第1話・2
「なあ。トオル、何か欲しいのでもあんのかよ?」
「別に、コレっていうのは無いんだけど。機械式時計がいいかなって。スイス製の。スイスは時計が有名なんだぜ」
トオルは、顔を上げると、得意げに陽平を
見た。そして、自分も昨日知ったばかりのク
セに、『スイス』を強調した。
「スイス?」
トオルが時計に興味を持っている事、しかかも、それがまさか外国製だなんて思ってもみなかった陽平は、耳を疑ったかのように訊き返した。トオルも、何も知らなかった昨日までは陽平と同じ反応をしたのだろうが、今日のトオルは違う。当然とでも言うかのように続けた。
「ああ。でもって、トゥールビヨンな」
「ハ?何それ?」
聞き慣れない言葉に、陽平は眉を寄せていた。そして、それが何なのか見ようと、トオルの持っていた雑誌を覗き込んだ。
次の瞬間、陽平は目を大きくして言った。
「イチ、ジュウ、ヒャク、セン、マン、ジュウマン、ご、五ヒャクマン…。高っ!何だコレは!」
陽平が驚くのも当然だった。トオルが開いていたページに載っていたのは、ユリス・ナルダンの時計。値段を見ると、
『フリーク』、五百九十万。
『アストロラビウム・ガリレオガリレイ』、
九百二十万。などと、ゼロがたくさん並んでいる、高額のものばかりだった。
「オマエ、これはさすがに買ってもらえないぞ」
かなりの呆れ顔でトオルを見る陽平。
トオルは、陽平が違うものを見ている事に気付き、慌てて隣のページを差した。
「イヤ、こっちじゃなくって、コレ」
トオルが指差したのは、文字盤の一部が丸く切り取られていて、そこから機械式時計の心臓部にあたる調速機構の一部、『テンプ』と呼ばれる部品が見えるタイプの時計。
「こういう風に、ちょっと中の部品が見えるのがいいんだ。でもって、トゥールビヨンがいいな。なんてなっ」
「ハ?だから何なんだよ、ソレは」
「えっ…その」
あいにく、パラパラっと立ち読みした程度ではトゥールビヨンに関するページを探し出せず、陽平に見せてあげる事は出来なかった。
仕方なくトオルは、昨日の番組の内容を思い出せるだけ頭の中から引っ張り出して説明した。
「ブレゲが作ったモノなんだ。ブレゲっていう人は、マリー・アントワネットが時計を注文したとかで、よくわかんねえけど、とにかくスゴイんだよ!」
トオルは、他にも独立時計師の事など、思い出す事を陽平に話して聞かせた。だが、話が断片的な上に、説明しているトオル自身も良くわかっていないものだから、意味不明なところばかりで、陽平にはほとんど理解出来なかった。
目を輝かせて話すトオルに対し、陽平にはそんなに興味が持てそうな気はしなかった。
トオルの話云々というか、陽平自身もさきほど時計雑誌を手に取って見たが、特に何も感じなかったのだ。そして、しまいには、
「オレはGショックでいいよ。デジタルの方が見やすいし」
なんて言って、トオルの説明を軽く聞き流してしまった。
結局、トオルは毎週楽しみにしていたマンガをやめて、一番安い時計雑誌を買った。マンガは、陽平が買ったから後で借りればいいという、名案を思いついたのだ。そうなると、マンガを読むのは一日遅れてしまうが、そんな事は気にならないほど、トオルは時計の事で頭がいっぱいだったのだ。
本屋を出てから陽平達と他の話をしていても、トオルの心はリュックの中にしまった雑誌にあった。
陽平達と別れた後は、家まで全力疾走するかのように走って帰った。そして家に着くと、一目散に階段を駆け上がった。早く読みたくてウズウズしていたのだ。
そのまま自分の部屋に籠ると、買ってきた雑誌を隅々まで何度も何度も読み返した。
その、カラーとモノクロ合わせて二百ページ足らずの雑誌は、何の知識も無いトオルには十分すぎるくらい豊富な内容、宝の本だった。なにしろ、昨日の番組には聞いた事も無い時計用語が当たり前のように出てきて、何を言っているのかわからない事がいくつもあったのだ。
それは、番組を見る人はある程度時計の知識を持っているからなのか、それとも一般常識だからなのか。もしかしたら、番組の冒頭で用語の意味とかが流れたのかもしれない。
そうだとしても、途中から見始めたトオルにはわかるわけもなかった。
「クオーツって何?」
「時計って電池で動くんじゃなかったのか?したら、機械式って何で動くんだ?」
という感じで出てきた、たくさんの疑問がとうとう最後まで解決しないまま、番組が終了してしまっていたのだ。
今日、トオルが買ってきた時計雑誌は、その疑問に全て答えてくれた。
『クオーツ時計』は、人工水晶で作った水晶振動子を時間調整に使用している時計。その振動の動力が電池であるという事。
そして、『機械式時計』というのは、時計ケースの外側に付いているつまみ、『リューズ』を回してゼンマイを巻き上げる。そうして、ゼンマイに蓄えられた動力が歯車を回す仕組みの時計。手巻きと、オートマチックと言われている自動巻きがある。自動巻きの仕組みは、機械の中心軸に取り付けられたローターが腕などの振動によって回転し、自動的にゼンマイを巻き上げる。
それらは初歩的な事のようだったが、仕組みを覚えていったトオルは、時計がますますおもしろく、魅力的に感じた。