第6話・3
勉強の内容、学費や生活費についてまで一通りの事を話すと、朱理は、
「オバさん、明日にはもう向こうへ戻らなければならないから、返事は侑真に伝えてちょうだいね」
と言って、トオルの返事も聞かずに席を立ってしまった。時間にして約一時間。この後も仕事が入っているらしく、慌しく出て行くその姿は、ユウマとトオルにこの話をするだけの為に、朱理が多忙なスケジュールの合間を縫い、この時間を作った事を物語っていた。
部屋に二人だけが残されると、突然、ユウマが真剣な顔をして言い出した。
「今、すごく大事な事に気付いたんだけど…」
トオルの心はスイスへ向かっていた為に、ユウマの言いかけた言葉は、かなりドキッとするものだった。
「何?」
と、恐る恐る訊くトオルに、ユウマは確かめるように、ゆっくりと訊いた。
「トオル、フランス語覚える気あるよね?」
「フランス語?」
意外な事だったのか、トオルはビックリしたように訊き返した。
ユウマは、そんなトオルの反応を見て、「やっぱり」というようなため息をついた。
「向こうの授業はフランス語らしいんだ。日本にも姉妹校がある学校は、英語で授業やってるらしいんだけど、その人の推薦してくれる所はそこじゃないみたいなんだ。まあ、どの道、時計師になるためにはフランス語くらいは出来るようにしとく必要あると思うんだ。時計師になった時、活動拠点は日本じゃない可能性の方が高い。今から語学力つけといた方が有利だろうからね」
トオルは、ユウマに言われるまで、本当に言葉の問題について考えていなかったらしく、今更ながら慌て出した。
「えっ、マジ?あ、そうか。そうだよな。外国だもんな。オレ、覚えられるかなー。イマイチ、ていうか、めちゃめちゃ不安。だってオレ、英語の成績、イチだぜ?フランス語なんてもっとヤバそう…」
「え?イチ?」
ユウマは、トオルのあまりの成績の悪さに驚愕したようだったが、ここで諦めるわけにはいかない。励ますようにトオルの肩を叩いた。
「やる気の問題だって!好きな事の為なら出来るようになるさ。サッカーだって初めからバンバン、シュート決められたわけじゃないだろ?大丈夫。フランス語も英語も僕が教えてあげるから。この際だから、トオルもフランス語と英語、両方マスターしなよ」
そう、軽く言うユウマだったが、トオルにはそう簡単に出来る事ではなかった。
「ハ?ムリムリムリ!絶対、無理!それより、オマエ、三ヶ国語もしゃべれるわけ?」
「当然。だって僕は、世界を股にかける有名デザイナー、シュリ・ヨシオカの息子だよ?」
その、印籠のような言葉に、トオルは絶句してしまった。
ユウマは、構わず続けた。
「とにかく、トオルはウチに通いなよ。この際だ。他の教科も僕の家庭教師に習うといい」
「ハ?オマエ家庭教師なんてついてるのか」
「そうだよ。もう小学校受験の時からついてもらっている」
「うわっ、マジで?どうりで勉強出来るわけだよ…」
トオルは、ユウマの学習環境に驚いていたが、ユウマは、
「英語はイチか…」
とつぶやきながら、少し考え込んでいた。
「やっぱり、週六日は勉強しに通ってもらわないと無理かもしれない。トオル、さっそく
明日から学校帰りにウチにおいでよ」
ユウマの中では、トオルの学習計画が練られていた。そして、「そうしよう!」と言う瞳はもう、二人で向かうスイスへと輝いていた。
トオルもスイスで夢を追う、自分たちの姿を想像して舞い上がっていたが、ふと、今の忙しく充実している現実の事も思い出した。
「うーん。それは無理かな。放課後の部活は、毎日あるし。土日なら、大会とか練習試合が無い時は部活の後とかに行けると思うけど」
「そんな事言ってたら間に合わなくなるよ?せめてフランス語だけでも日常会話どころか、授業を全部理解出来るようにしておかなければならないんだから。時間だって、あと二年半しかないんだよ?週二回のレッスンでそこまで習得出来る自信あるの?」
ユウマにそう詰め寄られると、トオルは絶句するしかなかった。
中学へ入ってからの半年間、学校でほぼ毎日のように英語の授業があったのに、全然身についていない。それを単語一つ知らないフランス語の習得なんて。毎日レッスンしても二年半でマスター出来るかどうかだと思った。
トオルは、しばらく考え込んだ末、
「ちょっと考えるわ。留学っていったら、一応、親にも訊いてみないとマズイし」
そう言って即答を避けた。