箱入り娘
箱入り娘を書いてみました。
箱入り娘、なんて言葉が似合うのは小学生まで、と昨日友達と話した。
当然、その友達は箱入り娘だという事を自覚しているわけじゃなくって、あくまで過去形。つまり、箱入り娘だった、という話をしていた。でも、その子の家の執事がいつも校門まで迎えに来るし、リムジンタイプだし、「パパのお得意様のおごりでフォアグラ食べちゃったんだー。でも、あの店は最低。うちのほうがおいしいよ」なんて事を聞くと、今でもあの子は箱入り娘なのではないかと思えてくる。まぁ、あたしだって他人のことは言えない。それもこれも正真正銘の箱入り。ある意味、そういうブランドのよう。家からの送り迎えは当然のようにあるし、プール備え付けの庭に大きいゴールデンレトリバーが一匹。名前を「てんてん」という。
父の書斎で見つけた「マンガ」と呼ばれる書誌の中にそんなタイトルのものがあった。あたしは新書が読みたかったから父の書斎に入ったのだけれど、思わぬものを見つけてしまい、読みふけっていると父が帰ってきて、あたしに耳打ち一言。
「ママには内緒にしてくれ」
どうにも引っかかったが、あたしはお気楽に毎日のように伊勢海老やら珍妙な名前の付いた珍味を食べる生活。内緒にしておいて全て円満ならば、それで幸せ。箱入り娘、とメイドの一人が言っているのを聞いたけれど、心が東京ドームのように広いあたしには関係ないやと聞き流した。それだけ大事にされているのだから、むしろ誇るべき。今までだってそうだし、これからもそう。だから、その日の朝、起き上がった視界の中に映ったのが異様であっても何も気にしなかったのは仕方がない。だって、あたし、箱入り娘だから。
いつものように朝七時に目を醒ます。布団の中からもぞもぞと手を出して、目覚ましのスイッチを押してから、ぐらりと頭を傾がせる。何やら今日は頭がとても重い。昨夜寝たのは何時だったっけ、と指折り数える。
「一、二、三で、えっと……、確か十一時に寝たから、八時間睡眠」
寝ぼけた頭には数字が効く。マイケルジャクソンの誕生日とか、マイケルムーア監督の作品は華氏ほにゃららとか。どうしてマイケルばっかりなのかは、あたしも分からない。ピンク色のネグリジェが寝汗でびっしょりになっていた。胸元へと適度に風を入れながら、「昨日は暑かったからなー」と独り言を発しつつ、四角いクローゼットに向かい、今日の洋服を決めようとした。あたしが清楚系水色ワンピースにすべきか、森ガール系カジュアルファッションにすべきか、それともデキル女系のビシッとした黒スーツにしようか頬杖をついて悩んでいると、扉がノックされた。
「いいよー、入ってー」
失礼します、とメイドが入ってくる。このメイドは二ノ宮さんといってあたしの専属メイドだ。おはようございます、と二ノ宮さんが消え入りそうな声で挨拶する。あたしもそれに返した。
「おはようございます。それよりも今日の服、どうすべきか考えてくれない?」
はぁ、と二ノ宮さんは空気の抜けた時のような気のない返事をした。別にやる気がないわけではないのだけれど、二ノ宮さんはいつもこうだ。いわゆる社交辞令が苦手な人間なのだろう。あたしが生まれた時、母に抱えられているあたしの感想を求められてこう述べたらしい。
「顔立ちがご主人様にも奥様にも似ていらっしゃいません。失礼ですが、どこかで拾ってこられたのでは?」
これを冗談ではなく、すまし顔で言うのが二ノ宮さんである。その一件以来、二ノ宮さんと両親の関係は冷め切っている。というか、こじれてもう十六年も経っているのだ。
「時の流れは速いね、二ノ宮さん」
ですね、という気のない返事が返ってくる。二ノ宮さんと話すことは決して面白いわけではない。だけど、話していると何故か安心する。そんな関係だった。
「このお召し物がよろしいかと」
二ノ宮さんがここに来て初めて、はっきりと喋った。視線を向けると、清楚系のワンピースだった。
「やっぱり、これかぁ。二ノ宮さん、センスいいね。あたしもこれ好きなんだ。だけど……」
どうかされましたか、とまたも声に覇気がない二ノ宮さん。
