがんで青白く染まった顔をしてぶつぶつとお経のように何かをしゃべり続けていた男の子の母親と、私の首にまとわりついた筋張った彼女の手だけ。

「何をしてる!!」

強い男の声が響いた。

白くなりつつある視界の隅に、驚いた表情で駆け寄ってくる男の人が見えた。男の人は私の首にまとわりつく手を引きはがしてくれた。私は新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んで、そのまま気を失った・・・。




男の子がいた。

悲しそうに笑う男の子が・・・。

ただ私にはその男の子が死ぬという事実がわかっていた。

まったく悲しいとは思わなかった。ひとはいつか死ぬ。それは今日かもしれないし、何十年も後かもしれない。しかしこの男の子はもうすぐ死ぬ。明日にも死んでしまう。しかし、悲しくなかった。

『死』はただそこにあるものだ。悲しんでも怒っても何も変わりはしない。どんな生き物にも、性別も年齢も種類も性格も何もかも関係なく、容赦なく平等にそれは、静かに訪れるのだ。

私のほほには、ひとすじの涙が流れていた。

しかし、悲しくは無かった。

ただ私は・・・、―――――だったのだ。




白い天井が見えた。

初めて見る白い天井。

不気味なぐらい白い光を放つ蛍光灯と、外で降りつづいている雨のしずくが、その天井に淡い波模様を描き出していた。

「・・・雨・・・」

雨はまだ降っていた。

意識は完全に目覚めていたが、脳がうごかないままだった。

私は何も考えずに目に映る景色をぼんやりと見ていた。

「・・・・・・」

ふと、窓の外に視線をやろうとする。

「・・・!!」

そのときの突然の首の痛みが、すべての感覚を奥のほうから引っ張り出してきた。

私の首には包帯が巻かれていた。痛みを抑えつつ辺りを見渡すと、そこは病院だということがわかった。私は、病院に運ばれていたのだ。

「・・・ここは・・・」

わかったのはここが病院だということだけで、あとはなにもわからないままだった。

しかし、そのふと出した声に反応するかのように、一人の看護婦がやってきた。

「あっ・・・、目、覚めた?」

彼女は優しく語り掛けてきた。そして、私が何も言わずに首を縦に振ると、うれしいような悲しいような・・・、そんな不思議な表情をして、「お母さんと先生呼んでくるね」と言い残し、来た道を引き返していった。

わたしは一人ベットに横たわり、再び天井を見上げた。

その天井は威圧するでもなく、開放感を与えるでもなく、ただそこに、私の目の前にあった。




診察があり簡単な質問に何問か答えると、医師は軽く笑い、「よかったね。なにも異常はないよ」といいながら、私の頭をなでた。そして先ほどの口調と同じような柔らかい動作で病室から出て行った。

その医師と入れ替わるように母親が駆け込んできた。

母はわたしの両肩をつかむと、怒っているのか泣いているのか、笑っているのか困っているのか・・・、なんとも言えない表情をして、「・・・よかった・・・」と、ただ一言そう言った。叩かれることもなく、抱きしめられることもなく、怒られることも詳しく話を聞かれることも、何もなく、母は目を伏せて私から離れた。

「・・・おっ、おかぁ・・・」

私の言葉は声にはならなかった。そのときに気づいてしまったのだ。母は私を不気味がっている。私の目に映る母の姿は、ついさっきまで見ていたお葬式に来ていた人たちと同じにしか見えなかった。

『・・・おかあさん・・・』

真っ白だった。

その瞬間の私の中身はすべてが真っ白だった。

心の中も頭の中も、視界に入るすべての物から色彩が失われていった。


それから夜までのことはあまり覚えていない。

かすかに残る記憶を信じるなら、首を絞められて、少しの間脳に酸素がいかなかった事もあり、なにか後遺症のようなものがあるかもしれないということで、その日一日は病院で過ごすこととなった。

そしてその晩、私は自分の能力をはっきりと理解したのだ・・・。




大きな施設の夜はたいてい不気味なものだ。ましてや人の生死が集まる病院という施設は特に・・・。しばらくの間気絶していたからかどうかはわからないが、私はまったく眠くならなかった。いつのまにか気がつけば、日はすっかり落ちてしまい、病室ではベッドそれぞれが個室のようになるようにカーテンがひかれていった。そしてついには電気まで消されてしまったのだ。最初は眠く無いことを看護婦に伝えたが、看護婦は「今日はいろいろあったから、ゆっくり休まないとね」と言って、カーテンを閉めたのだ。私は薄暗い病室の一角に一人放置されたのである。

幼かった私には風が窓のガラスをなでる音さえも恐怖の対象だった。ガタガタと消して大きな音では鳴かない窓。パタ、パタ、と静かにゆっくりと近づいたり遠ざかる看護婦の足音。時折聞こえるほかの患者の寝返りを打つ音や静かな寝息。そしてたまに訪れる静寂と、それを嫌うかのように聞こえ出す自分自身の鼓動音。

世界は音に満ちていた。最初は恐怖でしかなかった夜の病院も慣れれば意外と楽しいものだ。横で眠っているお姉さん、と言っても私より何歳か上なだけだが、から聞こえる歯軋り。私よりも小さい男の子がしゃべるかわいい寝言。私はいつしかそれらの音を楽しむようになった。幸い私のベッドは部屋の一番端っこにあり窓に面していた。音に飽きれば窓の外を見て時間をつぶせばいい。「なんだ恐怖なんて蓋を開ければこんなものなんだ・・・」私は少し得意げになった。今まで恐怖の存在だった夜の病院を実際に経験し克服したのだ。ひとつ物知りになったような、大人になったような感じを味わっていたのだ。そのときまで。

・・・ドサッ・・・。

何か音が聞こえた。外でなった音だと思ったが、音はどう考えても部屋の中で響いた。

「なんだろ?」

私は窓の外を見た。そこにはきらきらと輝く夜景が広がっているだけだった。夜景はまるでそれ自体が生きているかのように瞬いていて、私の視線を捕らえてはなさなかった。

すこしして、何も無かったことときれいな夜景に満足した私は自然を戻し、いい加減そろそろ寝ようかと考えた。そのとき、視界の片隅で何かが動いた。いや、動いたというよりは通り過ぎていったのだ、上から下に・・・。

・・・ドサッ・・・。

そして聞こえる鈍い音。

私は固まった。辺りの時間も何もかもが固まってしまった。気温が一瞬にして下がっていく。風も吹かないのになぜか肌寒い。そして、額には汗が浮かんでいた。

「いっ・・・、いまの・・・は・・・・」

誰に聞くでもなくそうつぶやいた。恐る恐る窓の外に再び目線を戻した。相変わらず街はきれいな夜景を描き出していた。先ほどより何も変わってはいない。夜景どころか今自分がいる病室にも変化はない。しかし何かは変化していた。その変化はまったく知ることはできなかったが、明らかに感じ取ることができた。絶対的な違和感。まるで靴を左右間違って履いてしまったような気持ち悪い感触。車酔いや船酔いのようにこみ上げてくる嘔吐感。体の端っこから、たくさんの虫が這い上がってくるような恐怖感。なにより、こんなにまでの違和感を感じ取っているというのに変化のひとつも見せない世界の存在。

理不尽な恐怖や気持ち悪さが襲って来て、私はすべてから目をつぶろうとも考えたが、そのすべての感情よりも好奇心が勝ってしまった。私はベッドからおり、ゆっくりと窓の方へと歩いていった。ベッドから窓まではそこまであいてなく、二歩ほどの距離しかなかった。しかしその時は恐怖心がブレーキをかけたのか自分自身悩んでいたからかどうかはわからないが、ひどく小さな歩幅で本当にゆっくりと進んで言った。

まず病院の門が見える。そして駐車場が見えてきた。医者の車だろうか、何台かの車が残っていたが、ガラガラとした駐車場は、黒い地面に白い線を引いたただの模様に見えた。そして、病院入り口の屋根が見えてきた。赤いランプが回っていて、断続的に地面を赤く照らしている。赤黒赤黒赤黒赤黒・・・・・・・。

私は窓際までたどり着き地面を覗き込んだ。覗き込んだ地面には、何もなかった。ただ赤い光が、地面を何度も何度も照らしだしているだけだった。

「・・・ふ~~~~・・・」

私は静かに胸をなでおろした。何もなかった。その事実が私に安堵感を与え、すべての不の感情をきれいに洗い流してくれた。そして残ったものは、まさしく洗い流したといわんばかりにぐっしょりと体をぬらしている汗だけだった。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・寝よ・・」

何もなかった。何もなかったからこそ、私は逃げたかった。何もないうちに現実から抜け出して、夢の世界に逃げ出したかった。

「明日になれば、こんな変な気分も消えて気持ちよく家に帰れるんだから」

そんな明日の希望を声に出しながら私はベッドへともぐりこんだ。窓とは反対の方向を向いて横になると、きつく目をつぶってねることに集中しようとした。

シャッ、

カーテンの開く音が聞こえた。明らかにすぐ近くの、つまり私のベッドのカーテンが開かれたのだ。えっ、と思い、すぐにその開けられたカーテンの方を見た。

「ひゃっ!」

思わず声を上げてしまったが、すぐに口を閉じた。

そこには一人のおじいちゃんが立っていて、こちらを覗き込んでいたのだ。しかし、私の驚いた声を聞くと、一歩後ずさり、おどおどと軽く会釈をしてどこかへといってしまった。

私はぽかんとした表情でそれを眺めていたが、おじいちゃんのそのコミカルな動きに少し笑ってしまった。たぶん自分のベッドとこのベッドを間違ってしまったのだろう。そりゃカーテンを開けてそこに誰かいれば驚くだろうな。さらに起きてたし・・・。私は、さっきのおじいちゃんのことを考え、なぜか悪いことをしたと思ってしまったが、それよりもその動きの可愛さに心奪われてしまった。

「ふふっ」

私は軽く笑うと、先ほどとは打って変わって軽い気持ちで目を閉じた。

なんか気持ちを楽にしてもらっちゃった。明日探してお礼でも言おうかな~。そう思い、軽く寝返りをうった。そしてふと開けた私の目には、窓の外をさかさまに落ちていく単眼の女性が映し出されたのだ。

         ・・・ドサッ・・・。




静かな朝だった・・・。

看護婦さんがパタパタと足音を響かせながら病室のカーテンを開けにきた。

「あっ、鈴音ちゃんおはよ~」

若い看護婦は気持ちよく笑顔でそういうと、テキパキとカーテンを束ねていった。

ふと時計を見ると、針は十時二十分をさしていた。

「・・・おはよう、か・・・」

今は朝じゃなくて、もうすぐ昼になりそうな時間だった。私以外の人たちはもうすでに朝ごはんを食べた後のようで、もうすぐ始まる検診に備えていた。そうか、十時三十分から検診か・・・。と思いながら眠い眼をこすった。そして上半身を起こして伸びをする。たぶん窓の外はまだ冷たい風が吹いているのだが、太陽の光はとても心地よかった。今日はいい日になる。私は何の根拠もなくそんなことを考えた。そして、太陽の強い光のせいで忘れていたとでも言うように、太陽から目をそらしたとたんに、昨日の夜の事を思い出した。夢ではない。確かに私は見たのだ。


