新卒の女性社員が立ち飲み居酒屋で酔い潰れたので家まで送ったら懐かれてしまった件
居酒屋っていいよね……と言う気持ちで描きました よろしくお願いします。
「ふぁぁ……なんれしゅかぁ、わちゃひぃ、よってなんかいひゃへんよぉ……」
とか言いながら俺の腕に顔を擦り付けるくらいに抱きついてるのは、今年入った新卒の女性社員の河村ひなこだ。なんでこんな目に……と頭を抱えながら河村を引きずりながらなんとか駅まで送ろうとする。
「えぁ……? 吹田さん、にけんめいきひゃようおぉ……にほんしゅ、のみたいれすぅ」
河村は俺の支えがないとそのまま地面に突っ伏してしまうのではないかというほどに、見事な千鳥足だ。ここまで完成された酔っ払いも今日日見ない。
「お前が飲んでいいのは水だけだよ、ほら、飲め」
河村も俺が支えているのをいいことに腕に抱きつきながら俺に体重を預けている。こうなるともうおんぶしたほうが逆に効率がいいのでは? と思ってしまう。絶対やらないけど。
「やれしゅ……にほん、しゅ、のみゅの……」
河村は、俺が手渡した水のペットボトルを片手でいじいじしながら不満げに言う。
「吹田さんと、もっとのむのぉ……もっと吹田さんとおしゃけのみたいぃ……」
「今日はもう家に帰れ。明日も金曜日で、仕事あるんだぞ」
「そうれしゅけどぉ……いまの、このじかんが……いとおしいっていうかぁ……」
そう言って河村は、腕に抱き着いたまま俺の方を見上げて言った。
「吹田さんと、もっと……のみたいんですぅ……」
河村のとろんとした瞳は宝石のように輝いていて、瑞々しい肌は酔いで熱く火照っている。
確かに美人だ。それはまあ、間違いない。会社でも『今年の新入社員はレベルが違うぞ!』と陰で大盛り上がりしていたくらいなのだ。
……まあ、俺みたいな技術職には、河村のような事務職とはほとんど接点もないわけだし、関わることもほとんどないだろうし、そもそも他人の容姿を話をネタにするのも正直言って不快だったから、そんな話には与しなかったわけだが。
「だから……ねえ、いいでしょ……?」
それに、俺は35歳だ。婚期を逃した、言ってみれば売れ残りの男。そんな俺に、河村のような美人が抱き着いていること自体が異常なのだ。
異常なのだから、俺は冷静になる。ここで思い上がりなどしない。
決して、お持ち帰りなど、頭に浮かぶわけもない。
「よくないっつってんだろ。ほら、駅だぞ」
元はと言えば、俺がクソみたいな仕事をさせられてようやく終わったのが21時で、せめて今日と言う日を陰鬱な気持ちで終わらせてたまるものか、と繁華街に繰り出していざ飲むぞ! となって入った立ち飲み屋に、この酔っぱらった河村が居てしまっていたのが全ての間違いだった。
『あれー? えっと……あ、お昼の、社食食堂に行くときに、よくすれ違う人だぁ……こんにちはぁ』
すでにビールを3杯(こんな華奢な体でよくそんなに一気に飲めるな)を飲み干してメガのハイボールを片手にしていた河村が俺を目ざとく見つけて、俺が無視しようとしたら『えー? 違ったっけなぁ。あの、会社名なんですけど――』と大きな声で会社名を言おうとしたのだ。だから俺は慌てて河村を止めに近づいて『外で会社名を言うな! コンプラ意識!!!』と怒ったら、河村は『きゃー、怒られたー』と謎に上機嫌になってコロコロと笑った。なんだこいつ……と思ったが、周りには河村よりも一回りも二回りも年がいったおっさんしかいない。おっさんたちはじろじろと河村の方を見ては、いつ話しかけようかとソワソワしているようだった。
これは1人にしたら面倒なことになるな……と思ってしまって、河村の横に陣取って酒に付き合ってしまったのが運の尽きだ。河村は俺が隣に居るのがそんなに面白いのか、普段なにしてるんですか? お仕事ってなにしてるんですか? 私技術さんの仕事全然知らなくてー、とにっこにこな笑顔で語り掛けてくる。それに俺は残業で疲れた頭とかけつけ一杯のビールを飲み干してあいまいになった頭で会社の愚痴やら不満やらを面白おかしくしゃべっってしまった。そうしたら河村がもっと無邪気に声を上げて笑ってメガのハイボールを飲み干したところで、家に帰らせればよかったのだが……。
