冬の樹海
凛と空気が張っていて、とても静かなのに命の気配はする。
ここは富士山麓にある青木ヶ原樹海。『Suicide Forest』の名前で世界的に有名な場所。私は姉を捜しにこんな遠くまでやってきた。
「ケイティ……。私、日本に行くわ」
それが最後に聞いた、姉──メアリーの言葉だった。
姉が何を思っていたのかは知らない。
ただ、ネットで知り合ったタクトという名前の日本人男性に恋をしたらしいことしか私は知らなかった。
日本に旅立ってから、姉との連絡は途切れた。
どれだけ無事を尋ねても返信がない。
パパもママも心配で夜も眠れなくなった。でも二人には離れられない仕事がある。
大学生の私が一人で姉を訪ねることとなった。しかし、姉が住んでいるはずのアパートに姉はいなかった。
ただひとつ、姉が親しくしていた近所のアメリカ人友達から、情報を得ることができたのだった。
『メアリーはJukaiへ行くと言っていたわ』
・ ・ ・ ・
初めて訪れた日本は、冬だというのに暖かかった。ニューヨークの寒さに慣れている私にとってはまるで南国へ来たようだ。
それでも富士山へ近づくにつれ、気温は低くなる。ダウンジャケットのファスナーを閉めて、マフラーを首にしっかり巻き、私はバスを降りた。
バスの停留所から樹海の入口はすぐだった。朝靄の立ち込める中を、私はその世界へと足を踏み入れていった。
宛などない。ただ、姉はここに来たはずだ。
樹海の外で、聞き込みをして回ってはいた。
「すみせん。この人を探しているのですが、見覚えは?」
スマートフォンの待ち受け画面をメアリーの写真にして、通行人やお店の人に聞いて回ったが、手がかりはなかった。聞こうとしても私の英語を怖がるように、困ったように逃げていく人もいた。何か答えてくれても私が言葉を理解できない。
わかっていたことだが、日本語を喋れるメアリーと違い、「コニチワ」と「アリガトゴザマス」ぐらいしか日本語を知らない私には、出来ることが限られすぎていた。
英語の出来る人ぐらい、いくらでも出会うことはあるだろうとたかをくくっていたのが間違いだった。誰も英語を少しぐらいしか話せないようだ。しかも発音がとても聞き取りづらい。
自分の足で捜すしかなくなった。
無謀だ。わかってる。ここは自殺の名所と聞いている。しかもだだっ広い。
私は木の上からぶら下がっているメアリーを、偶然見つけることを望んでいたのだろうか。
宛もなく、歩き続けた。姉の名前を何度も叫びながら。
凛とした空気が身を締めつける。こんな広い樹海だというのに、まるで密室に閉じ込められたかのようだった。
「メアリー!」
カサカサと、湿った土を踏んで歩いているのに、乾いた足音がした。
「メアリー! 聞こえたら返事をして!」
空は真昼だというのに薄暗く、それでいて色が抜けたように白っぽく、私を見下ろしていた。
叫びながら歩き続けていて、気づいた。
ここから私は帰れるのだろうか? 振り向くと道などなく、自分のトレッキング・シューズの足跡も地面にはついていない。
周囲は見回しても同じような景色で、細い枝を悪魔の腕のように張り巡らした木々が、私を取り囲んでいた。腐っているのか、地に倒れ伏したものや、頭から上のない樹木も多かった。
スマートフォンのマップ画面を開くとGPSが失われている。
もうだいぶん歩いていた。
「どうしよう……。私まで帰れなくなったら、パパもママもどれだけ悲しむか……」
私がそう呟いた時だった──
樹海の奥から誰かが駆けてきた。少女だった。
13歳ぐらいにその子は見えた。いや、日本人は幼く見えるので、もう少し上かもしれない。15、6歳ぐらいだろうか。
不自然なほどに白い化粧を顔に施していて、唇は真っ赤に染めている。青白い歯を見せて笑いながら、まっすぐ私のほうへむかって走ってきた。着ている白いセーラー服の襟とスカートが風に膨らんでいた。