「一週間に二度も同じ服を着るのは、どうにも」
本日は休日です、と二ノ宮さんが言った。あたしはいまいち納得できずに、うなりながら窓辺に向かい、カーテンを開けた。明るい日差しが、寝汗と寝起き特有の倦怠感を洗い流す。長く息を吸って吐いていると、屋内ですよ、と二ノ宮さんが後ろから声を振りかけた。
「分かっているって。でも、朝の日差しって気持ちいいね」
うーんと背筋を伸ばし、あたしは息をついて、「よし!」と決めて身を翻す。二ノ宮さんが持っている清楚系ワンピースを手に取り、
「じゃあ、着替えるから待ってて」
かしこまりました、と二ノ宮さんは消え入りそうな声で言って、本当にその場から立ち去った。足音も聞こえないので、いつ近づかれても分からない。
「忍者になれるよ、二ノ宮さん」
そんな馬鹿げた事を言いつつ、ワンピースに着替えて鏡の前に立つ。すると、ある事に気づいた。
「あれ? 模様って水玉じゃなかったっけ?」
あたしのワンピースには四角い柄がプリントされていた。
二ノ宮さんに連れられて、朝食を取りに向かう。豪奢な真鍮製の扉を開いた向こう側には、長い机があり、清潔感溢れる白いテーブルクロスがかけられていた。
「やぁ、起きたかい? おはよう」
父が一番奥の席で新聞を片手にコーヒーを飲んでいる。鼻の下に髭が少しだけあり、茶色のジャケットを羽織っていた。父が茶色のジャケットを羽織る時は乗馬の時だけだ。そのためか、どうやら朝食は早々に終わったようだ。
「パパ。てんてんが最近熱っぽいんだって」
優しいあたしは話題を振る。親子関係に軋轢を生まないために。父は新聞から顔を上げて、眉根を寄せた。
「てんてんがか。早く治してあげなければいけないな」
コーヒーをまた一口、口に運ぶ。あたしもメイドに朝食を頼んだ。父を見ていると不意に違和感が襲った。だが、どう形容していいのか分からずに首を傾げていると、その様子に気づいた父も首を傾げた。
「どうしたんだい?」
「んーん。なんでもない」
そうか、と言って父はコーヒーを飲み干したらしく、四角い皿の上に乗せた。
ペーパークラフトが好きなあたしは、休日もっぱらそれをベッドの上で組み立てる。どうせベッドの上にいるのなら、着替える必要などないが、そこは建前という奴だ。今は犬のペーパークラフトを作っていた。思ったよりも簡単に作れちゃうから、夕方になる頃にはペーパークラフトが山のように積み上がっている。あたしは呼吸さえ殺しながらペーパークラフトに熱中していると、ノックの音が聞こえた。
「どうぞー」と言うと、失礼します、という消え入りそうな声。二ノ宮さんだ。あたしはペーパークラフトを切り上げて、ベッドの隅に座った。
入ってきた二ノ宮さんは浮かない表情をしていた。
「どうしたの?」
朝食べた魚が中りました。そんな事、あたしに言われても困る。
「そういやーあたし、今日なんか変なんだよねー」
変と仰るのは? と二ノ宮さんが尋ねる。「たとえばー」と首を巡らせると、鏡が目に入った。指差して「あれとか」と言う。二ノ宮さんは鏡を覗き込もうと屈みかけて、「うっ!」とうめいた。無理しなくてもいいのになぁ。
「ただの鏡じゃないですか」と二ノ宮さんはお腹を押さえながら苦しげに言う。
「でもさー。昨日まで使っていたのって上が丸い鏡じゃなかった?」
さぁ、と二ノ宮さんが首を傾げる。服を摘みながら、
「服もさぁ、水玉模様じゃなかった?」
さぁ、とまたも二ノ宮さんが首を傾げる。正直、化かされている気分だった。
「まぁ、いいや。あたしの思い違いかもしれないし」
その時、二ノ宮さんがポンと手を叩いて、そうでした、と口にした。
「何が?」
てんてん君が元気になりました、という声にあたしはベッドから飛び上がった。
「てんてんが?」
すぐに向かおうと二ノ宮さんの後を付いていく。洋風の中庭に面した廊下は明るく見通しがいい。中央にある噴水もほどよく水を噴き出している。その時、ある事に気づいてあたしは足を止めた。噴水を囲っている部分に角がある。普通、噴水といえば円形の囲みだろう。見れば辺りにあるモニュメントも、立方体だったり、直方体だったりした。どうなっているのか分からずにあたしは頭を掻いた。一人で考えるのも面倒なので、二ノ宮さんを巻き込む。