「もっと吹田さんのお仕事の話、ききたいですぅ……」
川村がハイボール3杯お代わりするところまで止められなかったのは、まあ、俺のミスだ。
なので、駅まで送り返すのもやむ形無しではあったのだが……。
「いいから。で、その……河村さんは、家はどこなんだ?」
「えぇ……?」
俺の言葉に反応したのかわからないが、河村は顔を赤らめた。
「私の家に……行きたいんですかぁ? 思ってた以上に肉食系なんですねぇ……」
クソみたいな冗談を飛ばしてきたのでこのまま置いていきたかったのだが、放置するわけにもいかない。
いいから早く言え、と何度も何度も言って、ようやく河村は何故か恥ずかし気にこぼした。
「……せ、摂津鳶駅ですぅ」
「わかった。で、誰か迎えに来てくれる人はいないのか。家族とか……」
彼氏とか、と言おうとして止めた。流石にこれはコンプラ破りすぎる。ああ、くそ。俺も河村につられて酒を飲みすぎて、思考が鈍ったか。
「ひ、1人暮らしです……」
河村はこっちを見ずにうつむいている。何を恥ずかしがってんだか。
「何がそこまで恥ずかしいんだ。親御さんから離れて一人で暮らしているなんて、相当頑張ってるじゃないか」
「……そういうこと、サラッと言うところが……もう」
何を言ったのか聞き返そうとしたら腕をさらに強く抱きしめられてしまった。そろそろ腕が分離しそうだ。
「ほら、改札通るぞ」
「え、あ、あの……えっと、か、カード……」
「さっきお前が摂津鳶って言っただろ。だから切符買っといた。だからカバンから探さなくていい」
うつむいてもじもじしていて気が付かなかったのか、切符売り場で河村の分を買っておいた。どうせこんな酔っぱらいがまともにカードを出せるわけなんてないから。
「ど、どこまで……どこまで、やさしくしてくれるんですかぁ……」
「優しくねえよ」
俺はきっぱりと言った。
「目の前でぶっ倒られるほうがよほど嫌だわ。それに、同じ会社なんだし、年上なんだから、監視する義務もあるだろ」
とたんに、甘くて暖かな川村の匂いが鼻をくすぐった。
「反則ですよぉ、その言葉ぁ……」
「はいはい」
軽くあしらって、河村と一緒に改札を抜けてホームに立ち、電車に乗った。
平日の夜だというのに電車内は人が多い。
「こっち、寄って」
俺は河村を電車の隅に誘導し、そこのかどっこに立たせた。
「ん……」
河村は俺の腕にいつまでも抱き着いている。傍から見れば、なんだこの男女はと思うかもしれない。
方やビジネスカジュアルのピチッとした服で若々しい女性と、方や使い古したパーカーを着る35歳の俺。
よもやカップルだと誤解されても困るだろう。河村が。
「んー……」
河村は俺のパーカーの袖部分に鼻をうずめている。まさか臭いを嗅いでいるわけないよな……?
「ほら、摂津鳶だぞ」
駅に着いたら多少は酔いから覚めると思ったが、河村は駄々っ子のように俺からくっついたまま離れない。
「駅でも……飲み屋、ありますよぉ……」
「これ以上お前を飲ませてたまるか。ほら、住所言えって」
「やだぁ……吹田さん、大胆なんだからぁ……」
「河村。二度同じこと言わせるな」
つい強い口調で言ってしまった。もう23時を回ってしまっているのだ。河村もそうだし、俺だって明日がある。
「ぅ……ごめんなさい」
叱ったら急にしおらしくなったか、ようやく住所をしゃべってくれた。タクシー乗り場まで行き、そこで住所を運転手に伝えた。河村に聞くと財布はどうやらあるようなので、支払いくらいはできるはすだと安心する。
「え……なんでタクシー乗らないんですか」
駅に戻ろうとしたところで、袖を掴まれた。おいおい、なんの冗談だ?