単眼の女性が落ちていくのを・・・・。


私はすぐさま立ち上がり、窓の外を覗き込んだ。そこには相変わらず回り続ける赤いランプがあった。光っているようだったが、太陽の光が強いためにその光はとても弱々しいものになっていた。

「何か面白いものでも見えるかい?」

突然声をかけられ、肩がびくりとはねた。

「ははっ、驚かしちゃったね」

声がする方へと顔を向けると、そこには昨日私を診察してくれた医師がいた。

「あれ?あまり寝れなかった?」

その言葉に、また窓のほうを見た。窓ガラスに映った自分の顔には、大きなクマができていて、全体的にも疲れている印象を受けた。私は少し恥ずかしくなり、消えるはずの無いクマをこすりながら、ベッドへと戻った。

「ははっ、夜の病院は怖かったのかな」

医師は軽く笑いながらベッドの横に着いた。そして看護婦からカルテを渡されると、「今の気分はどうかな~?」と問いかけながらペラペラとカルテをめくっていた。その間に私は看護婦さんに体温を測られたり血圧を測られたりしながら、軽い返事を返していた。

一通りの問診や計測が終わりカルテになにやら書き終えると、医師はこちらに向き直った。

「よし、大丈夫みたいだね。ちょっと寝不足な感じはあるけど」

軽く笑うと、その医師は立ち上がり、病室を出て行こうとした。

「あの・・・」

思わず声を掛けてしまった。自分の中にあるモヤモヤとした不安感や恐怖感を拭い去りたかったのだ。

医師は振り返り、しばらく何も言わずにキョトンとした顔をしていた。

「・・・あの、昨日・・・。今日の朝・・・」

私自身どういえばいいかわからずにしどろもどろになってしまった。

「どうしたんだい?」

医師は完全にこちらに向き直り、ベッドのすぐそばまで来ていた。

「・・・昨日、誰か飛び降りませんでした?」

思わず声が大きくなってしまって、私の声は病室に響いてしまった。

そしてしばらくの静寂の後、失笑と共にその言葉は否定された。

「そんなこと無いよ。どうしたの?そういう夢を見たから今日は寝不足なのかな?」

医師は安心させるためにか、私を馬鹿にしていたためかはわからないが、明るい声でそういった。しかし、私の脳裏には昨夜見た映像がはっきりと残っていた。

「・・・けど、確かに夜中に窓の外を落ちていく女の人を見たの・・・」

自分が見たものはなんだったのか、その答えが欲しかったのかもしれない。私は昨晩見たものをしゃべった。変な音が聞こえたこと、何かが落ちていったこと、けど下には何も無かったこと、おじいさんがきた事、最後に女の人が落ちていくのを見たこと、全てをはなした。途中おじいさんが出てくるところで医師は少し困惑した表情をしたが、全て話し終えるころには、もとのにこやかな表情に戻っていた。

「大丈夫だよ、そんなことは無かったから。現に何も騒ぎは起きてないだろ?全部夢だよ」

「でも私、確かに窓のところまで歩いていったし、おじいさんも来たのよ?」

「たぶんそこまでが現実で、後のことは夢だよ。夜に寝付けなかった鈴ちゃんは音に敏感になってて外のゴミ出しの音とかが気持ち悪く聞こえたんだよ。で、不安になってたところにおじいさんが来て、気持ちが和らいでそのまますぐにね寝てしまった。そして怖い夢につながる訳だ」

医師は少し自慢げに自分の推理を話していく。しかし、私は何か納得がいかないまま静かに聴いていた。

「・・・・・・・・・・」

「けど、そのおじいちゃん気になるな~。この階では、そんな人は入院してないし・・・。ナースの見回りを多くしようかな?」

今度はなにやら、考えにふけりだしてしまった。私は、もう医師の言葉を聞くきもせずに、ただ、昨日の夜に見たものは何だったのだろうと自問自答を繰り返していた。

「先生、そろそろ次をまわらないと・・・」

看護婦の言葉に医師はハッと我にかえった。

「あっ、そうだね。・・・じゃ、鈴音ちゃん。今日で退院できるから、元気出してね」

そういうと、医師は軽く笑って、病室から出て行こうとした。私は軽く笑顔を見せると、窓の方へと向き直った。

私が見たものは、夢だったの・・・?・・・けど・・・。・・・そうだよね、夢だよね。大体夢だったら大変なことになってるし・・・。今何も起こっていないんだからいいじゃない。

私は自分に言い聞かせた。

「すず」

お母さんの声が聞こえた。迎えに来てくれたのだ。

私が振り返り、病室の入り口の方を向くと、大きめの紙袋をもったお母さんが立っていた。

体や精神的に変化がなければ、私が今日退院できることは事前に決まっていたみたいで、お母さんは、退院する準備や荷物などを持って帰るために紙袋を持ってきていたのだ。しかし、たった一日の検査入院で持って帰るものなどはほとんどなく、その紙袋はほとんどすかすかの状態だった。

「そんな大きな袋要らなかったのに・・・」

「・・・大は小をかねるって言うでしょ?」

大きな袋にあきれた私に、お母さんは負けずと答えていた。しかし、お互いに言葉に元気はなく、どこか他人行儀な雰囲気をかもし出していた。

そして私は、パジャマから普段着に着替え、母親に髪を結ってもらっていた。

「・・・・・」

最初に二言ぐらいしゃべった後は、お互い無言だった。何をしゃべっていいかわからなかったし、なにより顔を合わせるのが嫌だったからだ。

「・・・はい」

髪が結い終えたのか、お母さんは一言言うと、肩をたたき鏡をこちらに向けた。私は鏡に向き直り、自分の髪型がどうなったかを確認しようとした。そのとき、鏡の中の自分の横を『逆さまの女の人』が一瞬見えた気がした。

「えっ・・・」

それは、夢で見たモノと同じモノだった。驚いた私はまた夢のような幻覚を見たのかと思い、半信半疑でお母さんの顔を見た。

お母さんの口は半開きで、目は見開いていた。そして、時間が止まったかのように微動だにしなかった。

私がちょうど、お母さんの顔を見たと同時に、鈍い『ドサッ』という音が聞こえた。そして、少しの間を空けて女の人の悲鳴や、男の人の叫び声が聞こえした。

まさかとは思ったが、私が今見たものは現実だった。お母さんもそれをみて硬直してしまったのだ。

私は飛ぶように立ち上がり、窓ガラスが割れるような勢いで窓を開けた。

「・・そんな・・・」

窓から身を乗り出すように下を覗き込んだ。そこはまさに地獄絵図だった。

辺りの地面は赤黒く濡れていて、まるで赤いペンキの缶が爆発したような有様だった。そしてその赤黒い海には大小いくつかの肉片が漂っていて、ちょうど真ん中の辺りには以前は人として動いていたような肉塊が二つ、転がっていた。

「・・・うっ・・」

突然こみ上げてきた嘔吐感に、私は口元を抑えながら転がるようにトイレに向かって駆け出していた。「すず!!」というお母さんに叫び声を背中に聞きながら・・・。




「うえっ・・・、・・・げぇ・・・、っく・・・、ひっく・・・」

私の嘔吐は嗚咽に変わっていた・・・。流れる涙は嘔吐の苦しみに対するものなのか、自分自身に対するものなのか、飛び降りた女の人に対するものなのか、はたまた巻き添えになり死んでしまった誰かのためか・・・・。それは未だにわからないままだ。

何度かの嘔吐の後、涙をぬぐいながら口をゆすいだ。しかし、嘔吐感は拭い去ることができず、同じ行為を何度か繰り返した。ついさっき見た景色と自分の吐き出したもの。においや吐き出す苦しみが、つねに現実を押し付けてくる。

「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」

こみ上げてくる嫌悪感を何とか我慢できるようになる頃には、外で何が起こったかが院内にも知れ渡り、恐怖や不安、はたまた好奇の声がどこからともなくざわざわと聞こえてくる。

「飛び降りた・・・」

「・・・一人巻き添えに・・・」

「女性の・・・、顔が・・・」

どこから広まったのか、本当とも嘘ともわからないような話が、廊下中に広まっている。私は口元を押さえながら、そんなうわさ話を尻目に病室へと戻っていった。

病室に入ると、そこには先ほど回診に来ていた医師がいた。

「・・・っと言うことで、・・・」

なにかをお母さんと話している。お母さんの顔は、何か狂気じみたような、絶望と喜びが混ざりあう笑いを浮かべていた。

私はいやな予感がした。もちろんその予感は的中した。

お母さんは私を見つけるとすぐに駆け寄ってきて、両肩をつかんだ。

「鈴、あなたまた何か言ったの?また変な事言ったの?」

「痛い・・・、痛いよ、お母さん・・・」

強い口調ではなかったが、静かな声の中には、どこか脅迫じみた力強さがこもっていた。それにあわせて、私の肩をつかむ手にも力が入り、指が肩へと食い込んでいった。

「今度はなに?なにをしたの!!」

言葉の最後のほうは、もう叫び声に近かったかもしれない。

お母さんは私の肩をつかんだまま前後に揺さぶった。

「ちょっ、お母さん!」

そんな医師の声とともに私はお母さんの手から開放された。

私は力なく地面にしゃがみこみ、お母さんの方を見ると、医師に押さえられたままでどこか虚空を眺めていた。そして、私と同じようにひざから崩れ落ちたのだ。

「すずちゃん。・・・今回みたいなことは、初めてじゃないんだね?」

医師の興味とも恐れともつかない声が聞こえた。ふと視線を医師に移すと、お母さんを軽く支えたまま、驚いたような表情の医師がこちらを覗き込んでいた。

「えっ、あの・・・」

思わず私は目をそらした。すると私の目に映りこんできたのは、同じ部屋に入院していた人たちの興味の目だった。病室の人たちだけじゃない。開けっ放しにしていた扉の向こう、廊下の方からも野次馬が集まってきていた。

医師もそれに気付いたようで、手早くお母さんを私が使っていたベッドに寝かせると、私の手をつかみながら歩き出した。

「ここは人目につくね。場所を変えようか?」

と、そんなことを言いながら・・・。




つれてこられたのは、屋上だった。数十メートル下の地面での惨事を感じさせないようなさわやかな風がほほをなでていく。

医師は私をベンチへと促して座らせた。しかし、自分は座らずに、

「何だったかな?君は昨日、夢を見たんだよね?」

こんな言葉で問いかけてきた。

「ちょうど今この状態を暗示したような、女の人が自殺する夢を・・・」

私の答えを待つことなく、医師はしゃべり続けた。

「そのあと、夢にはおじいさんも出てきたよね?」

そう言うと、医師はこちらを見て、しゃべるのをやめた。

「・・・あ、・・・」

私は何を言っていいかわからなかった。何から説明していいのか、そもそも説明することなどあるのか?医師は無言で私に答えを求め続けていた。

「・・夢じゃ・・・、夢じゃないと思います。ちゃんと、・・・はっきりしてましたし!」

「わかった、夢じゃないんだね?おじいさんが出てきたかどうかは覚えているかな?」

言葉をさえぎるように、医師は問いかけを続けてきた。

「・・でてきました・・・。女の人もおじいちゃんも出てきましたよ・・・」

問いかけに押される形で私は答えをしゃべっていた。

その答えを知ると、医師は驚くような、喜んでいるような、おかしな笑みを浮かべてこう言った。

「自殺した女性に巻き添えにされて、一人の老人が死んだんだよ・・・」

その声は、やはりどこかうれしそうだった。そしてその言葉の意味が一瞬理解できなかった。巻き添えになって、老人が死んだ・・・。

「えっ・・・」

彼ははっきりと、自殺した女性だけでなく、老人が一人死んだといっているのだ。

「どうしたんだい?驚いているのかな?そんなことないよね~。君は知っていたんだから・・・」

「っ、・・・知ってたって・・・?」

問い詰めを楽しむように、医師はうれしそうな言葉で話しかけてきた。

「言葉の意味そのままだよ?君は知っていたんだろ?女性が飛び降りることを・・・。そして、老人が一人死ぬことを・・・。・・・どこまでわかっていたんだい?老人は巻き添えになって死ぬってわかってたのかい?・・・そもそも、どうやって知ることが?ひょっとして未来を知るのではなくて、未来で現実にしてしまうとか?」

