夏と冬
夏と冬
この街に夏は来ない。
一年中雪が降り積もる。
私が生まれたときからそうだったし、そのことを不思議に思ったことはない。
私は夏という物があることを、この日初めて聞いた。
日本からやってきた、黒髪で透き通った目をした男の子からからだ。年は19、私と同じくらいだった。
「なつ?なつって何?」
「一日中暑いんだよ。セミが鳴いて、高校野球がテレビで流れて、バカみたいに薄い服を来た女が外を歩き回るんだ」
「暑いって、贅沢なのね。私はそのどれ1つも出来ない」
「僕はそうは思わない。鬱陶しいだけだよ。」
この街に日本人が来たのはおそらく初めてだ。最北の廃れた街にわざわざやってこようと思う人間なんていない。私が他所の人、例えば日本人だったら絶対、バカみたいに薄い服を着て、紫外線を浴びに海に行って、暑さを満喫する。私が暑さを感じるのは、寝る前にたく火の熱さだけだ。
「ここはいいよ。一年中寒いらしいし」
「寒いのが好きなの?変わってるのね。私は生きるのに必死なのよ?食べ物の確保も容易ではないわ」
「そう言えば鹿肉がうまいって聞いて来たんだけど、ここに来てまだ見てないな」
「鹿なんて、一年に3頭でも見れば贅沢な方ね。基本的には、熊を食べてるわ」
「熊?うまいのか?」
「とても、不味い。街一番の料理人に作ってもらってようやく口に入れられる程度。」
「ふーん、熊か…ちょっと食べてみたいな。」
「…案内しましょうか?料理人のところに」
「いいの?」
「ええ、夏の話のお礼よ」
「恩に着るよ」
案内しようと思ったのは自然な気持ちだった。純粋に彼に興味があったのだ。
「この街、どこも灯りがついてないな」
「ええ、住んでる人も殆どいないわ。この不便な街に住もうと思う、もの好きなんてそうそういないわ」
「静かでいいよ」
いい、と彼は言う。でこぼことした石畳の道が、吹雪で倒壊したレンガの家が、パチパチと点滅する街灯が、吹き付ける冷たい風が、いいと彼は言った。
「着いたわ。」
「ほんとだ。灯りがついてる」
煙突から煙がもくもくと立ち上る四角い家だった。表札には、料理屋と書かれていた。
私が扉を開き、中に入ると木製の丸いテーブルが1つ、丸い椅子が2つ置かれただけの部屋があった。
「よう、来たのか。そいつは?」
奥の扉から料理人が顔を出し、彼を睨んだ。
「彼はこの街の客人よ。熊を食べたいらしいわ。」
「へぇ、熊をかい。こんなクソ不味いもん、なんで食べたいのかね」
「食べたことないからだそうよ。」
「俺は食う前からこれは不味いとわかったけどな、料理人だから」
「そうね。でも、私はあなたが作った料理に期待してたわ。」
「そうなのか、そりゃ悪いことをしたな」
料理人はふてぶてしく言い残し、扉の奥、厨房に入って行った。
部屋はシンと静まり返る。
「あの料理人、わざと不味く作ってるの。理由はわからないけど」
「そんなの簡単だよ。料理を作りたくないからさ。」
「どういうこと?」
「ここを見て、何屋だと君は思う?」
「それは料理屋よ。ここは料理屋なんだから。」
「そうか、レストランには行かない…というかないのか」
「何を言っているの?ここがそうでしょう?」
「僕の知っているレストランは、こんな広い空間に机1つしか置かないなんて、ありえない。メニューも置いてあるし、入れば水も出てくる。」
「それと彼が料理を不味く作るのになんの関係があるの?」
「客に来てほしくないんだよ。」
「なんで?」
「君、お金は払っているの?」
「お金?なぜ払うの?そもそも持ってないわ」
「普通は払うもんなんだ」
「めんどうなのね。都会は」
私は毒ずきながらも、納得した。何かを得るには対価を支払うのが普通。私は彼から得るばかりで何も返していなかった。
それにお金の存在自体は知っていた。私が幼いころは両親がお金を持っていたし、街も活気があった。だけど、次第に人が離れ、今では人もお金もすっかり見なくなった。いつの間にか私の中にお金という概念自体が消えていたのだ。
「出来たぞ、食ったらさっさと出ていけ!」