「むぅー……」
そうやって媚びた上目遣いなんて俺に向けるなよ、俺がそんな甘えた顔を見て怯むわけが――
「すいません、運転手さん。家まで送ってもらった後、Uターンしてこの駅まででお願いします」
思った以上に威力が大きく、屈してしまった。己のチョロさに泣けてくる……。
「ひひー、やったぁー。ふんふふーん♪」
河村はさぞ嬉しかろうと、後部座席で俺の腕にしがみつきながら鼻歌まで歌っている。助手席に座ればよかった……。
タクシーに揺られて10分後、ようやく河村の家に着いた。オートロックで安心安全のマンションだ。
「ほら、起きろ。家だぞ」
「家まで送ってくらひゃい……」
「わかったから……運転手さん、申し訳ございませんが10分……あー、15分、すみませんが待っていてください。もし戻らなかったらこれで精算してください」
お釣りなしでいいですから、と数枚の千円札を渡して、河村をタクシーから引っ張り上げた。
「んにゅぅ……」
河村は眠たくなっているのか、体温がどんどんと暖かくなっている。体温の変化がわかるまでくっつかれているという事実を今冷静に考えたら頭おかしくなりそうだ。
「オート……ロック……とか、吹田さんが、いたら……いらないひゃないでふすかぁ」
などと戯言を言うのをスルーして、河村がなんとかオートロックを開けて河村の家まで連れて行く。途中エレベータに乗って誰も乗り合わせてこなかったのは本当に奇跡だった。もしも乗り合わせてきてこんな姿を誰かに見られたら――
「ふひひ……吹田さん、吹田さん、吹田さぁん……んー……」
35歳のおっさんの腹に顔を擦り付けてくる河村を見て、変な噂がマンション内で広まりかねないからだ。
「はい、部屋着いたぞ」
ようやっと河村を家の前まで届けさせた。はい、もうこれで俺の仕事は終わり。
「えー……帰っちゃうんですかぁ」
「帰らせてくれ、頼むから」
帰らないで、帰る、の押し問答を何回も続けてようやく河村は折れたか、あるいは眠気に負けたか。
「じゃあ……次の日も飲みにいきまひょうね……じぇったいでしゅからね……」
どこか恨めしそうな、あるいは期待を込めた熱い眼差しを受けながら、俺は河村が玄関の扉を開けて家に入るところまでを見届けた。
「じゃ……おやしゅみなしゃい……吹田さぁん……」
「はいはい、おやすみおやすみ」
ばたん、と扉が閉まった。オートロックで鍵が閉まる音がしたからひとまずは安心だ。
ようやく腕が河村から解放された。今気がついたら、ヨダレがべっとりと付いている。女物なのだろうか、香水と化粧品の匂いも香っている。
「……俺、この状態のまま電車乗るのかよ」
タクシーは律儀に15分過ぎていたから立ち去っていた。
「……しんど」
流石に大きなため息しか出なかった。今日はなんて日だ。
◇◇◇
次の日の朝、死ぬほど重い体を這いつくばってでも起きてなんとか会社に来れたのは大偉業だ。誰か褒めて欲しい。
体の節々が痛い。腕が痛くて、まともにペンも持てたものじゃない。
昨日は散々でしたね……と、同じ部署の後輩が気にかけてくれるように語りかけてきた。
「ああ、そりゃあ大変だったよ、何しろかわ――」
あ、マズい。間違えた。後輩がキョトンとした顔をしてしまっている。
「……えー、その、あれ、そうそう。部品図のh交差をH交差に見間違えたとか、な。ご丁寧にhをHに赤ペンで上書きした加工指示が向こうから出てきたときは、もう笑えてきたよ」
なんとか話を昨日のトラブルに軌道修正した。そりゃそうだ、後輩が俺と河村のことなんて知るわきゃない。知ってたら逆に怖い。