「こんにちは!」
英語で私が声をかけると、少し離れたところで少女が立ち止まり、睨むように私を見た。
「よかった! 人に会えるとは思ってなかったよ。……あなた、英語は喋れる?」
「喋れるよ」
少女はなんだか可笑しそうな顔をしながら、壊れた英語で言った。
「お姉さん、おかしい。へん。こんなところ、なんで?」
「そうね。こんなところに一人でいるのは変かもね」
私はうなずき、聞いた。
「姉を探して日本に来たの。この人よ。見てくれる?」
私がそう言ってスマートフォンを差し出すと、少女は足音もなく歩いて近づいてきた。そしてすぐ側まで来ると、なんだかニヤリと笑いを浮かべ、青白い眼球で私を見上げ、言った。
「なに、これ。なに? なんの? へんな?」
そう言われて私もスマートフォンの画面を見て、思わず声をあげかけた。画面にはメアリーの顔ではなく、私の顔が写っていた。撮った覚えのない写真だ。まるで別人のように、闇を背景に、歯を見せて不気味な笑いを浮かべていた。
「へんなひと! へんな! へんな!」
少女が大声をあげて笑いだした。
おかしいなと思いながら、私はスマートフォンをポケットにしまい、口で彼女に説明することにした。壊れた英語でも言葉が通じるのはありがたい。
「アメリカ人女性……私の姉でメアリーっていうんだけど、『樹海へ行く』と友人に告げたきり行方不明なのよ。何か知らないかしら?」
腰を落として子どもに接するように聞いた。少女の顔は近くで見ると東洋人特有の表情のわからなさが際立ち、正直いうと少し気持ち悪かった。のっぺりとした顔に動きの少ない目と口。何を考えているのかわからない。
「樹海には、人が棲む」
少女が能面のような白い顔を笑わせながら、言った。
「聞くなら人に聞け。わたしに聞け。いや聞くな。はははっ!」
そう言うと、くるりと背をむけ、走りだした。私が呆然と見送ろうとすると立ち止まり、振り返った。ついて来いというのだろうか。
「待って!」
私は何度も彼女の背中に呼びかけた。
少女の足は速く、まるで風のように木々の間を抜けていく。
「速いわ! 待って! お願いよ!」
彼女を追いかけて、ますます私は樹海の奥へと入り込んでいった。
冬の日は短い。まだ夕方だろうのに、暗くなりはじめていた。
闇が降りはじめた樹海のむこうに明かりが見えてきた。私がそれに気づいて目を離すと少女は消えていた。
村だった。樹海の中にこんな人が生活する村があるなどとは聞いたことがなかった。
建物はすべて木製で、古い家のように見えたが、壁の板は最近建てたもののように新しく、屋根の瓦も清潔な光を浮かべている。
家の中からおじいさんが出てきた。元気に腰の伸びた人で、しかし年齢はかなりお召しになっているように見えた。
「すみません」
声をかけると、こちらを振り向いた。穏和そうな笑顔を浮かべているが、やはり東洋人の顔は能面のように見えてしまう。
「あの……。英語……わかりません……よね?」
とても言葉が通じそうにないと思ったのでそう言ったのだが、老人はとても流暢な英語で「どうしてここにいる?」と逆に私に聞いてきた。
私は神に感謝し、老人と会話をはじめた。
「セーラー服の少女に案内してもらったんです」
「ああ……。コトコか。あの子に出会ったんだね? 何をしにこんなところへ来なさった?」
「姉を探しているんです」
そう言ってスマートフォンを出しかけて、やめた。口で説明したほうが早いだろう。
「ここへ来たはずなんです。私と髪の色が同じなの。……知りませんか?」
老人は首をゆっくりと横に振った。
別の家から、今度はおばあさんが出てきた。背は低いけれど、腰のまっすぐ伸びた白髪の婦人だった。おじいさんと同じような白くてシンプルな日本服を着ている。