医師は一歩一歩迫りながら、私をまくし立ててきた。私は迫りくる言葉の波に飲まれそうになりながらも、その言葉を否定し続けた。

「何言ってるんですか?私はそんな・・・。そんな事は・・・」

私自身あまり理解していない私の中の何かに医師はひどく興味があるらしく、いくつもの問いかけをしてきていた。しかい、途中から私は、そんな『何か』をひどく意識し始め、降り注ぐ言葉の雨も、ほほをなでる風も、何もかもを感じなくなっていった。

私にいったい何が起こっているのか?この『何か』はいったい何なのか?私は自分でこの『何か』を扱うことができるのか?何もわからなかった。自分の中に出来た自分ではないもの。何もしなくても自分にかかわってくるもの。自分にも他人にも、不幸を連れて来る『何か』・・・。

身震いした。自分で考えた自分自身のことに恐怖したのだ。――自分にも他人にも不幸を連れて来る――

「・・・どうなのかな?」

いつの間にか、医師は私すぐ近くまで歩み寄ってきていた。好奇の目が顔を覗き込んでくる。その目も怖かったが、そこに移りこんでいる自分に恐怖を感じた。

「・・・私は・・・、・・・私は知りません!!」

思わず叫びながらその場から逃げだしていた。

「実はね!」

医師の言葉に背中を向けたまま立ち止まった。

「君と似たような少年を、僕は知っているんだよ・・・」

その言葉の中には嘲りの笑いが含まれているようだった。

「・・・だから、何なんです・・・?」

そういい残すと、私は答えを待たずに屋上を抜け出した。急いで階段を降りる私の背中の向こうで、医師が笑っている気がした。




何か嫌な感情が胸の奥に突っかかっていた。恐怖というべきか不安というべきか、その感情は私の心を軽くなでるように、気味の悪い感触を残していた。そんな不快感を拭い去りたかったのか、あるいは病室に戻るのが嫌だったのか、私はあても無く病院内を歩き回った。再び屋上に登る気にはならなかったし、外に出るのにも抵抗があったからだ。しばらくして、そろそろ戻ろうと病室に戻ると、外の騒ぎの野次馬に行ったのか、誰も残ってはいなかった。ただ一人を除いて・・・。

お母さんが私のベッドに座りながら窓の外を眺めていたのだ。

「おっ、お母さん・・・」

ゆっくりと近づき静かに声をかけるが、お母さんはこちらに振り返ろうとはしなかった。

「おかあ・・・」

「私ね・・・」

二度目の呼びかけはふいに発せられたお母さんの声でさえぎられた。

「あなたをはじめて抱いたときに、私はこの子のために今まで生きてきたんだって思ったの・・・」

それは、告白だった。窓の外に向けられている瞳は、ただ虚空を眺め、悲しみとも喜びともいえない不思議な色を放っていた。

「他人が聞いたら大げさだと思うでしょうね・・・。けど、私にはそれでも言葉が足りなかったの。あなたは私のすべてだった。私のすべてはあなたのものだった。何ヶ月も私のおなかで寝続けていたからじゃない。苦しい思いをして生んだからじゃない。ましてや私が大人であなたが赤ちゃんだったからだとか、そんな理由じゃない・・・。私にもよくはわからないんだけど・・・、たぶんそうなのよ・・・。私はあなたのために今まで生きてきたし、これからも生きていくの。・・・言ってることがめちゃくちゃよね・・・。でもね、直感でも、感覚でも、感性でも、運命でも何でもいいの」

最後にお母さんは振り返り、私の目を見つめた。先ほどとは違う何か強い意志―――決意にも似たような―――をその瞳に湛えながら・・・。

「うまくは言えないけど、あなたには自分にもわからない、何か不思議な力を持っているのね?」

その言葉に無言でうなずいた。するとお母さんは体ごとこちらに向き直り、言葉を続けた。

「その力、能力には、いつごろ気がついたの?」

「数日前、あの近所のおばあちゃんが死んだときぐらいから・・・」

「そう・・・。たぶんあなたは人の死というものが見えてしまうのね・・・。それ以外の能力はあるの?」

私は首を横に振った。

「わからない・・・。今だって本当に私に人の死が見えるのかどうかもわからないの・・・」

すごく不安になった。私の中の何かが、私の知らないところで一人歩きを始めている。そんな錯覚に陥ったのだ。

「死ぬことがわかってしまった人を助けることは?出来ないの?何か方法はないの?」

その質問にも私は首を横に振った。

「わからないの・・・。何をしたら死ぬことがわかるのか、何をしなければわからないのか・・・。いつごろどうなるかとか、その時々によってばらばらだし、助ける方法なんて、一度も・・・」

私の目には涙があふれていた・・・。力について何もわからないことが怖かったのもあるが、そんなことよりも、自分の力をお母さんが理解してくれた事。それがとても嬉しかったのだ。自分自身よくわからない能力・・・。とても怖くて、意識しないようにしていた能力。けど、私は一人じゃない。お母さんがいる。お母さんが私を理解し、立ち向かう勇気をくれる。これほど嬉しいことは他にはなかった。

「お葬式の時に、すずが話をしていた男の子ね・・・。原因不明の病気になって入院したんだって・・・」

「えっ・・・」

驚いた。突然だった。お母さんが発した言葉は、私を現実へと引き戻していた。

「今もどんどん衰弱していってるんだって・・・。ねぇすず?助ける方法わからない?どんなことでもいいの。すずだって人が死んでいくのはもう嫌でしょ?」

お母さんは困ったような顔で問いかけてくる。

私にも解決方法はわからない。ただ見えたり感じたりするだけなのだ。何をしたらいいかなんて知るはずもなかった。だから私はその男と話しているときに見たものを正直に全て話した。男の子のお母さんが手を引っ張ったこと、そのせいで、男の子から何かが抜けたこと、そしてそれが消えてしまったこと・・・。

お母さんはただ黙ってその話を聞いていた。話し終えた後も、軽く眼を閉じながら、沈黙を続けていた。私は何も言うことができずに、お母さんと同じように黙っていた。

「わかったわ・・・」

何かを決意したようにそう言うと、お母さんは立ち上がり、荷物をまとめた袋を私に手渡した。

「もう退院なんだから、ずっと病室にいちゃいけないわよね。さぁ、行きましょう」

お母さんは私の手を握り、私を引っ張るように病室を出た。

病院の一階では、先ほどの事件のことでばたついていた。お母さんはそんなことを気にも留めず、受付でお金を払っていた。

一階ロビーにはいろんな人々がいた。警察・記者・野次馬・入院患者・・・。その誰もが今回の事件に興味があるようで、あちこちからうわさ話のようなものが聞こえてきていた。

この場所は私にとってあまり居心地のいいものではなかった。事件の話を聞くたびに、あの夜見た光景を思い出してしまうからだ。窓の外を落ちていく女の人・・・。実際・昼前には現実に落ちていく女の人を見たのだが、どうかいうわけか夜に見た光景のほうが、頭に強くこびりついていた。暗くて怖かったから?違う。怖かったというより、あの瞬間は何がなんだかまるでわからなかった。それに恐怖を感じたということならば、実際に見たときのほうがはるかに恐ろしかったことを覚えている。じゃあ、実際に見たときは、揺るに見たときからの二度目の光景だったから?それも違う。人が死ぬ瞬間は何度見てもなれるものではない。いくら昼前に見た光景が二度目だったとしても、それになれるはずがないのだ。

「お待たせ」

お母さんが戻ってきた。「じゃあ。行こうか」といいながら、私達は再び手をつなぎ病院を後にした。病院の出口を出たときに、ふとあの医師の姿を思い出した。

そういえば、あの後全く現れなかったな~。

そう思いながら後ろを振り返った。そこにはただ、コンクリートとタイルで固められた病院という建物が建っているだけだった。




病院の四階のとある一室で、医師は外を眺めながら笑っていた。声を張り上げているわけではなく、口の右端を上へ押し上げての静かな笑い方だったが、その瞳には何か黒い感情が見え隠れしていた。そしてその視線の先には、退院して家に帰ろうとするすずの姿があった。

「お前の仲間だぞ?喜んだらどうだ?」

男は静かに笑い振り返った。するとそこには頭や体に電極をつけられ、コードでつながれた少年がいた。少年はベッドに寝ており、開いてはいるが何も見つめていないような瞳で天井を眺めていた。男はその姿を見ると、満足げに声を出して笑うのだった。




これといった会話はなかった。病院からの帰り道を二人で手をつなぎ、冬という季節の風を感じながら身を小さくして歩いていた。お母さんはなにやら考えている表情を浮かべていたが、時折私のほうを向いては笑顔を見せてくれた。たぶん私のことを気遣ってくれていたのだろう。しかし、その心遣いが私にうれしくもあり苦痛だった。お母さんが笑顔を見せるたびに、私が原因で困っているのに、その私のために無理やり笑顔を作っている。

「お母さ・・・」

「鈴はここから一人で帰れるわよね?」

苦痛に耐え切れなくなり発した言葉は、突然のお母さんの声にかき消された。

気付けば今自分たちがいる場所はT字路になっていて、ちょうど病院から家までの真ん中辺りだった。

「うん・・・。帰れるけど・・・」

突然に問いかけに驚いたが、知らない道ではなかったので帰れると答えた。もともと家から病院までの道だって私は知っていたから、道中のどの場所であろうと、一人で帰れないということはないのだ。

「じゃあここからは一人で帰ってちょうだい。私はちょっと用事があるから・・・」

お母さんの声には元気がなかった。元気の代わりに何か固い決意を感じさせる、そんな重たい声だった。

「うん、わかった・・・」

言われたことを素直に受け入れ、一人で帰ることを承知した。お母さんと一緒にいたいというのが正直なところだが、逆に私が無理やり作らせている笑顔を見るのはもういやだった。

「気をつけて帰るのよ・・・」

そういうと、着替えなどの荷物を私に預けて、お母さんは軽く手を振って帰り道とは違う角を曲がっていった。その後姿がなぜかもう二度と会えないような、そんな雰囲気をかもし出していた・・・。