「どっからどう見てもシャフトだし交差もhで書いてんのに、なんで書き直して作ったんだろうな? 何か見えないものでも見えてたんか?」
俺の軽口に後輩はちょっと笑っている。
それで現場の人が、交差がおかしいシャフトで無理矢理ベアリングに突っ込んで、ベアリングが壊れたらしいですね、と気の毒そうに後輩が言う。
「そうだよ、ほんとに。無理矢理って、プラハンとかで叩いてねじ込んだらしいぞ。現場の連中も、明らかにはめ合い合わなかったらその時点で手止めろよな。ありえん。おかげで装置の復旧できなくなったし、代案だせって上から突っつかれて慌てて他部署の予備品あるか探し回るハメになったわ」
よく他の部署に手回りますね……と後輩が感心したように言うが、別に知り合いがいるわけじゃない。中途だし、同期なんていない。ただただ事情を説明して、誠意を見せて、貸してくれるところが見つかるまで走り回っただけだ。
俺こそさっきバカにしてしまっていたが、最終的な装置を治して稼働させるのは今いる現場の人間にしかできない。おれはただ装置の設計者として、何が必要で何が不足しているのかを理解しているから、そいつらに『これを用意したのでこれで装置を元に戻してください』って言うだけだ。
「次から加工屋さんに検査成績書出してもらうことになるかな。向こうは相当嫌がるだろうけど、前科できちまったし」
検査成績書をいちいちチェックするこっちの負担も増えるわけですからね……と後輩が肩をすくめる
そうそう、そうなんだよ。こういうトラブルが起きた時にすぐ成績書だせってなるけど、結局その確認をする手間も管理も大変になるからやりたくないんだよな。
だから本当に加工ミスやら組み立てミスやら、とにかくそういうポカミスが無くなってくれれば、俺の仕事も実に平穏に――
「……?」
なんだか周りがざわざわしはじめた。朝から大きなトラブルでも起きたのか? おいおい、勘弁してくれよ……。
「吹田さん、あれって……河村さんじゃないですか?」
「は?」
後輩が指し示す方向を見ると、確かにそこに河村がいた。上のフロアで事務をやっている河村が、不自然なまでにきょろきょろとあたりを見渡している。
「あの人、氷の女王っていうあだ名ですっごい話題ですよね。なんでも相当美人で、会社の展示室の案内係に抜擢されたとか」
「……」
「それでいてすっごいクールな人で、こう、男の人がそう簡単に近づけられない、氷のようなオーラを纏ってるって。ま、ウチの嫁さんのほうが100倍も美人っすけどねー」
「……」
「吹田さん、急に顔をうつむかせてどうしたんですか? ふ、腹痛ですか?」
「……ち、ちょっとだけ、な。うん。その、3分経ったら治ると思うから……」
「え、急な腹痛はやばいですよ。ウチのばあちゃんそれですっごい痛い目にあっちゃったんですから。診察室行きましょうよ、今から俺電話するんで」
あ、い、いや、そ、そんな事を大きくしないで。頼むから。
俺はただ、あの河村って奴に顔を合わせたくなくて――
「あの」
突然、ひんやりとした空気が背筋に触れた。
氷のオーラを身に纏う、クールビューティーと名高い新卒の女性社員……が、俺をロックオンした。
後輩の電話を止めようと顔を上げたのが、運のツキだったか。
「……吹田さん、でしょうか」
俺の名前を河村が口に出した途端、周りの同僚たちがにわかに色めき立った。
――え!? 吹田さんに用があったの!?
――吹田さんとあの河村さんって、どんなつながりがあるの!?
――まさか……えぇ!? 吹田さん、もしかしてっ……!?
違う、違う、違う! みんなが思うようなそんな都合の良い話じゃないから!
