一章
鋼鉄の箱の中で、猫が一匹眠っていた。
いや、正しくは、『少女には箱の中の猫が眠っているように見えた』、と表現するべきなのであろう。
肩から下げた荷物を揺らしながら、少女はいつかの猫の言葉を思い返していた。
『認識と真実は必ずしも一致するものではない』、少女にとっては無意味に小難しい主張であったが、猫とはこの手の理屈を愛好する生き物なのだ。
少女も、そのことはよく理解していた。
「……おや」
少女の気配を察知したらしく、猫はゆっくりと頭をもたげた。
髭がピリリと震えている。闇で染め上げたような体毛の、輪郭だけが薄青く輝いている。朱色の瞳はぼんやりと鈍い光を放っていた。
「おはようハルちゃん。今日はどちらまで行くのかな?」眠たげに猫が尋ねる。
「いつも通りよ」形式的に少女は答える。
少女が主戦場へと赴くために、この鋼鉄の箱は必要だった。
猫は箱の支配者だ。どうあっても機嫌を損ねるわけにはいかない。誰よりも早く戦陣へ出向き、戦闘準備を整えることが、戦いを優位に進める秘訣だと、少女は固く信じていた。
一歩、内部に足を踏み入れると、少女の身体は、フラッシュを焚いた時のような眩い白色に包まれた。
指先から一つ一つ細胞が剥れていき、分散し、全身が粒子よりも細かい粉塵となって箱中に拡散する――そんな感覚を、彼女は意識のどこかで受け止める。
「不思議な話だよねえ。紛体と化し、五感を失った君は、いったいどの部分でその身に起こっていることを知覚しているんだろう?」
「さあね。知らないわ。別に知らなくたって困らないもの」
猫の問いかけはどこか間延びしている。
そして、決まって答えの出ないものなのだ。
「確かに。君にとってそれは、許される範囲の無知なんだろう。理解せずとも困らないどころか、僕の見る君はいつだって楽しそうだもんな。困るのは僕だけに違いない。まったく、酷い話じゃないか」
お喋りな理屈屋に、少女はただ黙りこんだ。
猫との会話は常にこんな具合で、一分もすれば、返す言葉を探すことさえ億劫になってくる。
しかし猫は一匹でだって話し続ける。
「だから僕は、時々君が羨ましくなるんだよ。今日だって君は本当に上機嫌じゃないか?」
どうやら口を閉じる気はないらしい。仕方なく、少女は簡潔に返事をする。
「当然でしょ。私はいつだって楽しいわ。楽しくありたいからね。その方が幸せだもの」
「ふうん? そいつはおかしな話だね。幸福は快楽の上位互換じゃないんだよ。方向性が全く異なっているじゃないか。まあ、君には難しい話かもしれないけれど」
黒猫はそこで一つ大きな欠伸をして、
「――ふむ、そろそろ時間のようだね。残念だけど、この話はまた今度にしようか」
さよならのジェスチャーのつもりなのか、ゆらゆらと左右に尻尾を振った。
「それじゃ、またね。ご武運を。にゃあにゃあ!」
猫の言葉を聞き終わらないうちに、少女は再び元の個体へと収束していた。