私はしばらくその後姿を眺めていたがすぐに角を曲がってしまったので、私はあきらめて再び帰路に着いた。一人になると寒さが倍増したように感じられて、体も寒かったが心までも寒くなっていくような錯覚に陥った。しかしそんな考えを馬鹿らしいと思い、すぐに別のことを考えようとした。すぐ頭に浮かんできたのは今日の晩御飯の事。一日しかたっていないのにお母さんの料理がすごく懐かしく感じたからだ。別に豪華な料理が食べたいわけじゃないし、病院の料理が口に合わないとか食べ物の好き嫌いとかは関係なかった。ただお母さんが作ったカレーライスとかハンバーグ、コロッケなどの料理がほしくなっただけなのだ。

「お母さんが帰ってきたらお願いしてみようかな・・・」

願いは言葉になって、いつの間にか私は独り言をつぶやいていた。

そのとき何かに誘われたようにふと視線を横にずらすと、そこにはお寺があった。『清河寺』というそのお寺はあまり大きくはなかったが、小さな公園ぐらいのスペースは開いており、よく遊び場所として使っていた。和尚さんが一人で住んでいるらしく、よく私たちが遊んでいる姿を微笑みながら見ていたのを覚えている。

「ちょっと、寄っていこうかな・・・」

懐かしさに誘われるように、私はお寺へと入っていった。

清河寺は何も変わってはいなかった。遊戯用具などは何もなく、何本かの桜の木と、もみじ、イチョウが植えられていて、隅っこのほうには申し訳ない程度に竹林がある。その竹林も林とはいえないぐらい小さく、何本かがまとまってはえているだけだ。コケが生えた石もいくつかあるが、そんなみごとな庭園を作り出しているわけではない。それにその石は私たちやほかの子供たちが上に乗ったりしているので、コケが生えているのもごく一部で、削られたりして出来た傷のほうが多い。

私は、その小さなお寺の庭を懐かしく眺めた。最後にここに来たのはいつだったか・・・。夏はよく遊んだが、秋になり寒くなりだすと、なかなか家から出なくなってしまって、外で遊んでもここには来ずに友達の家に行ったりしていたから、ここ何ヶ月ぐらいは来てない気がする・・・。秋といえば、竹林のところに竹の子が生えていて、何人かで掘り起こそうとした時があって、ちょうどみんなで試行錯誤しているときに和尚さんが出てきて声をかけられたことがあった。

「あの時はさすがに怒られると思ったのになぁ・・・」

懐かしく口に出しながら、竹林に向かって歩いていった。ちょうど竹の子があったところに・・・。

和尚さんは怒らなかった。

声をかけられてみんなびくりと反応したが、振り向いた先にはいつもの笑顔で和尚さんが立っていた。

「竹の子かい?うまく掘り起こせるかな?」

笑いながらそんなことを言ってきた。怒られると思っていた私たちは一気に緊張がほぐれた。と同時に、その言葉を聞いた男子が「掘り起こしてやる」と、ムキになってしまった。その辺に落ちていた大き目の石や、どこから拾ってきたのかわからないような木の板を使って、一心不乱に周りの土を掘り起こす。しかし、やはり専門の道具ではないし、子供では竹の子掘りの知識もない。結果、土掘りの作業はまったく進まなかった。そして、一人の男の子が苛立ちのあまり竹の子を蹴りだしたのだ。

「何だよ、まったく取れそうにならないじゃんか~」

苛立ちを竹の子にぶつけたのか、蹴ればぐらついて掘り起こしやすくなると思ったのかわからなかったが、その行動に「まったく男子は~」といつものようにあきれながら眺めていた。その時。

「渇っ!!!!」

ものすごい怒声が響いた。

声に驚き飛びはねるような形で声のする方へ振り返ると、そこには険しい顔をした和尚さんがいた。

「今思うと、あれが最初で最後な気がするな・・・。和尚さんに怒られたの・・・」

竹の子を掘り起こそうとしても怒らなかった和尚さんがなぜ怒ったかというと、和尚さんはこう言っていた。

「いいかい、竹の子を掘り起こす。それは大いに結構。いそんなことに興味を持ち、いろんなことを体験する。それはまったく持って間違いではない。しかし、君たちや動物と違って動いたりしゃべったりしないからわからないかも知れないが、その竹の子も行きてる。懸命に生きているんだよ。もちろんその竹の子だけではないぞ?あの桜の木だって、足元の雑草だってみんな生きているんだ。桜は春になると桜の花で私たちを楽しませてくれる。もみじやイチョウは今、葉の色を変えて楽しませてくれているだろう?その竹の子だって地面から頭を出し、力強く成長することで、私たちを楽しませてくれる。それに掘り起こせば立派な食材として皆の舌を楽しませてくれるだろう?生き物や食べ物を粗末にしてはいけない。足蹴にしてはいけないよ」

っと。

私たちは皆わかった様なわからなかった様な複雑な顔になっていた。和尚さんはそんな私たちに気がついたのか、言葉を付け足した。

「この世界で生きているものは皆大切にするっていうことだよ。ましてやその竹の子は食べることが出来る。極端に言うと、君たちは誰かが足蹴にした食べ物を食べたいと思うかね?」

みんな黙ってしまった。意味がわからなかったからではない。完全に理解したかというとそうでもないのだが、なんとなく和尚さんが言いたいことはわかったからだ。そしてその後が大変だった。女子はみんな掘り起こすのはやめようといい、男子はみんなここまでやったんだから最後まで掘り起こすとゆずらない。喧嘩まではいかなかったが、長い口論が続いた末、女子の何人かは帰りだし、男子は掘り起こすのを続行することになった。私を含めた女子の何人かはお寺の縁側に座って、男子の行動を見守ることにした。その口論の間の和尚さんの困って表情は今でも覚えている。よかったような困ったような、複雑な表情を浮かべていた。

「あっ・・・」

竹の子があった場所に着くと、私は驚きの声を出してしまった。

その場所に竹の子はなかった。いや、その場所に竹の子と呼ばれるものはなくなっていた。あるのは、私の身長近くある、『竹』だった。

あの日男子は根気よく竹の子を掘り返していたが、一人、また一人と家に帰るものが現れだし、最後には一人になっても続けていた子も空が暗くなると同時にあきらめてしまっていた。

「どうだい?生き物って言うのは手ごわいだろう?」

最後まで掘り続けていて男子に向かって和尚さんがそんな言葉を口にしていた。

「すばらしい生命力だろう?」

数ヶ月前のことを事を思い返していると、突然後ろから声をかけられた。

後ろを振り返ると、その和尚さんが立っていた。いつもと同じ笑顔で・・・。

「その『竹』はな、ほぼ毎日掘り返される危機に立たされ続けたんだよ。しかし、それらを潜り抜け、今ではこうして立派に成長しておる。確かに竹は生長が早いが毎日毎日足場を掘り起こされ、揺さぶられ、それでも大地に根を張って、力強く成長し続けたんじゃ」

和尚さんはさらに優しい笑顔になって、『竹』を見つめていた。

「毎年、この『竹』のような植物の成長を見ていると、生命力の強さを思い知らされる。そして何より、『生』と言うものは、とても美しい・・・」

そこで、私のほうに視線を移し、「そうは思わんかね?」と、語りかけてきた。

「・・・そうですね・・・」

私は和尚さんと『竹』と交互に見つめながら、力なく答えた。

和尚さんが美しいという『生』。つまり命・・・。確かにこの『竹』はきれいだ。『竹』だけじゃない。竹林全体もこの庭も、よく見るとすべてが美しく見える。

けど、そんな『命』を美しいと考えている私自身はどうなのか?人の生き死にを見ては、何もせずに怯えている。ましてやそれを見なかったことにしようとまで考え出した・・・。こんな私はきっと・・・、汚いに決まってる・・・。

「外は寒いだろう?こっちにおいで。お茶ぐらい入れてあげるから・・・」

力無い返事をして、すぐに俯き黙り込んでしまった私を見て、和尚さんは何かを感じとったのかもしれない。私を本堂へと誘ってくれた。確かに寒かったのもあり、無意味に断るのも悪いと思って、私は和尚さんについていった。

本堂に上がると、思ったよりも広くきれいで、私と同じぐらいの大きさの仏像が一体とそれよりも二まわりほど小さい仏像が二体鎮座していた。もちろん台座などの装飾は細かく彩られており、掃除も行き届いているようでほこりひとつなかった。

私は、本堂の中をここまでまじまじと見つめたのは初めてだったので、興味深くあちこちを眺めていた。そうこうしているうちに、奥に行っていた和尚さんがお盆を持って帰ってきた。お盆には急須と湯飲みが二つ乗っていた。

「ちょっと熱すぎるかもしれないけど・・・」

腰を下ろした和尚さんは、そんなことをいいながら急須を少し振り、湯飲みへとお茶を入れていった。私はその近くで正座をして湯飲みを渡されるのを待った。

「ほらほら、足を崩していいよ。楽に座ってくれてかまわんから」

そう言いながら渡されたお茶は確かに熱く、しかし体を芯から温めてくれた。湯飲みから立ちのぼる湯気を見ながら私は足を崩し、ちらちらと庭と和尚さんを見ながら、湯飲みに二口目をつけた。

どれぐらいの時間が過ぎただろうか?たぶん十分とたっていないのだが、ゆっくりとした時間が流れ、お互い無口のままだった。湯飲みに入ったお茶は冷め始めていて、あと半分も無かったが、湯飲みを持つ手を温めるのには十分すぎるほどの熱を持っていた。

「何か悩んでいるのかい?」

突然、たずねられた。振り返り、和尚さんの方を見た。和尚さんは私の方を見ていなかった。ただ静かに庭の方を見つめ、お茶を飲んでいる。

「そんな暗い思いつめたような顔をしていれば、誰だってわかると思うよ?」

こちらの心を見透かしたように、和尚さんはしゃべり続ける。

「君はまだ若い。暇さえあれば遊びまわっている年頃だ。そんな子が何をそんなに悩んでいるのかね?」

和尚さんはゆっくりとこちらをみた。

「教会の神父さんではないが、こんな私でも悩みを聞くことぐらいは出来ると思うよ?」

驚いた。私はそんなに暗い表情をしていたのか・・・。そのせいで和尚さんにまで心配をかけている。私はやはり汚い生き物なのかもしれない。そう思ったとたんに涙があふれた。悔しかった。とても悔しかった。私のまわりのいろんな人がこんなにも心配してくれているのに、私自身はその原因を作るだけで、何もしようとはしなかった。怖くなって逃げようとしていたのだ。私は何をしているのだろう?いろんな人にいろんな迷惑をかけているのに・・・。それがとても悔しかった。

「泣かなくても大丈夫だよ。何かいやなことでもあったのかい?」

和尚さんは泣いている私を前にして、うろたえることなく優しい声で、語りかけていた。

「・・・私は・・・、私はいけない子なん・・・です・・・」

涙はとめどなくあふれ出してくる。私は嗚咽を抑えながら話し始めた。

「・・・私は、人に・・・、人に迷惑を、・・・嫌な思いを・・させてるんです。自分でも、自分でも・・・、どうしていいか・・・わからないんです。」

和尚さんは静かに聴いてくれた。

「私は、普通じゃ・・・、無くて・・・。わから・・・なくていい・・・事とか、言わなくて・・・いい事とかを、・・・言ったり・・・見たりする・・・んです。だから・・・めいわく・・・ばっかりかけて・・・いて、・・・私は、何を・・・、どうしたら・・・いいか、わからない・・・。ぜんぜん・・・わからない・・・んです・・・。」