俺はただ、酔いつぶれた河村を家に帰らせただけで――
「き、昨日は……わ、私の、恥ずかしい姿を、お見せしてしまい、申し訳ございませんでした……」
お前は小声でもっと誤解されるようなことを言うなーっ!!!!
◇◇◇
恥ずかしい姿……のところは恥ずかしくて小声になっていたおかげか、聞かれていたのは後輩しかいなかったのは幸いだった。
『吹田さん、あの、その……俺は、信じてますからね……』
後輩のどこか困惑が入り混じった声掛けは余計だったけれど。
「……それで、昨日のことを謝りにわざわざフロア降りてまで来たと……言うことで、いいのか?」
事態が大きくなりそうだったので一旦河村を戻らせ、改めて話をすることとなった。とはいえ、密室で話せる場所といっても会議室くらいしかなく、それを業務とは何の関係もない『酔っぱらって迷惑をかけた謝罪』に使うのも気が引けた。
それに、若い女性と二人きりで会議室に居る、というのもいろいろとまずいから。
そうなると、一対一で安全に話せる場所など会社にあるはずもなく(仮にあったとしたらマズいだろ)。
なので、そうなってしまうと会社の外でしかなく……
「そうなんですよー! いやー、すっごい緊張しちゃいました! 技術の人、なんか空気がこうピリッとしているっていうか……! すごい怖かったんですからねー!」
居酒屋になってしまった。もちろん個室なのではなく、周りにお客さんがいるガヤガヤとした空間で。立ち飲みではなくテーブル席で向かい側に座る河村は、実に美味しそうに生ビールをグイっと飲みほして店員さんにお代わりをお願いしていた。
「あ。吹田さんもどうですか?」
「俺は今日はウーロン茶でいい」
「えー? 飲みましょうよー」
「この年になると連続して飲むのがシンプルに辛いんだよ」
ぶー、と頬を膨らませて不貞腐れる河村。こんな表情、会社で絶対見せたことないだろ。
すり寄ろうとする男どもを凍てつく瞳で一蹴するという噂は、今だけは信じられそうにもない。
「というか、昨日はあの後大丈夫だったのか? 会社は遅刻しないでこれたのか?」
「えー? 吹田さん、心配してくれるんですかぁ?」
大丈夫ですよ6時にキッチリ起きましたよー! とサムズアップしながら軟骨の唐揚げを行儀よく箸で摘まんで口に入れる。
ジュワっとした油が口の中に広がり、軟骨のコリッとした歯ごたえと、ガツンと来る来い味付けと鶏肉のうま味を堪能しながら、お代わりが来た生ビールをさっそくゴクっと飲んでいく。
その活きのいい飲みっぷりを見て、思わずビールを頼みたくなってしまった。昨日のダメージが今でも体の節々に蓄積しているというのに。
「それに、約束を覚えてくれて、私すっごいうれしいんですよ?」
約束? と首をかしげそうになったが、思い出せた。昨日の帰り際に河村が俺に『次も飲みに行きましょうね』と言っていたか。
俺はてっきりあの日が特別なだけで、次の日からは何のかかわりもない技術職と事務職の関係が続いていくものと思っていたから、すっかり頭から抜け落ちてしまった。
よくあることだ、行きずりの人と出会って飲んで、また飲みましょうと言って、その次が結局来ないことなんて。
「……まあ、ウチの部署にやってきて帰らせる時に、どこかでちゃんと謝れる場所をくださいって言うもんだから……俺としてはカフェでもよかったんだぞ?」
「えー? カフェとか面白くないじゃないですか。メニューだってパンケーキとかパフェとか、代り映えのしない甘い物ばっかりでつまんないです。居酒屋ってすごいですよね、しょっぱい物も脂っこいものもあって、ちゃんとデザートもある! そして飲み物も豊富で最高! カフェよりも居酒屋、ですよ!」