そう言うと料理人は、乱暴に机の上に皿を置いた。
熊の顔の周りに、刺し身にした肉が円を書くように盛り付けられていた。
「美味そうじゃないか」
「見た目はね」
彼は一口食べると顔を真っ青にした。それでも、勿体ないからと言って全て食べ、私に外に出てるように言った。彼は料理人に話があるようだ。
「お待たせ。次は洋服屋に案内して欲しい」
「洋服屋ね、わかったわ。料理屋から聞いたの?」
「ああ、料理屋以外に、服屋と靴屋、それから家具屋があるって聞いた」
「確かにあるわ。でも、どれもまともに仕事しない。私がお金を払わないからかしら」
服屋は私に茶色い布を渡し、靴屋は穴の空いた雪が沢山入る革靴を投げつけ、家具屋はカビの生えた布団を家に置いた。
皆生活に困っているようには見えなかったが、皆さっさとでいていけと冷たく言い放った。
「その事だけど、僕は料理屋に謝らなくちゃいけないみたいだ」
「どうして?」
「彼が料理を不味く作るのは、お金を貰えないからじゃなかったからだ。」
その言葉には納得できなかった。
「ならなぜ、料理屋は不味い物を作るの?」
「その理由を探すよ。服屋に行こう」
なぜ服屋にと思ったけど、聞いても教えてくれないだろうと考え、何も聞かずに服屋に連れていった。
服屋に着くと、服屋は黙って私に麻の布地を投げつけた。私はそれを受け取ると、今の布地の上に羽織り、古い布地をそのまま地面に落とした。いわゆる着替えだ。このやり取りは一週間に一度くらい行っている。
「着替えたんなら早く出て行きな」
服屋は、料理屋と同じように言い放った。随分と嫌われているようだ。
「着替え、すぐ終わるんだね」
「ええ、もう何度もやっているから。初めはもっと暖かい服が欲しいと、だだをこねていたわ」
「…服屋と話してくるから、外に出ていてくれ」
「ええ、わかった」
それから、靴屋に行って穴の空いた靴を交換し、家具屋でカビの生えた掛け布団を受け取った。その度彼は何か話をしていたようだった。
最後に彼は私の家に案内してくれと言った。私はうなづいて、家に案内した。
私の家は、暖炉とベッド、四角い木製のテーブルとイスのある小さな小屋だった。小屋の周りには煤けた木があり、何かを焼いたような跡がある。
私が掛け布団を変えている間に、彼はイスにかけていた。
「君、この街を出る気はないの?」
「ないわ。」
「なんで?」
「母と父を待っているのよ。」
部屋を静寂が包んだ
「………言いにくいけれど、君のお父さんとお母さんは…」
「知っているわ。私を捨てたんでしょう?」
「…だとしたら……なら、なんで出ないんだ。こんなところにいても辛いだけだろう」
「思い出にすがっているの。認めたくないのよ。私が捨てられたなんて、私が愛されていないだなんて。今も夢を見るわ、楽しく暮らしていたあの頃の夢を」
「それじゃいけない。君はここにいちゃいけないんだ。」
「なんで?あなたにそんなことを言う権利がなんであるの?過去を捨てられないのは悪いこと?親の愛を感じるためにここにいるのは悪いこと?前に進む必要なんてない。私はここであの人たちを待ち続けるわ。そうすることでしか」
「自己肯定出来ない…か?」
「ええ、そう。私は私を認めることができない」
親に愛されていなかった自分を認めることなんて出来ない。
「離れろとは言わない。ただ、旅行に行かないか?」
「えっ?」
「ここ以外行ったことないんだろ?」
「ええ…そうね…私はずっとここにいるわ。きっと…」
「なら、夏に行こう。興味あるんだろ?僕が連れていく。」
「えっ、いや…私は…」
「じれったい。行こう」
彼は私の腕を掴み強引に連れ出した。
ぐいぐいと引っ張っていく、彼。私は抵抗したが、私の力では何も出来ず、大人しくついていくことにした。
街を出るのは、初めてだ。バスに乗るのも、港を見るのも、海を見るのも、船に乗るのも、ハンバーグを食べたのも、空港に来るのも、男の子に服を買ってもらうのも、飛行機に乗るのも、全て初めてだった。