「二ノ宮さん。中庭ってこんなんだっけ?」
あたしの記憶では噴水は円形で、モニュメントは三角と円を組み合わせたものだったはずだ。質問に、はい、としか二ノ宮さんは返答しなかった。
「うーん。やっぱ変だなぁ」
何がでしょう? と尋ねる二ノ宮さんに、むむぅとうなったまま何が変なのか明言化できずとりあえず裸足で中庭に出てみる。お嬢様、裸足です、とすぐさまサンダルを持ってきた二ノ宮さんに対して質問をぶつける。
「コーヒーカップってどんな形?」
その質問はさすがに曖昧だったか。二ノ宮さんは少しばかり悩んだ後、こういう、とジェスチャーで示した。その時になって、ようやくこの異常の正体が掴めた。二ノ宮さんの手は四角形を示していた。コーヒーカップは普通四角形じゃない。
「あたしの周りってこんなに四角ばかりだっけ?」
「何を仰います」
二ノ宮さんがはっきりとした口調で言った。こういう時は相手を非難する時だ。あたしの見目麗しい赤子時代を否定したように。
「いいですか。これをこうして……」
二ノ宮さんがそこらに落ちていた枝で土の部分に図を示す。それは四角形の中に細かい図があった。
「うん? これは?」
「この家の見取り図でございます」
「えっ? この家って四角形だったの?」
「左様でございます。本当に何を仰っているんですか? この森羅万象、全てこの形でしょう」
思わず開いた口が塞がらなかった。二ノ宮さんは真剣な表情で見取り図を示している。あたしは驚いて呟く。
「二ノ宮さん。冗談言うのね」
「冗談ではないです。お嬢様こそ、どうされましたか? 急におかしな事を」
「いや。だってね。円とか三角とか星とかどこ行っちゃったのかなぁって」
「そんなものは絶滅しました」
すっぱりと言ってのける二ノ宮さんにまたも開いた口が塞がらなかった。図って絶滅するんだ。
「えっ、じゃあさ。地球ってどんなの? 書いてみてよ」
訝しげな視線をあたしに向けながら、渋々地球を書く二ノ宮さん。あたしはその図を見た途端、卒倒しそうになった。だって、地球が四角いのだもの。
「何で四角いの? 海とかどうなるの?」
「お嬢様。ご旅行は何度もなされたでしょう。宇宙にも行かれたじゃありませんか。ガガーリンの台詞です。地球は……」
「青かった?」促されるままに言うと、二ノ宮さんは首を横に振った。
「四角かった、です」
ますますわけが分からなくなった。頭を抱えてその場に蹲ろうとすると、元気のいい鳴き声が聞こえてきた。てんてんだ。あたしはすっかり嬉しくなって、鳴き声のするほうへと駆けていった。地球が四角いとか、コーヒーカップが四角いとかみんなあたしをからかっているのだ。そうに違いない。曲がり角でてんてんと出くわした瞬間、その儚い希望は潰えた。思わず叫び声を上げそうになったほどだ。てんてんと頭部が四角かった。まるで大工用品みたいに。あたしが項垂れていると、後ろから二ノ宮さんが歩み寄り、「大丈夫ですか?」と尋ねた。あたしは髪を振り乱して「あー」とうなってから、二ノ宮さんに矢継ぎ早に質問した。
「日本の日の丸の中央ってどんな図形?」「四角い赤です」「卵の形は?」「四角いです」
「じゃあ、太陽は?」
あたしは天を指差した。これで勝った。そう思った。いくら何でもそこまであたしを担げるはずがない。二ノ宮さんがどこからともなくフィルター付きの黒いグラスを差し出す。それで太陽を透かして、呆然とした。太陽は四角かった。あたしは思わずその場に膝を崩した。
悟った。ここは四角が支配する世界。迷い込んでしまったのだ。この世界で、あたしは名実共に箱入り娘になったわけである。
ぎゃっ、とうめく声と共にあたしは目を醒ました。
「夢、かぁ」
そうだよね。箱入り娘なんて、ホント冗談じゃない。額の汗を拭う。扉がノックされた。入ってきた二ノ宮さんとてんてんを見て、あたしは絶句した。
二人とも円で構成されていた。