すると私の頭に優しく大きな手が乗せられた。その手は暖かくやわらかく、私の頭をなでてくれた。和尚さんの手はこんなにも大きく優しかったのかと思ったが、そんなことは頭をなでられる心地よさの中に消えていってしまった。

「そうかい・・・、悩んでいたんだね・・・」

声が優しく響いてきた。

「苦しかったんだね・・・。悩むのはいいことだよ?考えて考えて・・・、考えることで人は成長できる。けどね・・・、考えたり悩むことで自分を追い込んじゃいけない。それは何も生み出さないからね・・・」

「でも・・・、私は・・・普通じゃなくて・・・」

「誰しも普通ではないよ・・・。みんながみんな特別な存在なんだよ・・・。そもそも普通なんてものがあると思うのかい?それは誰かが勝手に決めたことさ・・・。考え方や生き方は人それぞれ・・・。普通なんてない。・・・もっと言うと特別なんてものもない。どんなことがあってもそれがその人にとっては普通のこと、当たり前のことなんじゃ。普通もなければ特別もない。すべてのものやすべてのことがただあるだけ。正しいことも間違っていることも、気持ちいいことも気持ち悪いことも、すべてが当たり前にあるだけなんだよ。だから、悲しむのはおやめ・・・。悩むことはいい。どんどん悩んで考えて、成長していけばいい。ただ自分を追い込むのはやめるんだ・・・」

声を聞いているうちに涙は止まっていた。私の中で何かが変わったのか、何かが吹っ切れたのか・・・、確かに私の心はさっきとは違っていた。

「落ち着いたかね?」

最後まで優しい声に、ゆっくりうなずいた。

「力になれって何よりだよ。こんな私でもいいならまたいつでも相談しにおいで・・・」

「ありがとう・・・、ありがとうございます・・・」

今度は悔しさじゃなくて、優しさをかんじて泣きそうになってしまった。けど、また泣いたら和尚さんに悪いと思って、涙がこぼれそうになるのを我慢した。

「もういっぱい飲むかね?お茶」

笑顔で聞かれたが、私は断った。

「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」

湯飲みを和尚さんに返し、私は立ち上がった。

私は悩むのをやめた。答えが出たわけじゃないし、あきらめたわけでもない。ただ行動しようと思っただけだった。

「いいかい?」

立ち上がった私に和尚さんが声をかけた。

「鳥は空を飛べるし、魚は水の中でも呼吸できる。けどね、空が飛べない鳥もいるし、水中で呼吸できない魚もいるんだよ?みんな同じ生き物だ。じゃあ・・・、君が空を飛べてもおかしくないだろ?」

微笑みながら和尚さんはそんなことを語りかけてくれた。私はその言葉の意味を理解することが出来なかったのだが、一言、「そうですね」と、返事をしておいた。和尚さんは、にこやかな笑顔のままうなづいていた。

「すみません。わたし、ちょっと用事をおもいだしちゃって・・・」

そういって、私はお寺を後にしようとした。

「また、いつでも遊びにおいで。私はいつでもここにいるから」

「ありがとうございます。失礼します」

私は軽くお辞儀をすると、和尚さんの笑顔に手を振った。

お寺から出ると私は言えとは反対の方向へと足を進めた。

謝ろう。あの男の子に謝るんだ。

それが私を動かした全てだった。どうやって謝るかとかそんなことは考えてないし、男の子の家も入院している病院も知らない。けど、私は謝ろうと思ったから謝りに行くんだ。謝ったら何か変わるかも知れない。男の子が治るかもしれない。そんな希望もまじえながら、私の歩幅はどんどん大きくなっていった。そして、お母さんと別れたT字路へとついた。

「え~っと、・・・どうしよう?」

とりあえずこのT字路を目指していたので、ここからの道をどうしようか、まったく考えていなかった。ましてや、このT字路に戻ってくることが合っていたのかどうかさえさだかではない野田が・・・。

走行していると,ふとお母さんのことを思いだした。


『気をつけて帰るのよ・・・』


それが、お母さんと別れるときのさいごの言葉だった。

なんとなく確信はなかったが、お母さんが歩いていった方向へと向かった。それが正解かなんて事はまったく考えていなかった。ただ、こっちに行こうと思っただけだった。

お母さんが歩いた道を歩き、お母さんが曲がった角を曲がる。知っているのはそこまでだ。この後はどうしようと思いながら、適当に道を進んでいく。

「・・・!・・・・・・・・!!」

どこかから声が聞こえてきた。それは女の人がヒステリックに叫ぶ声・・・。嫌な思い出が頭をよぎる。しかし、逃げてはいけないと思ったのか、私はその声がする方へと足を向けた。声はだんだんと大きくなっていった。

「・・・!!・・でしょ!」

「そんなこと・・・・!!!」

ヒステリックに叫ぶ声は一人の女の人だけだが、どうやら誰かと言い争いをしているようだった。そして、角を曲がったとき、私の目に入ってきたのは、誰かの家の玄関で門扉をさかいにして言い争いをしているお母さんだった。

「お母さん・・・」

思わず走り出していた。言い争いをしているといっても、ヒステリックに叫んでいたのは相手の女の人だけで、お母さんはただ防戦一方と言う感じだった。

「うちの娘は何もしていません」

「まだ言ってるの!?あの子は鈴木さんだけじゃ足らずに、うちの子まで殺そうとしてるのよ!!」

「そんなことは絶対にありません」

走りながら何を言い争っているのかを聞いた。私のことだった。また、私のことで迷惑をかけている。また私が・・・。そこで考えるのをやめた。走って走って、その場に一秒でも速くつこうとした。よく見ると、言い争っているせいか、近所の人たちが窓や玄関から顔をのぞかせて二人を傍観していた。その中には私の姿を見ると、扉を閉めてしまうものや好奇の表情を浮かべるもの、あきれたような顔をするものまでいた。

『なんだ・・・、みんな普通じゃないじゃない・・・。人の不幸を楽しんで、そのくせ自分たちは無関係か・・・。なに?これ・・・。』

走るリズムで脈を打つ鼓動を感じながら、私は冷静に辺りを見ていた。そしてその時、確実に私の中で何かが吹っ切れたのだと思う。

「お母さん!!」

その場まであと五メートルほどまで近づいた時に声を上げた。言い争っていた二人はほぼ同時にこちらを向き、同じような驚きの表情を見せた。

「すず・・・。どうしてここへ・・・」

お母さんのその声が終わるか終わらないかの時に、家の門扉が開いた。そしてそこからひとつの影が飛び出してきた。それはもちろん男の子のお母さんだった。

「あんたたちは!・・・どうして!!」

先ほどと同じようなヒステリックな声を上げながら、彼女は私へと走りこんできた。その手には何か光るものを持ちながら・・・。

「すず!!」

ほぼ同時にお母さんも走る。

彼女が大きく振りかぶりだしたとき、私には彼女が何を持っているのかがわかった。『植木用のはさみ』だった。植木用のはさみは普通のはさみとは違い刃の部分が短い。しかし植物を切るという用途のために、刃は鋭く先端はとがっている。人を刺すことなどは容易に出来そうだ。

危ない!

とっさに判断した私は、走る足を止めた。

振りかぶり、自分へと振り落とされるはさみ。横から走りこんでくるお母さん。そのすべてが一瞬スローモーションになった気がした。

走っていたスピードを完全に殺せていない。このままでははさみで刺されてしまう・・・。お母さんは何をしようとしてるの?私を守る気なの?

その時、何を思ったのか、私は一度止めた足をさっきよりも早いスピードで踏み出していた。足は二・三度地面を踏みしめた気がするがあまり覚えていない。ただ私はそのスピードと自分の出せる精一杯の力で、彼女へと体当たりをしていた。お母さんは私に抱きついてきていたが、それさせも押し返す勢いだった。これが火事場のくそ力と言うやつなのかもしれない。私はお母さんを自分の体にくっつけたまま、彼女を押し倒していた。

「・・・っはぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

一瞬のことに止めてしまっていた呼吸を再開する。何が起きたのか整理するのはまずそれが必要だった。そしてゆっくりと辺りを確認していく。地面には三人とも倒れこんでいる。はさみは振り下ろされていた。どこかに刺さっているわけではなく、その刃を赤く染めて力なく握られている手の中に寝転んでいた。振り下ろした当の彼女は驚きの表情を浮かべて固まっている。私自身、激しい鼓動のせいで苦しかったが、痛いところはなかった。あまりにもひどい傷を負ったとき、人の痛覚は鈍るというから、ひょっとして気付いていないだけで、私はどこかを怪我しているのかもしれないと思い、自分の体を見渡したが、腰の辺りに広がっている血以外は傷も何も見つけることは出来なかった。

「えっ・・・」

私の腰の辺りでは、まだ血が広がっていく・・・。

「お・・・母さん・・・」

私の腰元にはお母さんがうつ伏せで倒れていた・・・。ゆっくりとお母さんを仰向けにする。その右目からは、おびただしいほどの血が流れ出していた。

「お母さん・・・!!」

思わずお母さんの右目をおさえる。どれだけ力を強くしても、おさえる場所を変えても、血は止まることはなかった。

「助けて・・・、誰か助けて・・・!」

叫んだ。誰かに言うでもなく、辺りに叫んでいた。

「・・・あぁ、・・・・あああ・・・・・」

傷つけた当の本人は、目を見開いたままガクガクと震えている。

「救急車!・・・呼んで!・・・誰か救急車呼んでよ!!」

私の声は住宅街の中で響き続けていた。




結論から言うと、母の右目はもう見えない。あの時に失明してしまったのだ。

救急車で病院に運ばれた母はすぐに手術室へと運ばれていった。その傷をつけた男の子のお母さんは警察へと連れて行かれてしまい、私は一人で静かに光る手術中の赤いライトを見つめていたのを覚えている。凄く凄く不安で怖くて心配で、涙を流すことも忘れてガクガク震えていた。手術自体はそこまで長いものではなかったが、その時間がとても長く感じたことは言うまでもないと思う。待っている間に連絡を取った父が駆けつけると同時にその赤いランプは光を失った。少しして出てきた医者から話を聞いたのだが、その時の記憶が私にはない。はっきり言うと、覚えてはいるのだが凄くぼんやりとしたおぼろげな記憶だけだ。しかし、その話が私たち親子に絶望的なまでの悲しみを与えたのは覚えている。

後日、母の元には男の子のお母さんが警察と一緒に謝罪に訪れた。私は自分のことを棚に上げて、深く頭を下げる彼女に罵声を浴びせていた。母の右目がもう見えないことや母を傷つけた事に対する恨みなど・・・。彼女はただ静かにその言葉を受け止めていた。私はどこからそんな言葉が出てくるのか、自分でもわからないほどに叫び続けていた。

