覇王別姫
項籍、字を羽。下相の人。
初めて兵を起こしたのは彼が二十四の頃である。
秦を打ち破り、一時は西楚の覇王と呼ばれ天下を掌握した項羽の軍も、今ではじりじりと漢勢に追いつめられていた。
諸侯はこぞって劉邦の漢軍側に回り、そうでなくとも日和見を約束している。
項籍は、各個の戦では相変わらずの圧倒的な強さを誇っていたが、兵糧も兵士も補充することができず、今は垓下で立て篭もりを続けることしかできない。
ここに到っても、彼にはまだ、何故自分がこのような境遇に陥ってしまったのか理解できずにいる。
秦に滅ぼされた楚の名将・項燕を祖父に持つ彼は、これまでひたすら祖国である楚と、一族のために戦いを続けてきたのであった。そのための道を阻む者があれば、情けも容赦もなく殺してきた。それだけである。
そして気が付いたとき、項籍の周りには千騎に満たない精鋭と、愛馬・騅、そして愛姫の虞美人がいるだけであった。
虞美人は、このような状況になっても片時も項籍の元を離れようとしない。項籍の叔父である項伯すら漢に降ろうとしていると噂されているのに、この虞美人だけは常に籍の帳にあって、絶えぬ微笑みを浮かべているのだ。
「虞よ、そなたは故郷へ帰るがいい」
項籍がそう言っても虞美人はまったく聞こうとはしない。
ただ微笑んで、
「何を仰います。わたくしがここを離れて、誰が王のお酒を注ぐのです」
などと言って、空になった籍の杯に酒を注ぎ足すのだった。
その晩、俄かに帳の外が騒がしくなった。
聞けば四方をぐるりと囲んだ漢軍が唄を謡いだしたのだと言う。
籍が帷幄から出ると、聞こえてくる唄はひどく耳に馴染んだものであった。
酔うと、今でも時折口から出てくる。
昔滅んだ故郷の唄だ。
楚独特の哀愁を帯びた旋律と詞が、周囲から波のように次々と押し寄せ、残った少ない楚の将と、項籍の心を揺さぶってゆく。
籍は、その場に立ち尽くした。
身体中の力が抜けていくようであった。
「既に楚は皆漢に下ったか……。敵軍に、なんと楚人の多いことよ」
そこで項籍は、やっと己の置かれた状況に、本当の意味で気が付いたのだった。
楚の再興を夢見ていたが、最早それも叶うまい。
故郷の民は皆、項籍を捨て、劉邦を択んだのだから。
滔滔と楚歌の続く中、籍は従弟の項荘に抱えられるようにして帷幄に戻った。
そこには、いつものように笑みを湛えた虞美人がいる。
「そなたにも聞こえよう。最早終わりだ。わしが漢軍の目を逸らしているうちに、そなたはここを離れるのだ」
「できませぬ」
「できずともやれ」
強く命じると虞美人の顔から笑顔が消え、涙を零して項籍の胸に縋ってきた。
「何故そのようなことを仰るのです。終まで共にとお約束してくださったではありませんか」
震えた声で告げる虞美人を、項籍は離すことができない。その細い肩を抱き締めて、「ああ、そうだったな」と頷いてやることだけが、今の項籍が愛姫にしてやれるすべてのことであった。
唄は途切れることなく続き、項籍も再び眠ることなどできず、片腕に虞美人を抱いたまま酒を飲んで夜を過ごした。
虞美人が眠ってしまうと、起こさぬように帷幄を出て、その足で叔父の項伯のもとへと向かう。
伯の帳は荷が整頓され、すでに覚悟を決めているのだと籍に伝えてきた。
「羽よ、これは……」
違うのだ、と伯は顔面を蒼白にして慌てた様子で告げる。
項籍が、敵に降ろうとしている自分を罰しに来たのだと思ったらしい。
「叔父上、そのように慌てずとも分かっております」
そんな叔父の様子に、籍は静かにそう切り出した。
「こうなった上は敵に降る叔父上を責めは致しますまい。その代わり、頼みがございます」
「もちろんおぬしの命は助けて下さるように子房先生に乞うつもりだ」
「私の命などいいのです」
すっかり命乞いを頼みに来たのだと思った項伯はその言葉に眉を顰める。気にせず項籍ははっきりとした口調で述べた。
「叔父・梁と共に私が江東で兵を挙げた時、江東の多くの子弟が我らに付き従ってくれました。しかし、私は彼らのすべてを死なせてしまった。何故ひとり、のめのめと生き長らえる事ができましょうや。それよりも気掛かりなのは虞のことです。どうか、叔父上が漢に向かう時、共にお連れくださりませぬか」
「それは、良いが……」
まだ何か言いたそうな項伯を無視し、項籍はその場を後にした。
もう楚の唄など聞こえない。
籍の耳に届くのは、帷幄に強く吹きつける風の音だけである。
項伯が嫌がる虞美人を伴い陣を離れたのを見送って、夜陰に乗じて籍は漢軍の包囲を突破した。
八百余騎の騎兵は、淮水を渡る頃には百騎あまり、東に進んで東城に到った頃にはわずか二十八騎となっていた。
その後、項籍は漢と最後の戦に挑み、敗れ、命を落とした。
齢三十。短い生涯であった。
虞美人のその後について、史書には一切の記録がない。