あっという間に一週間過ぎた。ずっと船や飛行機で移動を繰り返していたが、料理は美味しく、寝るときには毛布が配られ、久しぶりに贅沢をした。彼は親切にも、私に服を買ってくれた。バカみたいに薄い素材の白いひらひらのついたTシャツと白く短いスカートを。靴は、向日葵のついたサンダルを買ってくれた。
申し訳ないと私は言ったが、彼は、そんな格好で連れ回す方が僕は嫌だと言って聞き入れてくれなかった。私はその言葉に納得した。確かに、麻布1枚の私がそばについて歩き回るのは彼に申し訳ないと思ったからだ。
そうこうしていると、目的地に着いた。
空港から一歩出ると、大きな太陽が青空に1つ浮いていた。アスファルト、自動車、沢山の行き交う人々、熱気があたりを包んでいた。蝉の鳴き声と様々な言葉が耳を突き、少し心地が悪い。
「ここが目的地。夏だよ」
ひらひらと白いスカートが揺れ、バカみたいに薄い素材のシャツに紫外線が刺さり、私の白い肌を焼いた。
「あつい、あついわ…初めて、こんなの」
「海に行こう。もっと初めてがあるよ」
そう言うと彼は、どこかに電話をした。するとすぐに黒い車が現れた。
「海までお願い。」
「わかりました。」
そんなやりとりをしたあと、車が動いた。
青い空青い海、白い浜辺には沢山の人が殆ど裸みたいな格好で楽しそうにはしゃぎ回っていた。
「さぁ、着替えて」
「えっ、私もあんな格好するの?」
「うん。はいこれ水着」
白い無地の水着を、ぽんと手渡しされた。
「…また、白?」
「白が好みなんだ。」
今更断るのも気が引けるかと自分を納得させ、服を脱ぎ始める。気付けば身体は随分と元に戻っていた。骨張っていた腕には肉がついて、パサパサだった髪はサラサラとして、胸にも張りが出てきていた。
「ちょ、ちょっと待って。で、出よう。運転手さん」
「は、はい。わかりました」
運転手と彼は焦った様子で外に出た。私は首をかしげて、着替える。
そして、気づいた。彼は照れていたのか。少し顔が熱くなった。車の中が熱かったからだ。
海に出た時の気分は最高だと言えた。全身いっぱいに光を受け、ぬるい海に足をつけた。彼に泳ぎを教えてもらい、すぐに泳げるようにもなった。彼と競争をして負けたのが悔しかった。運転手さんが海の家で焼きそばを買ってきてくれて、それが凄く美味しかった。食べ終わるとすぐ彼と2回目の勝負を挑んたけれど負けた。彼は笑っていたし、私も笑った。
夏は不思議だ。私を開放的にした。笑ったのはいつぶりだろうか。楽しいと思ったのはいつぶりだろうか。それに、彼も開放的になっていた。彼の眼差しもいつのまにか優しく無邪気なものになっていた。まるで子どものようだ。
とても熱く、少し肌が痛い。それでも、ずっと日を浴びていたかった。そう思えるほど、充実した時間だった。
夜になると、周りには誰も居なくなった。はしゃぎ回っていた私は疲れ、流木に腰をかけた。彼はそのとなりに座った。
「どうだい?夏って、鬱陶しいだろ?」
「あなた、顔は見えないけど本当はそんな風に思ってないんでしょう?」
「はは、そうだね。今日は違うかもしれない。今日は楽しかった」
「それは、私もそうね。とても楽しかったわ」
人生でこんな楽しいことが、他にあっただろうか。
私は思い出した。他にこんなことがなかったか。
「あっ、はじまるね。」
彼がそう言うと、海の真ん中から赤い火が空に向かってあがり、天に火の花を咲かせた。
熱気が、こちらにまで届いた。
「暑い…夏は夜も熱いのね」
「そうだ、そうなんだ。夏は熱いんだよ。」
光を見つめていると、突然頭に両親と花火を見た幼い私の姿がフラッシュバックした。視界がぼやけた。私の瞳から熱い水が溢れ、顔を伝った。
「思い出したかい?」
「ええ……思い……出したわ…あなた…本当はお父さんとお母さんのこと忘れさせるつもりなんて、無かったんじゃない…」
彼が私を連れ出した全ての経緯、1つたがわず初めてでは無かった。白い服は母と父が私に選んだ着せたものだった。私がハンバーグを食べたいと駄々をこねたら、ハンバーグの出る店を探してくれた。
