三章
身支度とは対照的に、丁寧に時間をかけて、少女は戦の準備を進めていく。
不足品の補充、障害物の撤去、防衛機構の整備、通信機器の点検と、するべきことはいくらでもあるのだ。時間などどれだけあっても足りない。
それでも一時間もすれば、ここは銃弾斬撃降り注ぐ激戦の地へと変貌する。
戦場において、戦士は少女ただ一人である。同じく、敵兵も基本的に単独で勝負を仕掛けてくる。とはいえ、二人きりで戦うわけではない。
開戦の二〇分ほど前から、戦場には続々と『悪魔』が出現する。悪魔には敵兵の攻撃も、少女の攻撃も通用しない。彼らは一切のアクションを起こさない代わりに、まるで二人を観戦でもするかのように、ひたすら戦闘が終わるまで、その場に居続ける。
少女にとって悪魔の存在は、完全に理解の範疇を超えていた。
今日も開戦時間が近づくにつれて、徐々に悪魔が出没し始めた。紫の皮膚に羊の角。蝙蝠の翼に蛇の尾を持つ、異形。その数が四〇を超えたあたりで、少女は自身に活を入れ直す。
「……そろそろね」
遥か遠くの大地から、痺れるような獣の咆哮が近付いてくる。
続いて、重々しい鐘の音が、地上全域に響き渡った。
――戦争、開始。
慣れた動きで、少女の眼前に、一匹の黒犬が躍り込んできた。
少女はすぐさま臨戦態勢をとる。草一つ生えぬ、岩と砂ばかりの無限の荒野が、今日のバトルフィールドである。
岩塊は少女の腰ほどまでしか背丈がなく、遮蔽物になりそうなものは皆無だ。相手の戦闘スタイルによっては苦戦を強いられるかもしれない――敵兵と向かい合いながら、少女は頭をフル回転させて、現状を分析していた。
――上等だ。苦労しなけりゃ面白くない。自分が戦う理由の全ては、この面白さにあるのだから。
じりじりと、様子を窺うようにしながら、二人は間合いを詰めていく。
敵は大型犬をもう一回り大きくしたくらいの、そこそこの巨体であるが、挙動に鈍重さを思わせる部分は一つもない。艶やかで美しい毛並みを持ち、鋭い眼光の奥には確かな知性を宿している。
いかにも難敵、といった様子だった。
先に仕掛けたのは、黒犬の方だった。
吠え声とともに、五メートルはあった両者の距離を一瞬で吹き飛ばす。尾を鞭のようにしならせ、肢体を躍らせて、高速で接近した少女の肉をその禍々しい牙で引き裂こうと試みる。
華奢な胴体など肩から骨ごと袈裟切りにされる。
――直前。少女は身体を大きく捻らせ、後方に思いきり跳躍した。
初撃を外し、バランスを崩して黒犬は蹈鞴を踏んだ。
反転する視界の中で、少女はそんな敵兵の様子を正確に把握していた。
空中で棒高跳びでもするように綺麗に一回転した後、両手両足で岩塊の上に着地すると、そこから犬に向かって再度身体を跳ね上げる。
踏み込みは片足。
もう一方の足は、いまだ体勢を立て直せずにいる標的の腹部に定められている。
黒犬の脇腹に、少女の強烈な跳び膝蹴りが炸裂した。
衝撃で地面と垂直に吹き飛んだ犬が、空中で四散し、無数の黒点へと姿を変えた。
少女は息一つ乱さずに、ただ真剣な表情で、周囲に散らばった黒点を見やった。
荒野に張りつめた緊張感が満ちる。
黒点はしゅるしゅると不気味な音を漏らしながら、その場にしばらく留まっていたが、やがて、もう一度肉体へ回帰しようとでもするかのように、互いに連結を開始した。
無数の黒点が、三〇〇の数字に。
三〇〇の数字が、二九の論理に。
二九の論理は、一つの体系へと進化する。
少女の口元が鋭く吊り上った。ここからが本番だ。
難敵は幾度も形を変え、あらゆる手段で少女を襲う。
孤独な少女は、神経をすり減らしながら戦い続けねばならなかった。
けれど、そんな過酷な状況ですら、彼女にとっては歓迎すべき、そして超えるべき難関であった。
フィールドに点在している「だけ」の悪魔達は、本当に損をしていると少女は思う。彼らの立ち位置では、どうあっても逆境を突破した快感は得られないのだから。
(ま、いいけどね、別に。どうでも)
今は悪魔のことなど考えている場合ではない。人間である自分と悪魔とでは、相容れることなど絶対にできはしないのだ。
少女は薄く息を吐く。――私は悪魔について行けない。
一欠片の感情を飲み込み、底知れぬ敵に向かって、少女は大きく地を蹴った。