「やめなさい鈴!!」

母の声が響いた。その時の凛とした力強い声はまだ私の中に残っている。母は私を叱り、彼女を許した。理由は子供。子を持つ親として、彼女の置かれている状況が痛いはどよくわかるから、錯乱してしまっても仕方ないということだ。その言葉を聞くと、警察は不起訴ということにして帰ってしまった。つまり、事件ではなく事故として片付けたのだ。母のその選択が正しかったのかどうかは、今になってもわからないままだ。ただ、彼女が涙を浮かべながら「すみませんでした・・・、ありがとうございます・・・」と繰り返しつぶやいていたのが強く印象に残っている。そして冷静になった私は、彼女の子供が同じ病院に入院していることを知った。そして当初の目的どうり、謝りに行ったのだが、その男の子の病室で見たものは当時の私にはとても異質なもので、一瞬にして言葉を失ってしまった。病室といっても面会謝絶になっていて入ることは出来なかったのだが、何とか理由をはなし、病室の横にある管理室に入ることが出来た。管理室の中にはいろんな機械が動いていて一定のリズムで音が鳴っていた。ゆっくりと足を踏み入れていくと、部屋の一部の壁がガラスになっていて、隣の男の子の病室を見ることが出来た。病室の中は真っ白だった。何もかもが真っ白だった。そしてテレビなどの家具類もなく、ただ白いベッドがひとつ横たわっていた。それだけでも異様な雰囲気だったが、もっと私が異質に感じたのはそのベッドに寝ている男の子を取り巻く状況である。ベッドの周りには何重にも透明なビニールのカーテンが下がっていて、真っ白な部屋の中からさらに男の子を隔離していた。当の男の子は、意識がなく眠っているようだが、その体には何本ものチューブが伸びており、点滴や機械につながっていた。例えるならそれは人造人間でも作っているような・・・、人間なのか機械なのか?そして死んでいるのか生かされているのか?私にとってその光景は異様で異質で気持ちの悪いものだった。思わず言う言葉も忘れ、口を押さえて足早に部屋を出て行ってしまった。まだその時には私は自分のせいだと感じていたのだと思う。

その後母は順調に回復していった。もちろん右目は見ないままで、時折見せる母の悲しそうな顔が私を追い詰めていた。もちろん母は私に気付かせまいと強気に振舞っていたのだが、それが逆に苦しくなったときもある。しかし母は回復していく、男の子と違って・・・。

男の子は日に日に悪くなっていくようだった。一度病室に行ったあの日以来、お見舞いには行っていないが、母を見舞いに来る男の子のお母さんや看護婦さんに聞いて、状況はわかっていた。私自身その症状からいろいろ考えてみたり、本屋や図書館で調べてみたりしたのだが、結局何もわからずじまいだった。そしてそんな日々が続いた数週間の後、母が退院することになった。病棟が違うこともありあの医師と出会うことはなかったが不安は常につきまとっていた。しかし病院に通うのももう最後だと思うと、やはりどうしても男に子に謝りたいという思いが強くなった。小児科ということは医師と会う確率が高くなる。どうしようかと悩みながら母の退院の準備をしていると、「鈴・・・」と母に呼ばれたのだ。

「あなたが今何を考えているか大体わかるわよ・・・」

いきなりこんなことを言われてしまった。思わず固まってしまったのだが、母はそれでも話を続けた。

「いい、したい事があるなら出来るうちにやっておくんだよ?そうしないと後悔っていうしたくもないことをするようになってしまうからね?」

母は微笑みながら私の顔を覗き込んでいた。どれぐらいの時間黙り込んでいたのかは覚えていないけど、少しの沈黙の後、「わかった!」といいながら私は病室を飛び出していた。

男の子の部屋まで行くと部屋の前の廊下では、男の子のお母さんと医師がなにやら話をしていた。私は二人に近づき、退院の挨拶をしたいとお願いした。二人は普通に私の願いを聞いてくれて、私はまた隣の管理室へと入ることが出来た。男の子につながっているチューブの数が増えている気がしたけど、その時は男の子が起きていて、私に気付いたときに驚いた表情をしていた。私も男の子が起きていたからかどうかはわからないが、前回ほどの異様な雰囲気はなく自然に笑顔を作ることが出来た。

部屋に入っていくと、ガラスの壁の前におかれている机へと案内された。机の上にはボタンが三つほどあり、一本のマイクが伸びていた。簡単に説明を受けて、そのマイクとボタンが、病室の男の子と会話をするためのものだとわかり、すぐに話しかけたのを覚えている。確か最初の一言は・・・、

「あー、あーー。聞こえる?聞こえてる?」

だったかな?その言葉が終わると、男の子もベッドの横から何かスイッチを出してきた。

「聞こえるよ。お姉ちゃん」

それはこちらへと声を伝える向こう側のマイクのスイッチだった。その時聞いた男の子の声はかすれていて弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。

「まさひろ君、元気?って、そんなわけないよね・・・。つらいかもしれないけど、がんばって!」

事の当事者じゃないからこそ言える偽善的な言葉をはなしかけていた。その時の私は自分とその男の子との関係をうまく整理できないでいたのだ。しかし、つまらないありきたりな言葉を伝えるためにここに来たのではないと思い、整理できないならそれをそのまま言ってしまえと、子供ながらに決心した。

「あのね・・・、私、あの・・・」

「ありがとう」

意を決して発した言葉を男の子は途中でさえぎった。それも感謝の言葉で。私には何が起きたのか、何を言っているのかが少しの間わからなかった。けど男の子はそんな私にかまうことなく言葉を続けたのだ。

「・・・けど、ゴメンね。お姉ちゃんは悪くないのにね・・・。来てくれて、・・・ありが・・とう・・・・」

それが最期の言葉だった。

部屋の中で一定のリズムを刻んでいた音がリズムを刻まなくなった。次の瞬間から部屋の中も外も、もちろん病室もばたばたと騒がしくなった。あまりこの騒がしさや慌て様は覚えていない。その時私は少し苦しそうな表情のままで動かなくなってしまった男の子をぼんやりと見ていた。部屋に響く電子音も、医師や看護士たちの慌しい動きも、男の子のお母さんの泣き声でさえ、私のとってはどこか遠くでの出来事だった。後から聞いたはなしだと、私は看護士に言われて部屋を出るまで、放心したような無表情な顔で涙を流していたそうだ。こうして、母の退院とともに、その男の子は死んでしまった。

私は、あの子に謝ることが出来なかったのだ・・・。




「はぁ~~~」

授業中、窓の外を眺めながらため息をつく。また昔のことを思い出してしまった。何か嫌な事や事件があるといつもこうだ。いい加減自分の性格が嫌になる。思い出さなくてもいい事を思い出して勝手に気分を沈めて・・・。

「何してんだろ・・・」

誰に言うでもなくボソリとつぶやく。その瞬間、チャイムがなった。普通の人ならば、学校の授業を終わらせるチャイムと言うものは喜びを運ぶものだが、私にとっては違った。私は学校で孤立している。いや、学校だけではなく、この地域一体で私は孤立しているのだ。この地域では過去の一件以来、私のうわさがあることないこと飛び交い続け、そのうちに『死神』やら、『疫病神』などとわけのわからない陰口を叩かれ続けている。確かにその件以降自粛していたつもりだが、思わぬところでボロが出るというか、一言多いと言うか・・・、余計なことを言ってしまい周りをおびえさせた。言うだけならまだいいのだが、それは必ず現実になる。いいこともあればいいのだが、もちろん私にわかるのは人の死だけだ。人の死ばかりを予言する人間など気持ち悪がられて当然だろう。もう今では近づいてくる人もいない。

「はぁ~~~~~~~~~~~」

さらに長いため息。窓からは校庭が眺めることができて、体育の授業が終わり、ダラダラと校舎に戻っていく生徒達が見えた。この学校に通うようになってからのほぼ毎日見続けてきた風景。いつもの日常だ。結局何も変わらない。私も私を取り巻く世界も・・・。わかりきったことを心の中でつぶやく。私はどこかで期待していたのだろうか?この世界が変わることを・・・。

その時、校庭の端っこの方にある校門に人が立っているのが見えた。何か紙切れのようなものを持って、校門と紙を見比べている。そして学校全体を見渡した後、名残惜しそうに視線を学校の校舎に向けたままどこかに歩いていってしまった。

「あの人・・・」

顔はよく見えなかったが、全く持って知らない人だということはわかった。服装が学生服っぽかったから、私と同い年ぐらいだろうか?こんな時間に学校にも行かずに何してるんだろう?とは思ったが、そんなことよりもまた見えてしまった。見てしまった。

「・・・・、・・・まぁ、関係ないか」

そして、また授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。先生すらも恐れて、授業中に指されることもなくなったのだが、そういう性格なのか授業はまじめに受けている。テストの点数もいいほうだ。私は頭を切り替え、授業に集中することにした。




いつもと何も変わらない、つまらない一日が過ぎていった。

学校が終わり、友達と遊びに行く話しをしている人たちを横目に見ながら、私は一人帰り支度をして、何も言わずに靴を履き替え、静かに校門を出た。朝来た道を同じように戻っていく。坂道を下りながら朝の事故現場を横目に眺める。別に何の意味もなく、軽くため息をつきながら通り過ぎた。その時、私の肩を軽くたたくものがいた。

「そこのちょっと寂しいお嬢さん」

声をかけられた、思わず振り向いてしまう。

そこには私とは違う学校の学生服を着た男の子が立っていた。短めの髪を少し茶色に染めていて、制服のブレザーは紺色で、本当ならばネクタイを締めているのだろうその首元はだらしなくボタンがあいていて、ネクタイのネの字もない。ブレザーのボタンは全て開いていて、くしゃくしゃのシャツが見て取れた。もちろんそのシャツはだらしなくズボンからはみ出しており、その情けない姿をさらけ出していた。しかしその格好が今の若者の流行なのかも知れないし、少し悪を気取りたい人間ならばこれぐらいの服装はするだろう。たしかにこれぐらいの少しだらしないぐらいが女の子にもてたりするのだろうし、学校という小さい社会へのささやかな反抗を服装で表現もする。しかしはっきり言って、少しのお世辞にも格好いいとはいえなかった。この男の格好はわざとそうしているのではなく、ただそうなっているだけにしか見えない。普段の適当な生活態度がそのまま服装に出てきているだけなのだ。

「君、鈴音ちゃんでしょ?河野鈴音ちゃん」

だらしない服装を見ていたら、突然名前を言い当てられた。思わず擦り切れてボロボロの上にドロの汚れがこびりつきだらしなくよれよれになっていたスニーカーから顔を上げ、相手の顔へと視線を向けた。そんな汚いスニーカーから視線が移ったからだろうか、じっくりと見つめた相手の顔はきれいに整っていた。卵形の輪郭にバランスのいい整った顔立ち。くりっとしたおおきな茶色の瞳はかっこいいというよりかは可愛いという印象を与えた。

「あれ?人・・・違い・・・だった?」

服装とのギャップのせいで思わず言葉を失ってしまった私に、男は言葉を続けて投げかけた。はっとして、言葉を返す。

「あなたは何ですか?」

質問には答えない。そして質問で返す。もちろん睨みつけながらだ。こんなよくわからない相手に丁寧に付き合ってどうする?