「俺としては昨日を失敗と捉えて居酒屋を控えてほしかったんだけどな」
「……う」
俺の言葉が効いたのか、河村は乾杯! とばかりに掲げたビールをおずおずとおろしてしまった。
「……だって、アルコールが、ないと……ちゃんと、吹田さんと、顔を合わせてお話しできない、と思ったので……」
そう言われると確かに、ウチの部署に来た時の河村の表情と言ったらおどおどとして顔が強張っていた。
「……まあ、良く俺の部署のところに一人で来たもんだな。そこの根性はすごいよ。でも、ウチの部署、けっこう面倒な人が多いから、変に目を付けられると大変だから、次来るんだったら女子とかと二人で来るといい」
「だから、そういうサラッと褒めるところなんですってばぁ……」
消え入るような声で河村がぼそっと言う。相変わらず静と動が激しいなぁと思う。
「それで、居酒屋は1人でよく来るのか?」
「き、昨日が初めてで……」
おいおい、まじかよ。
「こういう、いい意味でこう、ごちゃっとしたところに入るの初めてで、それでテンションがあがってしまって……」
面白珍しさにテンションが上がった結果、本来のキャパを超えて飲んでしまったというところか。
「……会社の歓迎会とか、で、お酒を飲む機会はあったんですけど……周りの人が、私の方を話しかけたり、変に気を使ったりされるのが、なんか、こう、しんどかったんですよ……」
それは、まあ、想像がついてしまう。同期で一番の美人と形容されるにふさわしい容貌を河村は持っている。
人の容姿を殊更に評価するのは嫌だが、周りが黙っていないのは確かだ。
真正面に座る河村の顔立ちを今一度見ると、その整った容姿が理解できる。染めない清楚な黒髪に、澄み渡る青空のように光る瞳。鼻筋の通った、品格ある凛とした細面。肩ひじの狭い、小柄な体格でも、その芯のある強かな女性を思わせる顔立ちは、河村を『強い女性』を思わせるには十分すぎるほどだった。
確かに俺も河村と居酒屋で出会うまでは、昼の食堂で見かけた時には『男に靡かない女性』だと思ってしまっていたわけだが。
「それに、会社の飲み会ってお座敷で畏まらないといけないし、新人だからって色んな人にお酌しないといけないし……」
「それは、確かに難儀だよなぁ」
実際、部署の若い連中もそういう機会ではちゃんと真面目にお酌したりしているから最近の若い子はえらいなぁとは思う。
反骨がないのは飲み会を管理する人間としては楽ではある……とはいえ、かといって若手に負担をかけてしまわないかという不安は当然としてあるわけだけど。
「吹田さんは、こんなお酌程度で嫌がる新人は……生意気だって、思いますか……?」
「いや、別に。そりゃ面倒だろ。少なくとも好きでやってる新卒なんて誰もいないんだろうなって思ってるよ。まあ、これは俺が卑屈なだけかもしれないけど」
「そう、ですか……ふへへ」
なぜだか知らないが、河村は両手で頬を覆っている。
「……あの、私……こう見えて大学生の時はこんなくーるびゅーてぃーだなんてもてはやされてなかったんですよ。女子大で、周り女の子しかいなかったし……こんな気を張ってクールを気取る必要もなかったですし……」
「ほぼ初対面の人間を家まで連れて帰らせるくらいの愉快な性格だからな」
「もーっ、それはごめんなさいって謝ったじゃないですかー……いぢわる」
注文してきた厚焼き玉子をきれいに箸で割いて口に頬張りながら、やはりビールを片手にごくっごくっと飲んでいく。この様だけでCMに出れるんじゃないか?
