犠牲
あのお茶会が、三日前の出来事だ。
今日、マティアスは十八歳になる。
これで、正式にフィリアとマティアスは結婚できることになる。
マティアスと結婚なんて嫌だ。
だけど、今日の夜会で結婚の日取りが発表される。
または、婚約破棄を。
どちらになるのか、フィリアは連絡を受けていない。
普通に考えれば、結婚式の日取りだ。婚約者同士なのだ。何もおかしなことは無い。
それでも、王太子ご本人は、フィリアとの結婚を阻止したいと動くだろう。
そうして、愛する人と幸せになりたいと考えているのだろう。
頭の中はきっとお花畑なのだろうな。
今の国の状況でそんなことを叫んで突き進んでいけるなどと。いっそ、感心さえする。
だけど、アリアのような人間が王妃になる?この国はどうなる?
何も知らずに、知ろうともせずに、知らないことさえ知らない人間が治める国は。
「いいよ。捨てても」
苦悩するフィリアに届いたのは、軽い父の声だった。
「お父様!?」
驚いたフィリアが父を呼べば、大きく息を吐き出してフィリアを見上げた。
「俺も捨てようと思ってる」
「いやいやいや。宰相が無理でしょ」
真面目な顔をして言う父がおかしい。
「数年前から、認知症を患ってな」
「嘘つかないでください。余計すぎることまで覚えているくせに。ちょっと呆けたらどうですか」
「父親になんて口の利き方だ。さすが俺。良い子育てした」
うんうんと一人で頷いているオヤジの頭をはたいてもいいだろうか。
この頭の中身が少しくらいこぼれた方が世界のために良いのかもしれない。
「待て。父親に手を挙げようとするな。公の場では、認知症だと思われているんだ」
父の言った言葉を頭の中で反芻させて、意外さに目を見開く。
「……うわさは聞いていました。お父様の足を引っ張るためのものだと」
このオヤジは何を言っているのだろう。
フィリアは、突然始まったぶっちゃけ話に頭が正常には働いていない気がした。
宰相が、認知症だと思われるようなことをして何のメリットがあるだろうか。
「いや。俺が流している。そして、認知症っぽくなっている」
フィリアが考えている間に、父はあっさりと自作自演だと言った。
「……国を捨てるために?」
我ながら、声が震えている。
こんな重大なことを、こんな風に時間がない中で簡単に言ってしまっていいものなのか。
「まず、食料がないってのに、工場壊して田畑を作れという提言を受け入れない」
こんな間の時間だからいいのかもしれない。
多くの使用人は、主人の出発のための準備に忙しい。
「そして意味なく宝石を掘り始める。―――食糧難を王都で感じられるようになったら、僻地は目も当てられない状況だってのに」
出発前の親子の他愛もない会話など、誰も気にも留めない時間。
「もう、いっそ、王家など滅ぼされてくれたらいいのに」
軽く、軽く聞こえるように父は呟いたが、現宰相が発した言葉だ。
その言葉は重く、そうでなければ民は救えないのだろうと思った。
「どれくらい前からやってるのですか……」
絞り出すような声は、自分の声だと思いたくなかった。
だけど、聞きたい。
彼が、いつからこの国に見切りをつけたのかを。
「キャロが死んでからだ」
必死で守らなければならない人間がいなくなったからだという。
子供たちは、身分がなくても金がなくてもどうにか生きていくだけのものを与えた。
だが、母―――キャロラインだけは体が弱かったので、最良の医療が必要だった。
「俺は、最低の宰相だよ。宰相でありながら、国を見捨てた」
見捨てながらも、後進は育てたという。
民を思える人間を宰相にと……。
「それも邪魔されてなあ。王に盾突くやつを育てるなだとさ」
今は、王妃の弟が実質宰相の仕事を取り仕切っているらしい。
「その上、土地が無くなったから、隣の国にお願いに行こうとしている」
フィリアは大声を出すのをこらえた。
「お願い」だなんて言っているが、この状態で隣国に行くだなんて、戦争を考えているということだ。
『どうぞ、土地をください』とでも言うのか。
「だから―――フィリア」
父から、改まって名を呼ばれ、フィリアは姿勢を正した。
心臓の音がうるさい。
フィリアは耳鳴りがするほどの心臓の音を無視して、返事をした。
「はい」
そのフィリアをじっと見て、父は最後の言葉を発した。
「お前が犠牲になってくれ」