「あら、お客さんかい? 珍しい」
彼女も流暢な英語でそう言った。
「お姉さんを探して来たらしい」
おじいさんがそう教えると、おばあさんは優しくにっこりと笑い、私に言った。
「日が暮れるよ。今日は私らの家に泊まっていきなさい」
家の中はとても綺麗で、何より日本的な情緒に満ち溢れていた。『イロリ』というものが部屋の真ん中に設えてあり、火にかけられた鉄鍋がぐつぐつと、いい匂いのする湯気をあげていた。
味噌スープで煮込んだ野菜や鶏肉をご馳走になった。それはとても滋味に溢れていて、美味しかった。何より体の芯からあったまるのが嬉しかった。
しかし私は観光に来たわけではない。食事が済むと、おばあさんに聞くことにした。
「もう、いいのかい?」
おかわりを勧めてくれる彼女に、私はスマートフォンを取り出して見せようとした。
「行方不明の姉を探しているんです」
そう言ってスマートフォンを立ち上げて、息を呑んだ。
待ち受け画面は真っ暗だった。よく見ると木々の影があり、その隙間から月明かりが射している。それは樹海の夜の景色のようだった。
上にスワイプしてもホーム画面に切り替わらない。時計も何も表示されていない。
『樹海ではコンパスが利かなくなる』という噂は迷信だと聞いていたのだが……。スマートフォンはおかしくなってしまった。
「どうしたの?」
おばあさんが心配そうに聞いてくれたが、私はスマートフォンをポケットに直すと、安心させようと笑ってみせた。
そして聞いてみた。
「ここはどういう集落なの? そういえば宗教団体のコロニーのようなところはあると聞いていたわ。ここがそうなの?」
「よくわからないわ」
おばあさんは私の笑顔に笑顔を返し、鉄鍋をイロリから外しながら、言った。
「私たちもよくわからないのよ。なぜ、私たちが、ここにいるか……」
ふと、気づいた。
窓から誰かが覗いている。
急いでそちらを振り向くと、あのセーラー服の少女『コトコ』がこちらを覗き込んで、意味ありげに笑っていた。
私が近づき、ガラス窓を開けても、真っ白な顔でニヤニヤ笑いながらまっすぐこちらを見ている。
「コトコっていうのね、あんた」
気味の悪さに私は笑顔を浮かべることが出来なかった。
「ここへ案内してくれてありがとう。感謝しているわ。でも……。ところで何をしているの?」
「お姉さん、あぶなーい」
からかうように笑いながら、コトコは言った。
「そのババァ、あぶないよ。怖い、怖ぁい」
失礼なことを言いだしたコトコに腹が立ち、窓をピシャリと閉めた。振り返ると、おばあさんはニコニコと笑っていた。
「今夜は楽しいことがあるよ」
おばあさんが、そう言った。
「みんなで集まって、楽しいことをするんだ。あんたも一緒に参加しなさいな」
火が燃えていた。
オレンジ色を湛えながらも、それは心なしか、青っぽく見えた。
ひとつひとつは小さな、火の玉のようなそれが、いくつも並び、暗闇の中にまるで踊っているようだった。
そんな火に囲まれて、村の住民のおそらく全員がそこに集まっていた。真ん中にはいくぶんおおきな火が燃えており、人々は円を作って立ち並び、みんな黙って立っていた。
老人や若い夫婦、少年も少女もいた。さまざまな人が火をただ見つめて立っていた。誰もが白い、簡素な服に身を包んでいる。日本服の人が多いが、ワンピースの婦人や学生服姿の男の子もいた。色だけが統一されて、白だった。
「あの……」
みんなが黙っているので声をかけにくかったが、勇気をだして、さっきから私の隣にいる若い男性に、私は話しかけた。
「英語、喋れる?」
「僕はカズオ。よろしく、ケイティさん」
流暢な英語で彼は名乗り、綺麗な笑顔をくれた。
「ミホさんから聞いたけど、お姉さんを探しているんだよね?」