「……それで私、会社の内定式で、初めて男の人たちと一緒に飲むことになって……。この時だって私、お酒全然飲めなかったんですよ?」
「なんだ、普段から飲んでいるわけじゃないのか」
「お酒自体が懇親会で初めてで……。飲むのが好きなったのは、本当に最近です。仕事終わりにコンビニでビール買って、家で一人で飲んだらすっごくおいしくて……。それでわかったんですけど、私……なんというか、周りに話しかけられたり、眼を向けられたりしながら飲むのが、なんか、ちょっと辛くて……それでお酒をちゃんと楽しめなかった、かもしれないです」
一種の会食恐怖症なのだろうか、と思うものの、専門家ではない人間が専門用語を口に出すのは技術の人間として恥ずべき行為なので慎んだ。河村だって、急に疾患を指摘されていい思いなんてしないだろうから。
「それで……家で飲むのもよかったんですけど、居酒屋にも興味が出てしまって。ほら、こんなにおいしい料理とお酒が楽しめるって、本当に天国みたいな場所じゃないですか。それがこの日本中に数多に点在しているって……そう考えたら、行きたくなっちゃったんですよ、一人で」
「同期の女性とかと一緒に行けばよかったんじゃないか?」
「んー……それなんですけど、ウチの同期の女の子、みんな私のことを氷の女王だなんてもてはやすんですよ。そんな目で見てくる女の子と、居酒屋でビールグビグビ飲んでテンションがおかしくなるところ見たら変に幻滅しそうじゃないですか」
「氷の女王……」
「なんですか、その目! 信じてないんでしょー」
「まあ……正直に言えば、そう」
「正直すぎますよ!」
河村が笑った。そりゃ、そんな明るい元気娘みたいな表情を見せられもすれば、信じらなくもなるだろ。
「その、内定式で男の人たちと初めて飲んだって言ったじゃないですか。そこで、なんというか、かなりやんちゃしてる同期の男性社員がいて、所かまわず女子たちに話しかけるみたいな人がいたんですよ。それにセクハラまがいなことしてて、本当最低で! 他の女の子たちもすっごい嫌がってたのに、止まんないで!」
「……ウチの新人じゃないことを祈る」
「あ、それは大丈夫です。あの後ちゃんと問題になって、取り消しになったんで」
「ならいいか……」
「で、その問題の男性社員が好き勝手やってるのがほんと腹立ったので、内定式の懇親会でこう言ったんですよ! 『あんまり女ナメんなよ? 股を開け、蹴りつぶすぞ』って! あはは、あの時ほんと怖いもの知らずだったなー! 漫画で読んだ台詞をそのまま勢いでしゃべったんですけど、なんか知らないけどそれでその問題の男性社員が怖気づいちゃったらしいんですよ。で、そっからあだ名が付けられちゃって」
「それが氷の女王、ね」
「なんかそのイメージが付いちゃったら、それを守んないといけないなって思っちゃって……。自分でも変な所で律儀だなって思ったんですけど、同期の女の子がみんな私を頼りにするようになっちゃったので、仕方ないかなって……。化粧もそれっぽく変えたんですよ、あ、これ分かります? このシャープなアイライン! 目尻をちょっと跳ね上げてキリっとした雰囲気に――」
河村は身を乗り出して、これ見よがしに自慢の眼を見せつけてきた。河村の顔面が目の前に迫るのもそうだが、そのスーツの上からでもはっきりとわかる胸が、机にドンと乗っかるのが見えてしまう。これ以上は本当にコンプラ的にアウトすぎるので急いで目をそらした。
「もー、何目をそらしてんですかー。ちゃんと見てくださいよ可愛い可愛い後輩の顔を!」
「なんちゅうテンションになってんだ、おい」
気が付けば河村はもうビール3杯を飲み干していた。驚異的なペースで流石に驚く。20代の頃の俺でもこんなに飲めていただろうか……?