海に行ったら泳ぎを教えてくれたし、父と競争をして何度も負けた。そのあと、焼きそばを肩を並べて食べ、花火を見た。全て、あの日の繰り返し。
「君、本当は思い出にすがってなんかいなかったんだ。すがることすら出来ていなかった。」
彼の言う通りだった。私はあの街にいながら、両親と暮らしていた家には住んでいなかった。
思い出と向き合うことをせず、しかし、遠くに突き放す事も出来なかった。中途半端にただ生きていた。
「…僕は君のお父さんとお母さんに頼まれたんだ、君をあの街から連れ出して欲しいと」
「えっ、どこで私の両親に…」
「病院で……君の両親の最後を見届けた。」
身体の芯を冷たいものが貫いた。
「死んだの…そんな…そんな嘘よ…!だって誰もそんなこと!」
私は彼の腕を掴んだ。
「…君は知らないだろうけど、君の街は、他所では死の街と呼ばれていた。死のウイルスが蔓延していたから。」
「死の…ウイルス……。なら、私も…」
私は、自分の体をぎゅっと抱いた。あたりが暗くなるのを感じた。いつのまにか花火は終わり、あたりは静寂に包まれた。
「それはない。あの街に残った人、君を含め感染の症状は見られなかった。」
「…あなたは、医者なの?」
「そうだよ、こんなことしてちゃいけないんだけど、どうしても君に会いたかったんだ。」
「………全部、本当なの……?」
私は冷たい涙を流した。両親が死んだ。向き合いきれなかった思いに向き合わされ、同時に辛い真実とも向き合うことになった。涙が止まらない。
「君は、街に一人取り残されてもっと孤独に生きていると思っていたよ。だけど、違ったんだね。優しい暖かさに包まれ生きていたんだ」
「……なっ、なんで…そんなことないわ……不味い料理に、薄い服……穴の空いた靴と汚い布団。何が……何が暖かいのよ」
「彼らは君に街自体を嫌わせ、追い出したかったんだ。ウイルスの蔓延する死の街から。感染するかもしれないから。」
「えっ……嘘っ……でもっ……!」
「何度も言われたはずだよ、さっさと出てっけって、だけど君は出ていかない。両親を待っているからと。」
私は全身が震えた、なんてことをしてしまったのだ。みんなにも、等しくリスクはあったはずだ、なのにずっといてくれた。何年も何年も……
「……私、みんなに会わなくちゃ。」
「そうだね、付き合うよ」
彼はそう言うと、街まで着いてきてくれた。久しぶりに戻る街はいつも以上に静かだった。料理屋にお礼を言うと、無言で鹿肉を出された。今まで食べたどの料理よりも美味しかった。服屋に行くと、泣きつかれ、ウエディングドレスを渡された。お母さんのものらしい。靴屋には、ウエディングドレスにあう、白の靴を渡され、家具屋には父に預かったと言う、腕時計を渡された。
両親と住んでいた家に帰ると、ホコリだらけだった。クローゼットを開けると、私の着ていた服によく似た白い服が出てきて、涙が止まらなかった。
小屋に立ち寄り、頭を下げると、煤けた木が目に付いた。
「なんだろうとは思っていたんだ。多分、凍死しないようにみんなが火を起こしていたんだろうね」
「みんな……なのに、私は……なにも知らなかった本当になにも……」
彼と会ってから泣いてばかりのだった。泣くこと以外できなかった。
「さて、これからどうする?」
私がひとしきり泣きじゃくった後、彼は明るく言った。
「夏に……夏に行きたいわ。あなたと…一緒に」
「いいよ、一緒に行こう」
彼は、優しく私の手を握った。
私は夏に学んだ。夏の厳しさと優しさを。
夏がいなければ、彼がいなければ、私は冬を知ることが出来ず、冬を知っていなければ、夏に出会えはしなかった。
私は、夏を好きになることで冬を好きになれた。
数十年たった今、私は彼の隣であの夏の事を今でも思い出す。両親と街に別れを告げた、あの冷たくも暖かい夏を。蝉の鳴き声と、高校球児に声援を送る子どもの声、薄い服から伝わる彼の温もりと共に、思い出す。あの、夏と冬を――
完
また、お会い出来る日を信じて
みこと