「よかった」
私は再び神に感謝した。
「あなたと同年代ぐらいだけど……タクトという男の人を知らない? 姉はそのタクトと語学学習サイトで知り合って、恋に落ちて、それで日本を訪れたの。でも、『樹海へ行く』という言葉を残して、それから行方不明なのよ」
「タクトか……。その名前、覚えておくよ。残念だけど、僕は何も知らない。力になれたらいいんだけど……」
メアリーの気持ちがわかったような気がした。
日本人の男の子はとても優しくて、かっこいい。サムライのような気品と威厳がありながらも、現代的なスマートさも持ち合わせている。白い日本服もとても似合っていた。ただ、積極性に欠けるとは聞いたことがある。後で二人きりになれる場所へ行こうなどと誘ってくれそうな印象はなかった。
「おい!」
白いひげを蓄えた、背の高い一人の老人が、私に指を突きつけながら近づいてきた。
「なぜおまえは黒い服を着ている? 着替えなさい! 白い服に」
私は自分の服装を見た。黒いダウンジャケットにジーンズ。確かに白い服ばかりの人の中で浮いていた。日本人は調和を重視すると聞く。学校の制服などを見ればなるほどと思うところだ。
「ごめんなさい」
私は老人に謝ってから、隣のカズオに聞いた。
「白い服に着替えたいの。どこかにある?」
「僕の家に妹のがあるよ」
カズオは引き込まれそうな優しい目をして、うなずいた。
「取りに行こう。村長に断ってから、ね」
背の高い老人は村長さんのようだ。
カズオは彼に日本語で何かを言った。『ソンチョウ』、『タマシイ』、『ミチズレ』という言葉が聞き取れたが、意味はわからなかった。
真っ暗な樹海をカズオに先導されて歩きながら、彼に聞いてみた。
「ねぇ、あの集まりって、これから何をするの? おばあさんからは『楽しいこと』って聞いたけど」
「楽しいことだよ」
カズオは背を向けたまま、詳しくは教えてくれなかった。
「とっても楽しいことだから、期待してて」
「それにしても」
私はもう一つ、気になっていることを聞いた。
「あなたたちって、みんな流暢な英語が喋れるのね。日本人の英語ってだいたい発音が変なのに、あなたたちはみんな綺麗な英語を喋る。何かみんなで学習会でもやってるの?」
左側の森に、何か白いものを感じ取った。
急いで振り向いて確認すると、木立のあいだにコトコが立って、こちらを見ていた。いつものあの笑顔は消えている。
「お姉さん、危ない。そいつ、危ない。逃げる」
コトコの英語だけが聞き取りにくい。壊れている。
「だめ。戻る。デキナイ。あきゃきゃ。死、死」
「こら、コトコ」
カズオが優しく、彼女を叱りつける。
「お客さんに変なことを言ってはだめだ。不安にさせちゃ、いけないよ」
私は、気づいた。
カズオの横顔を月明かりの下に見ながら、気づいた。
彼の口の動きと言葉が、まったく合っていない。
コトコが突然、私の手首を掴んだ。少女とは思えない、物凄い力で引っ張られた。
「コトコ!」
背後でカズオが叫ぶのが聞こえた。
「ケイティ! どこへ行くんだ! もう、ここからは出られないぞ!」
コトコに引っ張られ、樹海の固い地面を滑るように、私は走らされた。
ようやく止まると、地面に突っ伏した。
コトコが立ち止まり、赤い月を背に、倒れた私を見下ろしていた。
「何……? あなたたち、何なの?」
何もかもわけがわからなくなって、私は彼女に聞いた。
「この世のものではないの? この樹海で自殺した人たちの……霊なの?」
「あたし、マトモ、女の子」
コトコは教えてくれた。
「あなたが、幽霊。あたしから見る、したら」
「私が……幽霊?」
「あたし、人間。あなた、幽霊。あたしからしたら。まともな人間は、あたし。まともな幽霊に見える、あの人たち、危ないの。人間が、まともな幽霊に見えるはず、ないでしょ。バーカ」