「俺は、進藤大輔。鈴ならダイって読んでくれていいよ!」

笑顔で返された。私が答えなかったのを正解ととったのか、そのまま言葉をつづける。

どうしてこんなになれなれしいのか?いきなり私のことをあだ名で呼んでるし、自分のこともあだ名で呼べといっている。いきなり自分の名前を言われたときから少し気持ち悪い感じはあったが、ここまでくるとむかつきに変わった。

「今帰りなの?」

「あなた何なんですか?ナンパならほかでしてください」

「今朝この辺で事故があったんだってね~」

「顔は悪くないんだから、ちゃんとした服装なら誰か引っかかるかもしれないよ?それじゃあね」

まったくかみ合わない会話をして私は男に背を向け歩き出した。すると今度は力強く肩をつかまれ、振り替えさせられた。

「事故にあった人は男?女?死んだの?」

突然の質問。さっきまでとは違う私の核心を突いてくる質問だ。

「今朝ここにいたんでしょ?見えてたんでしょ?」

その言葉が終わると同時ぐらいに私は後この手を振り払った。もちろん思いっきり力をこめて叩き落とす感じにだ。

「女です。もちろん死にましたよ。あなたも死にたいんですか?私の近くにいたら死んじゃいますよ?」

睨みつけながら、力強い声で嫌悪感を丸出しにしながら言い放った。突然の反撃に男が何も言えなくなっているのを確認すると、「それじゃ」と一言残して背を向けた。そして、またひとつため息をついて家へと歩き出した。

男はしばらく立ち尽くしたまま、小さくなっていく彼女の背中を見ていた。

「そんなこと出来ないくせに・・・。強がっちゃって・・・」

男は軽く笑うと、少女とは違う方向へと歩き出した。




「ふう・・・」

箒の動きを止めてため息をついた。まだ夏には早いといっても、先月と比べるとさすがに暑い。『清河寺』の庭は掃除してみると意外と広い。さらに日差しをさえぎるものがまったくといっていいほど無く、建物の影でさえ庭とは反対の方向に伸びている。

「日もほとんど沈んでるって言うのに・・・。なんでこんなに暑いんだろう?」

私は今この『清河寺』の庭を掃除している。別に仏教に目覚めたわけでもないし、ご先祖様が枕元に立ったわけでもない。昔のあの一件の後、ふさぎこんでいた私は毎日をただ過ごしていた。過ごしていく日々の中には何も無かった。無駄に時間が過ぎていって、無駄に毎日を過ごしていく。当然、無視やいじめが始まりだしたのもこの時期だ。しかし当時の心境のせいか、いじめがあったことは覚えているのだがつらかったというのは無い。

その時の私は外の世界よりも自分の中の世界で精一杯だった。自分がどうしてこの場所にいるのかがわからなかったし、生きている意味さえもわからなかった。ちょっと大げさすぎる言い方だと思うし、もともと人生に意味なんてものは無いと思うし・・・、ただ言える事は、子供なりに出来る最大限の悩み方をしていたって事だけだ。悩んでいたことは今考えるととてもくだらないことだったし、結局答えも出てないし、お答えが出るような考え方なんかしていなかった。ただひとつのことを考え出すと、悪い方悪い方へと考えていって、最終的には自分には意味が無いとか、自分がここにいたら人を不幸にするとか・・・。そんなことばっかりしていたから常に一人がよかった。ひとつの考えに思考をめぐらせているときも、馬鹿な考えに行き着いて落ち込んでいるときも、私は一人でいたかったのだ。だから無視されていたことは知っていたが、ぜんぜん苦にならなかった。むしろよかったとさえ思っている。しかし、子供のいじめは無視するだけではない。いろいろと物理的ないじめも受けてきた。靴を隠されたり消しゴムのカスを投げられたり・・・。しかし、私がいじめられる原因が原因だけに、そこまで派手にひどいものは無かった。本当に子供のお遊び程度なものだった。そのいじめは鬱陶しかったし、考えを進行させる手助けをしてしまった。私はいじめをしてくる相手を憎むのではなくて、いじめの対象になっている自分を憎んでいってしまったのだ。

「はぁ・・・」

当時を思い出し、短くため息をついた。情けないやら恥ずかしいやらよくわからない感情が胸を満たしていく。

「鈴音さん。ちょっと休憩しませんか?」

突然背後で和尚さんの声がした。和尚さんが今何を考えていたのか知るはずも無いのに、少し顔を赤らめて振り返り、「そうですね」と微笑み返す。しかしこれがいけなかった。赤く高揚した私の顔を見た和尚さんは、

「大丈夫ですか?こんな暑い中で帽子もかぶらずに作業するからですよ」

と、勘違いの気遣いをしてくれた。

「いえいえ、違います~。確かに暑いですけど大丈夫ですよ。ただ・・・」

「ただ、なんです?」

「昔の・・・、ここを掃除するようになった時のことを思い出してたんです。たしか小学生のときでしたよね」

顔が赤くなった理由を和尚さんに話して、さらに顔を赤らめる。もちろん和尚さんは顔が赤くなる理由がわからずに不思議な顔をしていた。

家から小学校までの通学路の途中に、この『清河寺』はない。しかし、当時変な考えに取り付かれていたわたしは、学校からの帰り道をわざと遠回りして、無駄に時間を消費しながら帰っていた。その無駄な遠回りの帰り道の途中にこの『清河寺』はあるのだ。足下だけしか見ないような角度の深い俯き方でわたしは歩いていた。最初のころはそれこそ何も考えずに素通りを繰り返していたのだが、ある日ふとした時に顔を上げると、ちょうどそこはこの『清河寺』だった。ちょうどその時、『清河寺』の庭の奥で掃除をしている和尚さんが見えた。和尚さんは箒の動きを止めて、伸びをしながら腰を叩いていた。そして何気にこちらを見ると「やぁ」と、軽く声をかけてくれたのだ。しかし、その時私は何を思ったのか、その挨拶には何も答えずに一目散に走って逃げてしまったのだ。本当にあの時は馬鹿をした。

わたしはお寺の縁側に腰掛け、和尚さんが入れてくれたちょっと苦めのお茶を口にした。

「あのときのあなたは、最初はおどおどとした態度で話しかけてきたかと思ったら、突然何か固い決心をしたような力強い目をしだすもんだから、何事かと驚きましたよ」

和尚さんが当時のことを話し出した。

「でも今でも続いてますからね。立派ですよ」

逃げ出したわたしは、家に帰ると、自分がした行動がとても馬鹿で恥ずかしいことだと思った。一番大切なときにわたしが意思を固めるための助けをしてくれた人にあの態度は無かった。わたしは一晩後悔と今後どうするかを考えて、次の日の同じ時間帯に、また『清河寺』を訪れていた。今度はちゃんとお寺の敷地内に入り、和尚さんの前まで歩いていった。和尚さんは昨日と同じように庭の掃除をしていたのだが、額に軽く汗をかき、何度も痛そうに伸びをしながら腰を叩いていた。

「和尚さん」

大きな声で声をかけた。よく考えるとその時は家族以外の人に何週間か振りに声をかけたのだ。そのせいか声は少し上ずったようになってしまい、和尚さんは驚いたように目を丸くしてしまった。そんな失敗もあり少し戸惑ったが、わたしは助けてもらったときの感謝の言葉と一日悩んだ末の決意を口にした。

「和尚さん、この間はどうもありがとうございました。そのお礼といっては何ですが、いつも大変そうだから、庭の掃除をこれから毎日わたしがします」

後半はほぼ叫んでいたと思う。確かに「なぜ?」といわれても仕方の無いような、よく意味のわからない決意である。しかし当時のわたしはこれぐらいが精一杯だったのだ。しばらくの間きょとんとしていた和尚さんは少し笑うと、

「いいよいいよ。あの時はただわたしがしたいようにしただけ。感謝されるようなことはしてないよ。それにもしわたしが感謝してほしいと思っても、さすがに庭の掃除は大変すぎるからね~」

といいながら、わたしの頭をなでてくれた。しかしわたしは引き下がらなかった。

「いえ、わたしがやりますから、和尚さんは休んでいてください」

そう言うと、わたしは強引に箒を奪い取ると、何も言わずに庭の掃除を始めた。一生懸命さと恥ずかしさが入り混じった感じで、何かをしゃべる以前に和尚さんの顔を見ることも出来なかった。

それから、何時間ぐらい掃除しただろうか?日はとうに沈み、庭の全景がぼんやりとしか見えなくなってきたころに掃除は終わった。庭掃除が初めてだったせいもあれば、箒などの使い方に慣れていないこともあって、驚くほどに時間が掛かってしまったのだ。額の汗をぬぐいながら、「やっと終わった・・・」と思っていると、「掃除は終わりましたか?」と。突然背後から声が聞こえた。振り向くとそこには優しく微笑む和尚さんがいた。

「お掃除ご苦労様でした。お茶が入ってるから、ちょっと休んでいきなさい」

和尚さんはそういうと、すたすたと本堂の方へと歩いていった。わたしはお茶を頂くのは悪いと思ったし、それが目的で掃除をしたわけではなかったから、少し躊躇したが疲れには勝てなかった。体は休憩と水分を欲していたのだ。そして、少しほほを赤く染めながら和尚さんについていき、ぬるめのお茶と少しをお菓子を頂いた。一息つきながら、わたしは自分の掃除した庭を見渡してみた。まだ全体には手が行き届いていなくて完璧とは程遠い有様だったが、なぜかわたしはこれでもかと言うほどに満足したのである。満足と言うと少し語弊があるが、少し言い方を変えると感動したのだ。別にうれしかったわけじゃないし、悲しかったわけでも無いが、なぜかその時、庭を眺める私の目には涙が零れ落ちていた。そんなわたしを見ながら、和尚さんは優しい微笑のままこう告げた。

「この前からだけど、最近何かつらいことや嫌なことがあったんだね?いいよ。何かを忘れるためでもいいし、自分を戒めるためでもいい。ただ、わたしのためといいながら、掃除をするのはやめなさい?掃除は自分のためにすること。自分を守るための一つの手段として考えなさい。わかったね?」

和尚さんは別に怒っているそぶりも見せなかった。

たしかにわたしは私自身のひとつの逃げ道として、掃除を考えていたかもしれない。このまま私は逃げたかったのかも知れない。しかし、そんな心をみすかしたような言葉をかけてもらったこともあり、わたしは逃げずに今でも掃除を続けている。ことの発端は恩返し。そして何かひとつのことに没頭したい欲求。続けることが出来たのは意地か強がり。そして今では日常となってしまった。庭を掃除すること、お茶を頂くこと、ふと一息入れること。幸せなんてだいそれた感情ではないが、生きている実感がなぜかわいてくる。最近ではそれがないと一日が終わった感じがしないのだ。長い間この掃除は続いていて、よく和尚さんの話し相手にもなって、たまにはわたしの話も聞いてもらっていた。何があってもわたしはこの場所に来て、掃除なりお話なりをして来れたから、私は私でいられるのかもしれない。