「というか、そんなに一人で飲むのが好きなら、なんでまた昨日のお店で俺を呼んだんだよ」
「……それは」
急に姿勢を戻し、もじもじとし始めた。なんなんだ、もう。
「一人で飲んでて……やっぱりどうしても、寂しくなっちゃって」
「それはまあ……わかるけども」
正直、俺も最近それを実感してきた。30歳の手前くらいは1人飲み最高だの、家でのんびり酒飲みながらヨーチューブを見るのは至高の娯楽だの、そう思っていた。しかしこうして独り身が長くなって、婚期を逃してしまった今、どうしようもなく一人というのは寂しくなってしまった。誰にも縛られない自由は、誰も隣に居てくれない寂しさも一緒に付いて回るから辛い。
「……一人で飲んでても、周りから凄い目線を感じてしまってて、せっかく楽しんで飲みたいのに、それもできなくて……」
なるほど、人避けという意味合いで俺を呼んだのか……と言うのもちょっと意地悪にしては意地が悪すぎるか。
「すいません……私、人を避けるために吹田さんを呼んでしまったみたいに、言ってしまって」
と思ったら河村の方から口をこぼしていた。河村なりに申し訳ないと思っているのだろうか。別にいいのに。こんなおっさんなんて、適当にあしらってれば。
……家には一人で帰ってほしいけれど。
「まあ、俺も久しぶりに誰かと一緒に飲めて……楽しかったよ」
これは心からの言葉だ。面白おかしくまくし立てる河村の話を聞くだけでも、十分楽しかったのだ。誰かの話を受け身で聞いて、あいまいに頷いたり笑ったりして、意見が一致するときもあればしないときもあって、その違いに2人でまた笑い合ったりする。
それだけ楽しかったというのもあって(もちろん会社の先輩というのが一番だが)、河村の面倒を最後まで見なければと思ったのだ。
「……よかったぁ、吹田さんも、楽しんでくれたんですねぇ……うれしいなぁ……」
ふにゃっとした笑顔でそう言われると、すこしばかり恥ずかしくなってきた。
「なんというか、吹田さんって……私の話を100%で肯定しないじゃないですか。それに、私を美人だとかって持ち上げたりもしないですし」
そういうことを、会社の懇親会で言われ続けてきたんだろうな。
「ただのどこにでもいる女性社員を見るみたいな顔で、私の話をあいまいに肯定したり否定したりとか……それでいて、ウケを狙った笑ってほしいところではちゃんと笑ってくれて……それに、最後まで面倒見てくれるし……あ、これはあの、本当に今でも申し訳ないって思ってます!」
「いいよ。次から飲みすぎないようにさえいてくれたら」
さすがに二回目は懲り懲りだ。
「はぁい」
にこにこと肘を立てながら、河村は俺の顔を見つめている。何がそんなに面白いのだろうか。
「なんだか、吹田さんと一緒にすると、すっごい気が楽なんですよ。安心するって言うか……、他の人の視線は嫌ですけど、吹田さんなら、いいかなって」
気が付かないうちに高評価を頂いてしまっていたようだ。
「それで、なんですけど……吹田さんが、よかったら……次も、お酒に誘っても、いいですか……?」
とろんとした瞳で、俺にジトッとした目線を向けてきた。河村の軽やかで甘い匂いと、華やかなアルコールの匂いが交じり合う。
「……せめて週に2回までな」
「ふふふー、やったぁ♪」
女性社員と一対一で飲むのは……別にコンプラ違反ではないよな?
「これで楽しみが増えちゃいました!」
河村はウキウキが止まらないのか、今度は濃い目のハイボールを頼もうとしていたので流石に止めた。
「俺と飲むんだったら、お酒は……もう3杯飲んだのか、じゃあ、あと1杯だけだからな」
「えーっ!? じゃあ、吹田さんと4杯までしか一緒に飲めないんですか!?」
「そりゃそうだろ、また酔いつぶれたら構わん」
「むー……じ、じゃあ……何回か飲んで、私がこれ以上飲んでも大丈夫だなって信じてくれたら、飲む量を増やしてもらってもいいですか?」
これからそんな何回も行く前提なのかよ。
「まあ、俺を納得させられるんなら……」
「よーし! 頑張って酔いつぶれない女になります! 見ててくださいね」
そうして両手で拳を作って、頑張るぞ! と元気に意気込みを表明してきた。
やれやれ……まったく、変な後輩になつかれてしまったもんだ。
「あ、店員さん。すみません、ハイボールを……濃いめじゃなくて、そうメガでもなくて普通の……あの、隣でギャーギャー騒いでるのは無視してもらって構わないので、はい、それじゃよろしくおねがいします」