コトコはそう言ってケタケタと笑った。
意味はわからなかったが、なんとなくわかった気のすることは、あった。
「あなたみたいな壊れた感じのほうが……幽霊としてはまとも……。そういうこと?」
なんとなくだが、わかってきた。
「まともな人間に見えるような幽霊は……人を騙して、どこかへ引きずり込もうとしている……?」
「あんたも、引きずり込まれる」
コトコはさらに大笑いをはじめた。
「あんたのシスターも、そんなふうに、かもね。引きずり込まれた!」
「やめて! それ以上言ったら、ただじゃおかないわよ!」
ケラケラと笑うと、コトコが物凄い速さで走りだした。
腹は立つ子だけど、こんなところに一人で置き去りにされてはたまったものではない。
「待って!」
私はコトコの背中を追いかけた。
しかしそれは、あっという間に闇の中へ消えてしまった。
真っ暗な樹海の真っ只中に置き去りにされた。
スマートフォンを取り出してみるが、充電が切れたのか、画面は真っ暗なままだった。
「メアリー……」
私は無駄に動くのをやめ、その場で膝を抱いて座り込んでしまった。
「パパ……。ママ……。あたし、どうなるの」
寒かった。ダウンジャケットを着ていても、夜の樹海の冷気は骨の髄までを侵食してくる。
私はここで死ぬのだろうか。国と家族を遠くに残して、こんな異国の、冬の樹海の中で。
暖かい実家で、家族と過ごした日々が頭の中を通り過ぎていく。パパがいて、ママがいて、愛犬のジョンがいて、そしてメアリーがいる。美味しいご馳走を囲んで笑い合っていた。南の窓から爽やかに日が射し込んで、私とメアリーは子供時代からつい最近までを短時間で成長した。
「タクトとはわかり合っているのよ」
潤んだ目をしてメアリーが言った。
「私の悩みはタクトの悩み、タクトの◯◯は私の◯◯」
よく思い出せない。
メアリーは何と言っていた?
あまりにも興味がないことだったから、聞き逃していた気がする。
枝を踏むような、乾いた音が聞こえた。
地面から震動が伝わってくる。膝に埋めていた顔を急いで上げて見ると、木立の隙間に無数の松明の青白い炎が見えた。
カズオたちだとわかった。私を探しているのだ。
私は素速く立ち上がり、駆けだした。
「ここです!」
手を振りながら、彼らのほうへ駆けだした。
「ここよ! ケイティよ! ここにいるわ!」
カズオたちは私を捕らえると、木の檻の中に監禁した。
わかっていた。彼らは私を『引きずり込むために』探していたのだ。
それでも何もないまま死んでいくよりはましだと思ってしまった。それで炎に誘われる蛾のように、彼らのほうへ駆けだしてしまった。
「これに着替えなさい」
青白い顔をした老婆がそう言って、檻の隙間から白い日本服を渡してきた。
「これから私をどうするの?」
「着替えなさい」
よく見ると、老婆もカズオと同様、口の動きと言葉がまったく合っていなかった。言葉は流暢な、滑り台に水を流すような綺麗な英語なのに、口はタカタカとマシンガンのような動きをしている。明らかに彼らは日本語を喋っているのに、私の耳には英語として聞こえてくる。あるいはその声は私の頭の中に直接響いてくるようだ。どうして今まで気づかなかったのか。
カズオが檻の前に立った。
「カズオ……」
私は予感していたことを尋ねてみた。
「本当は……姉のことを知っているんでしょう?」
するとカズオはとても優しい笑顔を浮かべた。手に持った太いロープを解きながら、私の質問に答えてくれた。
「騙すつもりはなかったんだ。今夜の集まりは、メアリーとタクトを新しく迎えるためのお祭りだったんだよ」
口から青いよだれのようなものを垂らすと、黄色い牙を覗かせて、優しく笑った。
「彼らはここで自殺したんだ。僕らの仲間だ」
「自殺……? どうしてメアリーが……」