「でも突然どうしたんですか、昔のことを思い出すなんて?」

和尚さんが微笑みながら尋ねてきた。別に思い出した理由はこれといってなかったので、私は「別に、ふと思い出しただけですよ」といって、また庭を隅々まで見渡した。すると、庭の端、と言うよりお寺の入り口付近に一人の男が立っていた。あの男だ。学校帰りに声をかけてきた男。なぜこんなところにいるのだろう?そう思っていると、男は何の躊躇もなくお寺へと入ってきた。あのだらしない格好のままで静かに歩いてくるのだ。

「おや?」

和尚さんも気付いたようだ。しかし気付いたからといって、ここはいつも子供達や近所の人たちに開放している。不審がったり追っ払ったりなんかはもちろんしない。ただ、眼を細めながら誰か確認しようとしているだけだ。男は何も言わずにどんどんと近づいてくる。庭を見学するためや休むためにではなく、まっすぐに私のほうへと歩いてくる。あと五メートルぐらいと言う距離になったとき、男は私の顔を見ながら得意げに口の端をあげた。

「なっ!」

男の勝ち誇ったような表情に一瞬ムカッと来て、思わず勢いよく立ち上がってしまった。しかし男はひるむこともなく歩き続け、そのまま私の前を通り過ぎていった。予想外の出来事に思わずキョトンとしてしまったが、すぐに男のほうへと振り返った。すると男は和尚さんに頭を下げていた。

「久しぶりです。和尚さん」

「へ?」

なぜ頭を下げているの?そして今この男は「久しぶりです」と言った?どういうことだろう?二人は知り合いなの?そんなことを思いながら和尚さんの方を見ると、なにやら困惑した表情をしていた。そして口を開いたと思ったら、

「どなたでしたかな?」

どうやら知り合いではないらしい。

男は表情一つ変えないで顔を上げ、質問に答えた。

「俺ですよ。四年前に助けていただいた・・・」

すると和尚さんは何かを思い出そうと眉間にしわをよせた。そのまましばらく考えると、男のことを思い出したのか、驚いたような喜んだような表情になった。

「進藤・・・、進藤・・・大・・・。進藤大輔君か!?」

和尚さんはハッと思い出すと、ひとつの名前を呼んだ。すると進藤と呼ばれた男は、さらに笑顔になり、再び頭を下げた。

「どうも久しぶりです。あのときは本当にありがとうございました」

「いやいや、そんなことは全然気にしなくていい。それよりどうしたんだ?いきなり」

男は顔を上げると、和尚さんの隣へと腰掛け、話し始めた。私は無視されたままだ。

「施設に入ってからは、ちゃんとした生活が出来ました。相変わらず記憶は戻りませんけど、施設の人たちは親切にしてくれたし、友達も大勢いました。施設で過ごした三年間はとても楽しかったし、忘れることの無い思い出だと思います。けど俺は常に何か申し訳ない気がしてて・・・。記憶も無いし、お金とか才能とか・・・、施設のみんなに役立てるようなものが何も無かったからかもしれません・・・。そんな俺が一人いるだけで、施設の経営とかが苦しくなってる気がして・・・。とにかく、施設は一番居心地のいい場所だったかもしれませんが、同時に俺の心も締め付けてたんですよ。・・・なんか変なこと言っちゃいましたけど、とにかくこの春からバイト始めたんですよ。もともと二年ぐらい前から少しずついろんなところで手伝いとかしてお金をためてたんで、この際決心して一人暮らしをしたんですよ。もちろん施設には少ないですけど毎月お金を送ってます。少しでも恩返しができたらってね。で、住んでるところがこの近くなんです。このあたりの場所にいたら何か記憶がもどるかもしれないし・・・」

重い・・・。何か重い話をしている・・・。

軽く無視されたことになぜか少しの怒りを感じたが、話している内容が内容だけに、ただ立ちつくすだけで、声を出したりすることも出来なかった。

「・・・そうですか・・・。いろいろ大変だとは思いますが、君が自分で選んだ道です。がんばりなさい。しかし、大きくなって・・・。しっかり成長してるね」

和尚さんは進藤という男に微笑みかけた。私に対する微笑とは少し違う、自分の子供でも見るような優しい瞳だった。少し嫉妬。しかし同時にこの男は和尚さんにとって大切な人なんだと理解した。

「ありがとうね。けど大丈夫だと思うよ。こんなかわいい子にも出会えたしね~」

といいながら、男は私に視線を向けた。それにあわせて和尚さんもこちらを向く。もちろんそこには私しかいないわけで、呆然と立ち尽くしてた私は突然二人に見つめられる形となったわけだ。突然投げかけられた視線にワタワタしていると、

「可愛いだけじゃなくてとてもいい子だよ?もう目をつけたのかい?」

和尚さんが視線を戻した。

「いい子?この子が?さっき話した時はなんか冷たかったけどな~」

「何だ?二人はもう会ったことがあるのか?」

「ちょっと、冷たいって何よ!?話したとか言うけど、あんなのただのナンパじゃない!」

思わす声を上げてしまった。当然二人の視線はこちらへと向く。座りながら話をしている二人と立ち上がって声を上げている私。なにこれ?私馬鹿みたいじゃない。とたんに顔が赤くなるのがわかって、何も言わずに静かに腰を下ろした。たぶん私の顔はいまごろ真っ赤なのだろう。

「ナンパ?」

和尚さんが疑問げに声を出した。そしてそのまま男の方を向く。

「いや、ナンパって言うか・・・。・・まぁ・・・、可愛かったからね・・・」

男は少し帯びえた様子で和尚さんの無言の問いかけに答えていた。

「まったく、引っ越して早々何をしてるんだ!」

「ごめんなさい」

条件反射なのか、和尚さんが少し声を荒立たせただけで、男はすぐに謝ってしまった。その姿が最初に声をかけられた時と、あまりにもギャップがあったので、思わず笑ってしまった。それに合わせて和尚さんも笑いだした。そもそも別に本気で怒るつもりなんて毛頭無くて少しからかっただけなのに、リアクションがオーバーすぎて逆に驚いたぐらいだと笑いながら言っていた。男は二人の笑い声を聞きながら、ばつが悪そうに照れるだけだった。

そしてそのテンションのまま、三人で談笑が始まった。とりあえずの自己紹介から始まって、なぜ私がここにいるのか、進藤は何のバイトをしているのか、そして学校はどこかなど、いろいろとお互いのことについて話をした。もちろん和尚さんも入ってきて、過去の恥ずかしい話や笑える話などをお互いに暴露されていた。

そうこうしているうちに日は完全に沈んでしまい、そろそろ帰らないといけない時間になっていた。まず最初に切り出したのは以外にも進藤だった。

「あっ、ゴメン。俺まだ完全に引越しが片付いてないんだ。部屋中ぐちゃぐちゃだから、早めに帰らないと・・・」

「そうか、たしかにもう遅いからな」

「じゃあ、私がこれ片付けとくから先に帰りなよ」

三人での談笑も終わることになり、私は湯飲みなどをお盆に載せてお寺の奥のキッチンで洗物を始めた。片付けといってもすることはこれぐらいで、五分ぐらいあれば簡単に終わってしまう作業だ。最期の湯飲みの水を切り、皆がいた場所に戻ると、進藤はまだ和尚さんと話していたようで、帰ろうと立ち上がったまま、その場所で話を続けていた。そして私の姿を横目で確認すると、「それじゃあまた今度」といいながら、背を向けた帰っていった。それを言うために待ってたのかと思うと、あいつもそこまで悪いやつじゃないのかなと思ったが、やはり一番最初のあのチャラチャラしたイメージを完全に払拭することは出来なかった。

「あっ!」

私はひとつ大事なことを伝え忘れていることに気がついた。そしてそれを伝えるために、たった今お寺を出て行った進藤を追いかけた。進藤の歩くスピードはそんなに速いものではなく、門を出たすぐのところで捕まえることが出来た。

「はぁ、はぁ、ひとつ、言い忘れてた」

ほんの少ししか走っていないのに、もう息が切れている。普段からちゃんと運動しないとなぁと思いながら、言葉を続ける。

「あのね、普段町とかで私を見つけても絶対に声をかけないでね。私、この町では浮いてるから・・・、私と仲良くするとあなたまでそうなっちゃうから・・・。ね?」

もちろん自分が気持ち悪がられているとか自分の能力なんかは、何も知らない人には知られたくないと思う。だから、あいまいな感じの言い方にしたのだが返ってきた答えは意外なものだった。

「わかってるよ。鈴のこと、俺知ってるから」

それだけ言うと進藤は歩みを再開させた。意外すぎる返答に私呆然としてしまった。なにか納得いかないが、わかっているならいいか。と、むりやり自分を納得させて、私も帰るためにお寺へとかばんを取りに帰った。本堂では和尚さんが先ほどと同じ場所に立ち、ぼんやりと庭をながめていた。私が近くまでより自分のかばんを取ると、和尚さんは顔をこちらに向けないまましゃべりだした。

「あの子はな、四年前に私が見つけた子なんじゃよ。たしか、二月ぐらいだったかな・・・?まだ気温は冬のそれで、とても寒かったのを覚えているよ。朝のお勤めをしようとまだ辺りも暗いうちに起きて・・・、ちょうどあの辺りだったかな?」

和尚さんは庭の一箇所を指差した。

「あの辺りにな・・・、周りは真っ暗なのにあそこだけ青白く光ってたんじゃよ・・・。なんだろうと思ってな・・・、目を凝らしてみてみたら男の子が立ってるんじゃよ。外出するには薄すぎる服で、なぜか白衣のを持って寒そうに震えてた・・・」

和尚さんが指差す場所に視線を向けて、震えている進藤君の姿を想像した。それはとても痛々しく悲しい光景だった。

「思わず怒鳴ってしまったよ・・・。なにしてるんだ~!ッてね。進藤君は一瞬ビクッとしただけで、後はなにかとても悲しい目をこちらに向けるだけだった。私はその目に思わず言葉を忘れてしまってな、呆然としているとあの子は何もいわずに出口に向かっていったんだよ。白衣を引きずりながら少しずつ少しずつ。もう何がなんだかよくわからなかったよ。何かに化かされてるのかとも思った。けどよく見てみると、あの子は靴も何はいてなくて、何処からか同じように歩いてきたその足は黒く汚れてて、所々赤かった。それを見た瞬間もう我慢できなくてね・・・。怒鳴りながら無理やり本堂に連れて行ったんだよ」

「そう・・・なんですか・・・」

なんと言えばいいかわからず、とりあえず相槌を打つ。

「その後もいろいろと大変でね。家も両親もわからないとか言い出して、記憶喪失だということがわかった。足のけがもあるし病院に行こうと言うと、これ以上無いと言うぐらいに嫌がったりして・・・。一ヵ月後には施設に行っちゃうんだけど、それまでは本当に暴れん坊でね、よく叱ったのを覚えてるよ・・・。けど、あの子は本当に素直で優しい子だから、仲良くしてやってな?」

和尚さんはそういいながらこちらに振り向き、いつもの優しい笑顔で微笑んでくれた。

「長い昔話をしてしまったね。もう遅い、気をつけて帰るんだよ?」

優しく投げかけられた声に「はい」っと元気よくこたえ、私は家へと帰った。あんなにチャラチャラしたような奴にも、暗い過去はあるんだなぁなんて、そんな事を考えながら・・・。

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