花筏流れて
タクシーを降りる。
わざと帰る家から離れた場所で降りた。
ゆっくり、ゆっくりと歩く。
それだけで、冷や汗が流れ、顔から血の気が引いてゆくのを感じる。
たった一ヶ月の入院で、こんなにも衰えるのかと、軽いショックを私は感じていた。
心配顔で妻が後についてくる。
私が倒れたら、支えようと待ち構えているのがわかった。
「大丈夫だよ。大丈夫」
そう、声をかける。彼女は、わかっているという風に頷いた。
彼女は小柄で細身で、私を支えたりしたらぽっきり折れてしまう。
それでも、全力で私を支えようとするだろう。そういう芯の強い女性だ。
これは絶対倒れられないな、と、気合を込める。
一度止まりかけた私の心臓は、もう昔の様に動かなくなってしまっていて、ポンコツになってしまった。
かつては重たいザックを背負って、何日も山道を縦走したのに、ほんの百メートルを歩くのにありったけの意志の力が必要だった。
医者は、まだ退院は無理だと言っていた。
なので、たった半日の一時外出をしたのだった。
桜が固い蕾をつけていた頃、私の心臓は止まってしまい、緊急搬送されたのだ。
一命はとりとめたが、一ヶ月以上の入院生活になってしまった。
「桜が見たい」
この、ささやかな希望を叶えるため、心肺機能のリハビリを頑張った。
なかなか外出の許可は下りなかったが、もう葉桜の季節になって、やっと許可してもらったのだ。
家の近所には、見事な枝ぶりのソメイヨシノがあり、会社の帰り道や散歩のとき、見上げては嘆息していたものだった。
「もう、桜は見れないかもしれない」
そんな事を考えたら、意地でも近所の桜を見たくなったのだ。
タクシーで、この桜の所に乗りつけるのではなく、いつもの様に歩いて桜と再会したかった。
「大丈夫、大丈夫」
妻に言うというより、自分に言い聞かせるようにして、歩く。
ゆっくり、ゆっくりと歩く。
思うようにならない体がなさけなくて、涙が出た。
袖で乱暴に拭って、歩く。ゆっくり、ゆっくりと歩く。
ようやく、家の近所の曲がり角が見えてきた。
そこを曲がると、空気さえ桜色に染まるかと思える程の桜が咲いていて、夜道を歩いてここに着くと、はっと胸をつかれたようになったものだ。
なんだか旧友と再会するかのような気分だった。
「桜は、まだ残っているかねぇ」
曲がり角の手前で妻に問う。
「自分の目で、確かめなさい。そのために来たのだから」
そうか。そうだね。妻はいつも正論しか言わない。
「手を繋ごう」
ここに引っ越してきたとき、二人で手を繋いで、この桜を見上げたのを、私は思い出していた。
「うん。いいよ。手を繋ごう」
小さな妻の手を握る。あたたかった。
妻は冷え性で、一緒にあるいていて手が冷たいと、私の手で温めていたものだが、今では私の方が冷たい手をしていた。調子が悪いと、真っ白になる。まるで死人の色だ。
手をつないだまま、曲がり角を曲がる。
私は、散ってしまった桜を見るのが怖くて、地面を見ていたが、勇気を出して上を向く。
桜は咲いていた。
だいぶ散ってしまっていて、葉もずいぶん出ていたが、まだ花をさかせていたのだ。
「けっこう残っているでしょ」
桜を見上げて妻がひらりと笑う。
例年だと、もう散ってしまう時期だった。
私が来るのを待っていてくれた。
そんなことを感じていた。
桜は花を咲かせるのに、渾身の力を使うという。
冬枯れの枝から花芽を出し、内部に蓄えた生命力を振り絞るようにして花を咲かせるのだ。
命を繋ぐため。
「生きよ」
そう言われた気がした。
ままならぬ肉体。
ポンコツな心臓。
長く続く入院生活。
苛立ちは募り、
「あの時、死んでしまえばよかったのだ」
などと妻の前で暴言を吐いた自分が、恥ずかしい。
ゆっくり、ゆっくり歩く。
いつもの散歩道。
私が好きだった、河原の道。
のたり流れる川には、上流で散った桜の花が花筏となって流れていた。