悲しみが急激に襲ってきた。
「あんなに幸せそうだったのに……! タクトに恋してしまったって……いつも言ってたのに!」
「本人に聞けば?」
カズオがそう言うと、彼の背後から、探し求めていたその人が歩いてくるのを見た。
今にも倒れそうな足取りで、長い赤髪を揺らして、白い日本服に身を包み、愛しい姉の顔に真っ白な化粧をした幽霊が、赤い目で私を睨みながら、近づいてきた。
「メアリー!」
私は胸が張り裂けそうだった。
「あんた……! なんで!?」
「ケイティ……。バカな子。なんで? なんで、ここ?」
メアリーの喋り方がコトコにそっくりだった。裏側に蝿でもいるような動き方で、眼球がぐりんぐりんと動いている。
その手には日本人男性の生首が抱かれ、彼は死んでいるように目を閉じていたが、メアリーが喋るとそれに反応するように目を開けて、母親でも見上げるようにメアリーの顔を見た。
「夢でしょう、これ?」
嗚咽混じりに私は神に問いかけた。
「夢を見ているんですよね、私? とんでもない悪夢を」
「ここは僕らの楽園だよ」
カズオが言った。
「死にたかった者たちが、望みを叶えて、新たな楽園の生活を送る場所だ。君もこれから一緒にここで暮らすんだ、ケイティ」
カズオの後ろに、白い服を着た人たちが並んでいた。みんな私を愛してくれているような笑顔で見つめていた。
思い出した。
メアリーの言葉を。
『タクトの信仰は私の信仰』
一体、タクトに何を唆されたというの? あんなにノーマルで、健康で、おかしなところなどひとつもなかったメアリーが……なぜ、自殺なんか……?
コトコがみんなの後ろから走ってきた。私のすぐ前に立つと、真っ赤な唇を歪めて笑い、ざまぁみろというように、こう言った。
「助けてあげられなくてごめんねっ!」
カズオが手に持った縄を張り、ピシリと鋭い音を立てた。
・ ・ ・ ・
樹海は天国だ。
私は今、カズオと結婚し、日本で夢のような生活を送っている。
日は優しく降り注ぎ、穏やかな生活がここにある。子供を作ることは出来ないけれど、彼がいてくれて、メアリーとタクトもすぐ近所に暮らしている。
新しい仲間もよくやってくる。そのたびにコトコが逃がそうと余計なことをするけれど、あの子は頭がイカれてるから、逃がそうとしながら私たちのところへ案内したりする。
飛び降りたり、電車に轢かれたりしないので、ここに来る仲間はみんな綺麗な体で、心も綺麗だ。しかし仲間になりたては誰も顔が真っ白で、喋り方も寝ぼけているようで、正直気持ちが悪い。
でも長いあいだここで暮らしていれば、馴染んでくれる。そのうちすっかり私たちと同じものになって、そのうちあっち側のことはすっかり忘れてしまう。ここへ来ておそらくは百年以上になるというカズオのように。忘れたけれど、私はまだそんなには経っていない気がする。
私は自分がどこの国の人間で、どんな人に育てられたかなど、既にまったく覚えていない。メアリーとは何か関係があったような気がするけど、そんなことはどうでもいい。
みんな、平等で、みんな、愛し合っている。
誰もがみんな、ここに来ればいいのに。
ここは天国だ。取り巻く炎の中から私たちは一歩も出ることは出来ないが、この中ですべては満ち足りている。
何もいらない。退屈もないから外へ出たいとも思わない。
コトコのようにおかしな子だけが外へ出ていける。
どうでもいい。
ここから出る必要性を感じない。
私は腐った体を抱え、永遠にここで、根を張れる柔らかい土はないけれど、地面の上に横たわり、黒い木々に囲まれて、冬の寒さも感じずに、生きていきたい。
コトコがむこうから駆けてきた。
私の眼窩を除き込むように、勢いよく真っ白な笑顔を見せつけると、赤い口から唾を飛ばしながら、大声で言った。
「騙されるなよ!」